06クレーニヒ1

3394 【夢幻】

静寂が支配する空間に、ページを捲る音だけが響いていた。

幽かに歌う妖精の声音にも似たそれはしかし、僅かな焦りと苛立ちの感情を内包していた。

「これも違う。わからない……どれもあの“夢”とは違う……」

肩にまでかかる栗色の髪を揺らして、クレーニヒは誰にともなく呟いた。

手にした本を周囲に積まれた本の山の上に載せ、別の山から新たな本を手に取る。再びぱらりぱらりと不規則な音だけが図書館にこだまする。

本来、工学師《エンジニア》の中でも上級職と言われる上級工学師《テクノクラート》しか立ち入ることのできない専用区画。その一画に設置されたこの図書館には、自動機械《オートマタ》関連の技術書だけでなく、黄金時代と呼ばれた旧時代の遺物までもが管理されていた。ある意味において、導都パンデモニウムの知の源と言ってもいい。

膝の上でページを捲っていた本を先程と同じ山の上に載せ、クレーニヒは再び新たな本を手にする。

「精神病関連の書籍か」

あまり気は進まなかったが、何かのヒントが得られるかもしれないと、先程書棚から抜き出してきた本だった。

自らの身に起きていることを調べる者が精神を病んでいたという結論に辿り着いたとしたら、それはまるで喜劇のようじゃないか。自嘲気味に口の端をゆがめる。

いっそ喜劇ならば、どれほど良かったか。

目を凝らせばいつでも見ることのできる幻像。

この世のものとは思えない様々な生物や自然、空や大地、世界の在り様。それは物心ついたときからクレーニヒのすぐ身近にあった。

最初は“夢”だった。

いや、“夢”だと思っていた、と言うべきか。

ベッドに入って目を閉じると、いつもその世界はクレーニヒの眼前に現れた。

うねりを伴って押し寄せる白と黒。その謎の液体――液体かどうかすらも怪しいが――の波は、何かを打ち寄せては消え、引き寄せては現れた。

目を凝らすとそれは人だった。動かない人の身体が、光る海の中を漂っていた。

水平線に目をやると、巨大な背びれを持った生物が黒白の海面から姿を現した。海中にその全容を隠したまま、生物はこちらに近づいてくる……。

そこでクレーニヒは目を覚ました。

冷たい汗が額を濡らし、幾筋かの髪の毛が不快感とともにわだかまっていた。早鐘を打つ心臓が血流の勢いを増している。

“夢”と呼ばれるものは、皆こういうものだと思っていた。

しかし成長するにつれて、人の言う“夢”と自分の“夢”に違和感を覚えるようになった。最初はわずかな差異でしかなかったその違和感は次第に大きくなり、十代も半ばになった今では、もはや確信と言えた。

自分の見る“夢”は、他の人が見る“夢”などではありえない。

クレーニヒが体験する“夢”では、見える風景は常に異なっていた。必ず違うものとは言えないにしても、少なくとも同じ“夢”を見たことはなかった。

その“夢”に共通するのは、それらが実在する筈のない光景だということだ。

この世のものとは思えない景色。生態系から懸け離れた生き物達。ありえない色と音と匂いと味のする世界。

そして何よりもイヤだったのは、その世界にクレーニヒ自身がいないことだった。“夢”は必ず傍観者として、主体性の無い視点で映し出される。触れそうな現実感がありながら、観察者としての自分は触れるべき手を持たない。生物の匂いや空気の味さえわかり、時には感触さえもが知覚できるにもかかわらず、その風景に干渉することができなかった。

まるで、クレーニヒ自身が世界に溶け込んでしまったかのようだった。

目を閉じれば押し寄せてくる“夢”。いつしかクレーニヒは夜を畏れるようになっていた。

だが、その“夢”は夜だけに留まってはいなかった。

次第にクレーニヒの日常をも侵食し始めていったのだ。

ふと、部屋の暗がりに見える虹色の大地。目を瞑った拍子に広がる仄昏い海面。建物の壁に、風になびく紫色の奇妙な植物の草原が映し出されることさえあった。

それらの幻覚じみた光景は、最初こそ無視することで消し去ることができた。だが、その出現頻度は増大していき、クレーニヒ自身が自我を意識して集中せねば、いつまでも在り続けるようになっていった。

仕事で家を空けがちな父親の書斎で、上級工学師《テクノクラート》のパスキーを見つけたのはそんなときだった。

上級工学師《テクノクラート》しか入れない図書館には、旧時代や薄暮の時代《トワイライト・エイジ》における科学技術や医学、歴史、そして禁忌とされる知識が埋蔵されているという話を聞いたことがあった。

「あの図書館へ行けば、この幻覚の正体がつかめるかもしれない」

わずかな望みを抱き、クレーニヒは上級工学師《テクノクラート》専用区画へと忍び込むことにした。

上級工学師《テクノクラート》の専用区画とはいえ、図書館は研究施設のある場所とは懸け離れた位置にあった。

おかげでそのセキュリティは甘く、他の区画のように警備用自動機械《オートマタ》が動き回っているようなこともなかった。そもそも本で知識を得ようとする上級工学師《テクノクラート》が少ないのか、図書館の内部に人の気配は無い。長い間使われておらず、うっすらと埃が堆積している場所すらあった。

どれくらい時間が経っただろう。難解な文章が羅列された専門書からふと目を上げると、唐突にクレーニヒは奇妙な感覚に襲われた。

“夢”を見るときに似ているが、それとは少し違う。

意識ははっきりしているし、なにより、あの“夢”の世界が見えていない。

何かに導かれるように視線を動かすと、金属で作られた書棚らしきものが目に留まった。その書棚にはスライド式の扉がついており、他のものとは明らかに違っていた。

読みかけの本を足下に落とし、クレーニヒはその書棚に近づいていった。

「開かない?ロックされているのか」

力を込めても微動だにしない扉に阻まれ、その中を見ることはできなかった。

――開けてみたい。

無意識にそう思った途端、先程から続いていた奇妙な感覚が身体の奥から一気に溢れ出してきた。

その奔流に、血液が沸騰したような錯覚すら覚える。

いや、それは錯覚なのだろうか。

痛み、嫌悪感、吐き気、快感……あらゆる感覚が一体になってクレーニヒの身体を駆け巡った。

「……っ!?」

ぐらぐらと世界が揺れ、一瞬あの“夢”の中にいるかのような恐怖が背筋を這い昇る。

しかしクレーニヒが意識を保てたのは、皮肉にもその恐怖のおかげでもあった。必死に意識を集中し、自分のいる場所をイメージする。

「ここにいる!……ボクはここにいるんだ!」

倒れそうになる身体を書棚に預けて荒く呼吸を繰り返す。感覚の奔流は始まったときと同様、唐突に消失していた。

「なんだったんだ、今のは」

傾いた身体を起こそうと書棚にかけていた手に力を入れると、音も立てずに書棚のスライド扉が開いた。

おかしい。さっき触れたときは確実にロックされていた筈だった。しかもこの扉は電子ロックではなく、前時代的な鍵による施錠式だった筈だ。

だが、そんな疑問よりも書棚の中身のほうが興味を引いた。

「研究資料……?」

どうやら古い実験のレポートのようだった。

ケースに収められたそれを手に取って中を見ようとしたクレーニヒの視界に、ある筈のないもの――いや、いる筈のないモノが映った。

それが、クレーニヒと幻獣との最初の邂逅だった。

「―了―」