3394 【嗤い】
目の前に死体があった。しかし、それにはあるべき筈の首がなかった。
何かに引き千切られたような首の断面と、むせ返るような血の臭いに、吐き気がこみ上げる。クレーニヒは思わず目をそらしていた。
『これでオマエの望む世界に一歩近づいただろう?』
部屋の隅、薄暗がりからそんな声が聞こえた。
いや、それは果たして本当に“聞こえた”のだろうか。クレーニヒは未だにその獣が幻覚なのか妄想なのか、それとも実在するものなのか、判断が付かずにいた。
――だからこそ“幻獣”と呼ぶのだが。
「なんだよこれは!? ボクが人殺しを望んでるってことなのか? ふざけないでくれ! ボクはそんなこと望んじゃいない!」
『そうだな。無差別な人殺しは望んでいないようだ。……今はな』
「じゃあこれはどういうことさ! こんな死体をどこから持ってきた? お前は自分が人を殺めたいだけなんじゃないのか!?」
クレーニヒの言葉に幻獣が三対の目を歪める。初めて出会ったときと同じ表情だった。おそらく嗤っているのだ。
『こんな死体? よく見てみろクレーニヒ。コイツは“オマエが望む死体”だ。』
そう言われて、クレーニヒは改めてその死体を見下ろした。コートを着た男の死体だった。
そこで彼の思考が一時停止した。
◆
……このコートは?
◆
途端に嫌な予感が襲ってきた。「まさか」という思いと、「そういうことなのか」という納得が入り混じって、クレーニヒの脳を混乱させる。再び吐き気がこみ上げてきた。
身元が分かるようなものはないかと、クレーニヒは仰向けに転がされた死体のコートの内ポケットを恐る恐る探ってみた。
見つかったのは上級工学師《テクノクラート》としての身分証だった。記されていたその名前は、クレーニヒが想像した通りのものだった。
『オマエが“いなくなればいい”と思っていた人間を、そのとおりにしてやっただけさ。もちろん、感謝してくれても構わないよ』
「そんな……」
崩れ落ちたクレーニヒは、死体の前に跪く。
「死んでほしいなんて……思ってなかったよ! ボクは!!」
イオースィフ――父の遺体を前に、クレーニヒの叫びが虚しく響いた。
『いいや、オマエは望んでいたのさ。自分をひとりにする父親など、この世からいなくなればいいとな……。心の奥底に閉じ込められていたその望みを、オレが引き出してやったにすぎないのさ』
クレーニヒは答えない。幻獣の言葉だけが頭の中に浮かんでは消える。
『オレはオマエの望みを叶える。そして世界はオマエの望むとおりになる。オマエの望む世界こそが、オレの望む世界でもあるのだからな……』
父親の遺体を前に、クレーニヒは一滴の涙も出てこない自分自身を、滑稽だ、と思っていた。
◆
旅は順調だった。いや、順調に進む筈だったと言うべきか。
導都パンデモニウムを飛び立った飛行挺は、雲間を抜けて降下していた。気圧にも天候にも異常は見当たらない。
「ローゼンブルグまでは一時間くらいです」
パイロットと交信を終えた士官が声を掛けてきた。
「……ん、ああ」
窓の外を眺めていて一瞬反応が遅れたイオースィフだったが、それを気にも留めずに、彼は再び空へと目を向けた。
「この辺りの飛行区域は安全なのかね」
話を聞いていなかったことを気にしたのか、士官が話好きだと感じたからか、珍しくイオースィフから話し掛けていた。
「今はとても安全ですよ。少し昔はあちこちに渦があって、こんな風に飛ぶのも命懸けでしたが……」
士官はどこか懐かしむかのように、しみじみと答えた。
渦はすべて排除され、漆黒の時代と呼ばれた時は終わりを告げていた。
「この世の混乱は、すべてケイオシウムが原因という訳だな」
「たしかに。 しかしケイオシウムがなければ、この飛行艇も飛ぶことができません。 すべてに良い面と悪い面があるということでしょう」
「悪い面か。しかし、地上は渦のせいで暗黒時代を過ごすことになった」
「その時代も聖騎士達の働きでついに終わりました。これは人類と科学技術の勝利です。結局は我々が勝ったと言えませんか?」
「……勝利か。 たしかにそうだ」
士官の思考に半ば感心と呆れが合わさったような感情をイオースィフは抱いた。
「パイロットが呼んでいます。失礼します」
インカムで会話しながら、士官は席を立った。
研究と開発の日々に勝利は無い、ただ前進があるのみだ。自分達の創り出したものがどんな結果になろうとも、そこに前進があればいいのだ。テクノクラートたるイオースィフはそんな思考で生きてきた男だった。自分の研究、仕事の前進のみに人生を捧げてきた。そしてそこに疑問も迷いもなかった。
◆
不意にイオースィフの視界が暗くなった。何事かと思考を切り替える前に声が響いた。
『やはりオマエの頭の中には、アイツへの思いは無いんだな』
突如、至近に出現した歪な三対の目。灰色をした闇がわだかまり、形を成そうとしていた。
イオースィフが何か声を上げる前に、闇から生まれた巨大な顎(あぎと)が彼の視界を埋め尽くし、そして奪った。
◆
『さて、忠実なる僕(しもべ)としては、“ご主人様”に働きの証を持ち帰らないとな……』
この場にその声を聞ける者はもういない。
士官が席に戻ると、イオースィフのいた座席は一面が赤に染まっていた。シートから天井までが、血臭を漂わせる鮮血で彩られていた。
シートの上には何かを言いたげに口を開いたイオースィフの首だけが、忘れ物のように置き去りにされていた――。
「―了―」