—- 【花】
巨大な神樹はある日花を咲かせ、奇妙な実をつけた。不思議なことに、その実には鳥も獣も興味を示さなかった。まるで見えていないかのように。そして、その黄色い実は巨大になると地面に落ち、中からアインと呼ばれた生き物が現れた。
◆
巨大な森の木々は太く、空は高い。
使命さえなければ長く留まっていたい、と思える程の心地良い森だった。
とはいえ、ここの自然にみとれている訳にはいかない。
アインのなすべき事は、黒いゴンドラ乗り達に奪われた宝珠の奪還なのだ。早く戻らなければ、妖蛆によって私達の森が食い荒らされてしまう。どんなに急いでも早過ぎるという事はない。
まずはこの森を抜け、この世界を知る必要がある。アインは自身の耳と鼻に意識を集中し、辺りの音と匂いを探ろうとした。
そこで、遅まきながら自らの体に起こっている変化に気が付いた。
体毛に覆われ、手足には肉球が付き、四足歩行をしていたのだ。もっと早く気付いて然るべきだった。
困惑の言葉を発しようとしたアインの口から出たものは、ヒトのものではなく獣の鳴き声だった。
「にゃあ」
◆
姿形が変わっても、使命は変わらない。
聴覚も嗅覚も元の姿であった頃より格段に落ちていた。辺りを調べることができなくなったアインにできる事は、歩くことだけだった。
幾日も歩き続けたものの、この森は思いのほか大きく、ヒトに会う事はなかった。
時にはアインを獲物とみた獣に生命を狙われる事すらあった。
◆
歩き続けている内に夜になってしまった。夜空には、他の星々を押し退けて一際明るく輝く、大きな丸い星があった。
ほんの少しだけ仮眠を取ったが、疲れが抜けきっていないのか、体が思うように動かない。しかし、すぐにそれが勘違いだったことに気が付いた。
全身を覆っていた体毛は無く、手足も見慣れた本来あるべき姿になっていた。
「戻ってる」
言葉を発しても気の抜けるような鳴き声が口から出ることはなかった。
とにかく、これでようやくこの世界で宝珠探しができる。
アインは再び自身の耳と鼻に意識を集中して、辺りの音と匂いを探った。
風で擦れ合う木々の音、獲物を求める獣の声、大地の匂い。
その中に今までに聞いた事のない音、金属音のようなものが聞こえる方角を見つけた。
その方角に絞ってさらに注意深く観測すると、何か呟きか話し声のようなものが聞こえてきた。
内容を聞き取る事はできなかったが、この世界のヒトである事は間違いなさそうだった。
他の場所にヒトの気配は感じられない。その人物の所にまで辿り着ければ、宝珠の行方の手掛かりが得られるかもしれない。
ひとまずの目標ができた安心からか、どっとした疲れに襲われたアインは深い眠りに落ちていった。
◆
アインが目を覚ますと、既に昼だった。昨晩中に移動を行えなかったのは手痛い失敗だったが、見つけた人物の方角は覚えている。その方角に向かって駆け出そうとした。
すぐにおかしな事に気が付いた。視点が低く、四肢を使って歩こうとしていた。
獣の姿に戻ってしまっていたのだ。
元の姿に戻れた原因はわからないままだったが、アインにそれを考えている余裕は無かった。
途方に暮れながらも、昨晩見つけた手掛かりに向かって走り続けた。
◆
突如目の前に現れた木にぶつかり、その足が止まった。
木の幹にも思えたそれは、植物などではなかった。
その四肢の伸びた先にある体は、人であったアインが幾人も乗れそうなほど巨大なものであった。頭部から足ではない何かが長く伸びており、白く巨大な牙が二つ生えていた。
見た事の無い獣の姿に呆気に取られ、アインは頭上にできた影に気付くことができなかった。
その獣にとってアインは小さすぎ、視界にも入らなかったのだろう。先ほど足にぶつかったときも、まるで気にした様子はなかった。
慌てて躱そうとした時には遅すぎた。巨大な足がアインの小さな体の半身を押しつぶす。
余りの痛みに、声を上げる事すらできない。
その巨大な獣は何事も無かったかのように、ゆっくりと去っていった。
◆
獣が去った後も、アインは激痛のあまり、その場から動く事ができずにいた。
覚悟はしていた。していたつもりだった。
体は獣の姿へと変わり、広大な森から出る事すら叶わない。
この世界での出来事はアインの想像を超えていた。
少し眠ろう。こんなところで死ぬ訳にはいかない。宝珠を待っている仲間がいるのだから。
◆
少年が森の中を歩いていた。かなり身なりの良い少年だ。
少年は視界に何かを捉え、そこへ向かって駆け出した。
所持していた剣の柄で、横たわっているアインの体をつつく。
アインには対話を試みる気力も、逃げ出す体力も残っていなかった。
反応が無い事を確認すると、用意していた袋の中にアインを詰め込む。
「よし、今度はこいつをコレクションに加えよう」
少年の顔は満足気で、足取りは軽かった。
「―了―」