—- 【籠】
人の声が聞こえた。仄かに聞き覚えのある声質だ。あの時に見つけた人間がこのような声だった。薄暗く、窓の無い部屋のほぼ中央に置かれたテーブルの上、アインはそこに寝かされていた。
声の主はアインとテーブルを見下ろし、何かに悩んでいるようだった。
◆
がちゃり、と部屋の扉が開く音が聞こえ、誰かが入ってきた。
「人の気配がすると思ったら、やはり貴方でしたか。何度も申しておりますが、ここは私の地下室なのですよ」
しゃがれた声の老人が呆れ顔で少年に告げた。その表情は注意に意味が無いことを悟っている顔でもあった。
老人は少年の視線の先にあるものに気付いた。
「今度は猫ですか。この辺りではあまり見ない毛色ですね」
「だろう? 今回は骨にせずに、剥製にするものいい」
「剥製となりますと、少なからぬ手間がかかりますな。まずは……」
そう言うと老人は部屋の奥へ移動していった。少年は相変わらずアインから視線を外していない。
◆
しばらくすると、老人は書物を抱えてページを捲りながら戻ってきた。
「ふむ。まずは皮を剥ぐところからですな」
彼らがアインの治療を考えていないことは明白だった。
「わかった」
命が助かったと思うには早過ぎた。
力を振り絞って逃げ出そうと試みるが、全身に痛みが走り、思うように動くことができない。消え入るような声と共に寝返りを打つのがやっとだった。
「おっと、まだ生きているようですが」
「じゃあ殺そう」
少年はアインの尻尾を乱暴に掴んだ。
その力にアインは血の気が引いた。
「お待ち下さい。初めに約束したはずです、ここに持ってきて良いのは死んだものだけだと」
「ちぇっ……」
「約束は約束です。私はあなたに抑制を学んで欲しいと思っているのです。自分の欲望をコントロールできるようにね」
◆
老人の言葉に不満を見せながらも、少年はゆっくりと腕を下ろしてアインを置いた。アインの命はすんでのところで繋がった。
「この猫は私が預かりましょう」
軽い手当を受け、部屋の隅にアイン用のスペースが設けられた。檻や篭の中へ入れられることはなかったが、最初に目を覚ました地下室から出られることもなかった。どちらにせよ、傷が癒えるまでは自由に動き回ることなどできなかった。
◆
それからは、少年がどこからともなく持ってきた死骸を解体する姿を、間近で見せられる日々が続いた。表情の薄い少年が遺体に触れている時にだけ見せる楽しげな表情は、剥製作成ではなく、動物の遺体に刃を突き立てる事自体が目的のように思えてならなかった。
「本当はお前を剥製にしてみたいんだ……」
顔を近付けてそう呟いた少年に、アインは怖気を震った。
「どうにかして逃げなければ……」
必死に頭を巡らせたが、アインには為す術がなかった。
◆
しかし、ある日を境に少年が地下室を訪れる事が無くなった。
地下室にいるアインにも伝わるほど、外の騒がしい日々が続いた。アインが空腹で意識が朦朧とし始めた頃、ようやく老人がアインの元に訪れた。
その時が来たと覚悟を決め、諦めようとした。が、食事を出されただけだった。それ以降も少年の姿を見る事はなく、老人と共に過ごす日が続いた。
◆
気が付くと、再び元の姿に戻っていた。歩くのが精一杯だった傷の痛みも今は無い。
部屋の主である老人は、椅子に座ってうたた寝をしていた。部屋にあった外套を羽織ると、老人を起こさぬよう、そっと扉を開けた。
外へ出て夜空を仰ぐ。あの時に見た一際明るく輝く大きな丸い星は空のどこにも見当たらず、ただ、小さな星々が輝きを競い合っているだけだった。
「仮にも殿下のお召し物を盗むというのは、感心致しませんな、お嬢さん」
眼を覚ました老人がアインの背後に立っていた。身構えるアインに、老人は諭すように語り掛けた。
「別にとって食ったりはせんよ。少し話をせんか」
地下室から出た先に何かアテがある訳でもなかった。少しでもこちらの世界を知る為に、アインは老人と話をしてみる事にした。
「なるほど、渦の向こうの世界からとはな。あちらにも文明を持った生物がいる、という学説は知っておりましたが、こうしてこの眼で見るのは初めてですな」
しげしげとアインを見つめてくる老人は、アインの頭部、特に耳の辺りが気になっているようだった。
「あなたが探しているという一団、確かにこちら側の世界に存在します。彼らもこちら側の渦災害を止めるのに必死で、あちら側がどういうことになるのかまでは、考えている余裕が無いのです」
この世界なりの都合があるという点は理解できたが、だからといって、アイン達の世界が危機に陥っていることに変わりはなかった。
「もうすぐその場所に旅立つ人がいます。 その人に付いて行けば、貴方の望みも叶うかもしれません」
朝になれば再び猫の姿に戻ってしまうのだろう。アインはこの世界の情報を少しでも多く知る為に、老人との話を続けた。
◆
老人とアインが語り明かした翌日、久しぶりに少年が地下室を訪れた。少年の表情はどこか晴れ晴れとしていた。
「はは、やっと父上からお許しを得たよ」
少年が広げた紙は、ある部隊へ入隊する為の紹介状だった。それは王族からの事実上の放逐であった。
「そこは、ここよりは貴方にとって可能性のある世界です。この古城の地下室よりずっと」
「ああ、ローフェン。お前の言った通りの場所ならね」
「さて、出発の準備が必要ですな」
「なに、身一つで十分さ。 戦いに宝石や衣装は必要ないし、それに、ここにある刀剣は役には立たたないだろ」
「まあ、そうです。レジメントにはエンジニア達の粋を集めた兵装がそろっていますからな」
「それと、ちょっとあるものを届けて欲しいのです。私の古い友人に」
そう言って、ローフェンと呼ばれた老人は、グリュンワルドにアインが入れられた籠を渡した。
「―了―」