—- 【愛慕】
思えば、私の人生は堪らなく乾いており、何の色味もありませんでした。
私は巨大帝國の主『不死皇帝』の妃となるべく教育を受け、外の世界を知らぬまま育ったのです。
先代の『皇妃』である母が亡くなり、お役目を継いだのは十三の頃でした。
皇帝廟の奥深くで祈りを捧げる陛下に仕え、その御言葉を神託として臣下へ伝える。それが私の役目であり、それだけが、私が生きている理由でした。
◆
そんな私の人生に変化が現れたのは、皇妃となって数年が経ったある日のことでした。
当時は少佐であった、エヴァリスト・ヴァルツという人物と出会ったのです。
彼のことを最初に知ったのは、シドール将軍からの報告でした。
有能な若い将校がおり、これからのグランデレニア帝國を背負うに値すると。その様なことをシドール将軍が熱を込めて話す様を見て、私はある種の興味を抱きました。
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そうです、初めはただの好奇心だったのです。
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短い邂逅を重ねる内に、彼の野心や帝國内での地位を上げていく目的が、うっすらとですが垣間見えてきました。
そして、彼の意志の強さや短期間で栄達を重ねるその手腕に、私は興味とは別の感情を少しずつ抱いていくようになりました。きっと、自らの意志で突き進んでゆく彼が羨ましく、そして眩しかったのでしょう。
この感情を言葉で表すとすれば、それはおそらく『異性への好意』と言っても差し支えはありません。
その感情を自覚した時、私は過去の自分を顧みて、彼と比較せざるを得ませんでした。
そして、自分は自分の意志で何も成し遂げたことがない、そのことに気付かされたのです。
私は皇帝陛下に囚われている。そんなことを考えるようになっていました。
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「先の話、考えていただけたかしら?」
「はい、私でよろしければ」
彼は私の言葉に躊躇いなく答えました。
「それはよかった」
彼の目には確かに私が映っていました。それだけで十分でした。
彼がどのような野心を抱いていようとも、私は彼の後ろ盾となってそれを後押ししよう。そう心に決めるに十分でした。
「私にはあなたが必要です」
この先何が起こったとしても、エヴァリストならきっと私を救い出してくれる。
彼の瞳に宿る意志に、私はそんな可能性を見出していたのです。
「光栄です」
エヴァリストが私を優しく抱き締めてきました。彼の両腕は、私をどこまでも優しく包み込みます。
高鳴る胸、今まで一度も感じたことのない高揚感。
私は、そういった感情に酔いしれていました。
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ですが、私のこの感情、この大切な感情は、脆くも簡単に崩れ去っていくものなのだと思い知らされました。
私が何を考え、エヴァリストに何をやらせようとしているのか。そういったことも、私が抱いた感情も、陛下は全てを見通していたのです。
「アリステリアよ、全ては我が手の内にある。火遊びは程々にせよ」
「申し訳ありません。私は――」
「火傷をせぬうちに、手を引くがよい」
陛下はそう仰ると、私の目を見つめてきました。
ですが、陛下の目に私は映っていませんでした。陛下は私を見ながらも、私を見ていなかったのです。
エヴァリストに会いたい。私のその思いを全て塗り潰すように、陛下は私の頭を抱え込みます。
そして次の瞬間、私の意識は闇に包まれたのです。
◆
これ以降、エヴァリストと逢瀬を重ねる私の中に、『彼を殺せ』という心の声が響くようになったのです。
私はいつの間にか、ドレスの裾に切れ味の鋭い短剣を携帯するようになっていました。
おそらくこれは、陛下が私に課した罰なのでしょう。陛下の所有物でありながら別の男性に気を許し、あまつさえ愛慕を抱いてしまった。そんな私への罰。
繰り返される心の声を何とか振り払い、私はエヴァリストとの逢瀬を重ねました。
彼といる間だけ、私は『皇妃』の立場を捨て去ることができ、只の『アリステリア』であることができる。
私の弱い心には、それだけが救いだったのです。
◆
心の声に逆らい続けて、数ヶ月が経ちました。
「あの時に忠告した筈だ。アリステリア」
「陛下……」
「二度はない。それはお前が一番よく知っていよう」
陛下は感情のこもっていない声でそう告げられたのです。
私の心がエヴァリストと出会う前の、乾いたものへと戻っていってしまう。
私の力では、その流れに逆らうことはできませんでした。
◆
数日後、エヴァリストが何者かに襲撃され、重傷を負ったとの報告がありました。
その報を受けて以降、私は彼と会うことを避けました。
賢明な彼のことです。私の行動から、私が皇帝陛下を裏切ることができなかったことに気が付いたことでしょう。
このまま私との関係を絶ってほしい。一介の将校として帝國にその身を捧げるか、いずこなりへと逃亡して欲しい。
私の必死の願いも虚しく、三ヶ月後、彼は私との逢瀬を求めてしまいました。
◆
尖塔のバルコニーに並ぶ私達の間を、夜風が通り過ぎました。
エヴァリストは寒さに肩を震わせる私にコートを掛け、そして、私の髪を撫でながら優しく口づけをしてきました。
「陛下、貴女ですね? 情報を渡したのは」
彼が私に囁いてきた言葉は、とても残酷な言葉でした。
ああ、やはり彼は気が付いているのだ。そう思いながらも、私は彼をじっと見つめることしかできません。
「貴女は私に助けを求めていた筈。それとも、全て私を陥れるための行動ですか?」
エヴァリストの口調はただただ囁くような声色で、本当に優しいものでした。だからこそ、却ってそれが私の存在を惨めなものにさせていきます。
いっそ怒りに任せて罵ってくれれば、そうしてくれればどれほど楽だったことでしょう。
「選択肢など、私には初めから無かったのです。生まれ落ちてから、そして死ぬまで」
私は今にもこぼれ落ちそうな涙を堪え、彼を見つめます。
「私ならその軛から逃してあげられると申し上げた。それは奢った気持ちからではありません」
彼はどこまでも私に対して誠実でした。ですが、もうここで終わりなのです。
「もう遅いのです……」
そう言葉を洩らした次の瞬間、尖塔に衝撃と爆音が響き渡りました。
尖塔全体が大きく揺れ、赤い光が視界の端に映ります。
あぁ、始まってしまいました。私が何をどうしようと、彼がここへやって来た瞬間から、この運命は決まっていたのです。
「ここは危険です。さあ、こちらへ」
なおも彼は私を助けようとしてくれました。ですが、私の精神はもう限界を迎えています。
脳内に響き渡る『殺せ』という心の声は、私を蝕み尽くしていたのです。
私は心の声から逃れるようにエヴァリストの腕を振り払うと、彼との距離を置きました。
「陛下、私の誠心に変わりはありません。ご事情は後で伺います」
「もうよいのです……もう終わりです」
私は目を閉じて頭を振ります。
「皇妃が正しい。終わりだ、エヴァリスト」
協定審問官の声がバルコニーの入り口から聞こえてきました。
咄嗟にエヴァリストは私を庇うように立ち位置を変え、剣を抜きました。
この尖塔で何が起こっても、彼に戦う手段さえ渡しておけば、彼は生き残ることができる。例えそれによって私が彼に切り伏せられたとしても、彼だけは生き残ってもらえる。そう判断して、彼には皇宮内での帯剣を許していました。
「貴様が塔に火を放ったのか?」
「それはどうでもいい話だ。それよりも、お前は皇妃を守れるのかな?」
協定審問官の視線は私に向けられています。その目は「早くエヴァリストを刺せ」とでも言いたげです。
元々そういう手筈だったのですから、審問官がそのような視線を送るのも当然です。
ですが、私は審問官の視線から逃れ、バルコニーの欄干に立ちました。審問官の目が一瞬だけ驚くように見開かれましたが、すぐに元に戻りました。
「陛下、おやめください!」
エヴァリストが声を荒げます。
「さようなら、エヴァリスト」
私はそのまま欄干から身を投げ出しました。
エヴァリストは片腕を伸ばして私を助けようとしてくれましたが、結局は審問官によって叶わなかったようです。
それでよかったのです。私という枷が無くなれば、彼は生き延びることができるのです。
◆
ああ、でも本当は……。貴方が私に囁いてくれた言葉に縋りたかった。貴方の言葉を信じ、貴方と一緒に新しい道を歩みたかった……。
皇帝陛下の傀儡としてではなく、一人の女として貴方に出会いたかった。
漆黒の死に向かっていく私は、そう願ってしまったのです。
「―了―」