2814 【自死】
医療用ベッドに寝かされた人物は、眠るように目を閉じている。
「本当に行かれるのですか? レッドグレイヴ様」
傍らに控えるのは白衣を纏った男だ。横たわった女性は、その言葉に黙ったままだ。
彼女の均整の取れた美しさは、とても老齢に差し掛かろうという年齢には見えなかった。
「こんな形でお別れすることになろうとは。私はまだ納得できません」
白衣の男は、ベッドの人物に懇願するように言った。
「感傷に囚われるな。 未来を救うためだ。 誰かが行かねばならぬ」
「……わかりました。 どうかご無事で」
手術を行う医師団が入ってくると、白衣の男は名残惜しそうにベッドから離れた。
ベッドに横たわる人物はレッドグレイヴ。世界の統治者であり、『監視者』と呼ばれた女。彼女は約七十年に渡って人間世界を統治し続けた後、最後の旅路に出発した。
◆
薄暮の時代、自動機械の発達により、人類は飢えと労働から解放され、繁栄を享受していた。しかしそれは人智の発展を淀ませ、人心を荒廃へと進ませる結果を伴ってしまった。
世界を統治するエンジニア達は、自らが作り出したこの繁栄に満足しなかった。世界を改善し続けることを使命とする『技術者』らは、一つの実験を行った。数百人の遺伝子操作を加えた人間を作り出し、その中でも特別な三人を選び出して革新を託した。
誕生した三人は、グライバッハ、メルキオール、レッドグレイヴ、と名付けられ、それぞれの分野で活躍を始めた。
グライバッハはより精巧で価値を生み出すオートマタの開発に、メルキオールは新しいエネルギー源として注目されていたケイオシウムの研究に、最後の一人、レッドグレイヴは社会機構の改良という事業を担当した。
グライバッハは、優れた知性に加え、オートマタに対する深い愛情を持っていた。彼の理想とする世界は、オートマタの生み出した果実を人間がただ摘み取るだけではなく、人間とオートマタが共存する世界だ。そうすることで、この停滞した世界は新たな進化を見せるだろう。それがグライバッハの考えだった。
メルキオールは、正に研究をするために生み出された、ケイオシウムの申し子とも言うべき存在だった。社会の根幹を支えるエネルギーとしてのケイオシウムを、より安全に、且つ効率よく供給し続けることだけを目指して研究し続けた。メルキオールにとってケイオシウムとは、人間よりも尊重すべき存在であり、彼の全てであった。
レッドグレイヴは、他の二人とは別の視点で能力を発揮した。レッドグレイヴは物事を常に俯瞰で見る。そして問題点を見つけては修正し、再発しないための処置を行った。それはさながら医師の様であり、機械を直す技師の様でもあった。人間は世界を構成する細胞であり、癌細胞があればそれを除去する。そこに情などという不要なものが入る余地は無い。それがレッドグレイヴの考え方だ。
三人が世に出てからすぐに、グライバッハとメルキオールは目覚ましい成果をもたらしていた。特に、グライバッハの作り出した『知性を持つオートマタ』は、オートマタと人類の関係を一新させたと言ってよい程だった。メルキオールもケイオシウムの再利用法について画期的な研究を納めており、二人の名は高まっていった。
一方レッドグレイヴは、政策が効果を上げることができず、長い間評価されることがなかった。社会統治は、発明や研究などに比べて、目に見える形を得るのに時間が掛かった。
◆
三人はしばしば集まり、互いの研究や仕事に関して意見を交わし合った。選ばれし者としての連帯感、また、三人だけが世界を切り開くことができる、という感情で結び付いていた。
「あの研究はどうなった、メルキオール。 前に話していた、多重世界の観測をケイオシウムによって行うとかいう」
グライバッハが紅茶を口に運びながら言う。三人はグライバッハの庭園で話し合っていた。庭園は彼の精巧なオートマタによって完璧に管理されていた。グライバッハの審美眼は他の二人よりずっと優れている。彼は一種の創造主であり、完全な美に尽くす芸術家の側面も持っていた。
「新しい段階に入った。 もう、観測という概念は捨てた。 もっと新しい知見がある」
視線を合わさず、独り言のようにメルキオールが答える。二人よりずっと幼く見えるメルキオールは、他人とコミュニケーションを取ることに慣れていなかった。子供の頃から共に育った兄妹のような二人にさえ、この調子だった。三人とも三十に近付いた年齢だったが、肉体的な陰りは微塵もなく、十代の少年少女のように見えた。
「新しい知見?」
レッドグレイヴが覗き込む様に質問する。レッドグレイヴは表情豊かに微笑んでいる。彼女の容姿は飛び抜けて美しく、表情も完成されていた。人民の中心にあってその統治のために生まれてきた彼女は、人心の掌握を才能として持ち合わせていた。
「ケイオシウムは可能性の固まりなんだ。 可能性をエネルギーとして閉じ込めた状態の粒子だ。 いまの使い道は便利な蓄電池といったところだ。 害もなく、究極の効率をもつ」
「誰でもそこまでは知ってる。ここにいるオートマタだって、全てケイオシウムで動いている」
少し諭すような感じでグライバッハが言う。
「その可能性の固まりという側面における選択されてない状態、つまり無と有の狭間にある状態のものを集めてある傾向を持たせると、この世界では絶対にあり得ないことが起きる」
グライバッハの皮肉な調子には気付かない様子で、独り言のようにメルキオールが続ける。
「意味がわからないわね。具体的には?」
レッドグレイヴは素直に気持ちを言葉に出した。
「君は、世界はたくさんの可能性に満ちている、ということはわかるかい?」
「もちろん」
突拍子もない質問に笑いながら答えたレッドグレイヴに、メルキオールは赤面して下を向きながら続きを喋り始めた。
「たとえばここにあるお茶。 放っておけば自然に冷めていく。 詳細を端折れば、エントロピーは必ず増大すると言える。 だけど、そのエントロピーが増大するように見える現象は、天文学的な可能性が積み上がった後にそう見える、というだけのことに過ぎない。 当たり前に見える不可逆な出来事だとしても、無限の可能性の中には例外があるんだ。つまり、この80度の紅茶が10分後に70度になっている世界が当たり前だとして、無限に多重世界があれば、どこかに100度に沸騰している世界があるんだ」
レッドグレイヴは早口に捲し立てられて、きょとんとした表情を見せる。
「わかりやすく言えば、骰子を一万回振ったとして、どこかには全て6が出る世界がある、ということか」
グライバッハがフォローする。
「そう。必ずどこかにあるんだ。その世界が。そして、その世界をケイオシウムの力で選択できるんだ」
「たしかにすばらしい。 不可能のない世界というわけだ」
笑いながらグライバッハが大袈裟に驚く。
「他の世界に無価値な可能性を押しつけることによって、望むままの世界を選択できる」
「でも、無限からなにか一つを選び出すなんて、それ自体にエネルギーがいるでしょう?」
レッドグレイヴが疑問を口にする。
「うん、情報はそれ自体がエネルギーだ。 何かを観測して、それを選び出すことにもエネルギーが必要だ。 そこで別のアイディアがある。 ……でも、これ以上はまだ話せない」
突然、メルキオールは落ち込んだように口をつぐんだ。
「なるほど、メルキオールらしい素晴らしい視点だな。 おもしろい話だ。 私も協力できることがあるかもしれない。 いつでも頼んでくれ」
グライバッハが鷹揚な態度で、急に落ち込んだメルキオールの肩を掴んで言った。
「うん」
メルキオールはそう言うと、
「もう戻るよ」
そう言って、そそくさと席を立つ。
「またね、メルキオール」
「あ、うん」
メルキオールは、レッドグレイヴの別れの挨拶に目を合わせないまま去っていった。
◆
二人きりになったテーブルで、グライバッハはレッドグレイヴの手を握って言った。
「最近、元気がないように見えるぞ」
「そう? いつも通りよ。 あなたこそ、ここのところ新作発表に精彩がないんじゃない?」
「手厳しいな。 たしかに今は停滞している。 毎年毎年成果を求められるが、いつも完璧、というわけにはいかないさ」
「メルキオールも悩んでるみたいだし、あなたたちの才能もここで終わりなのかしら?」
いたずらっぽく、レッドグレイヴは笑う。
「なに、まだまださ。 メルキオールの次の研究はとんでもないものだが、私の次の目標だって負けてはいない」
「それはなに? 聞かせてくれる?」
「創造性をもったオートマタさ。 ただの知性じゃない。 新しい何かを作り出す力をもったオートマタだ」
「ずいぶんと飛躍するのね。 でも、そんなオートマタを欲しがる人がいるのかしら?」
「君のためにもなる。 卑しい人民であっても、十全な判断力と新しい知見を目指すオートマタが指導すれば、瞬く間に安定した世界に変わる。 君の子守の仕事も必要なくなる」
「私を失業させたいのね。 あなたはいつも人間を嫌っているみたいな口ぶりだわ。 私たちだって人間よ」
レッドグレイヴは冗談として受け流そうとするが、グライバッハの目は真剣なままだった。
「君はそういう風に作られているんだ。 人民を愛するように」
「あなたはそうでないと?」
「所詮、私たちは作られた『もの』に過ぎない。 私は、君が人民に愛着を感じているように、オートマタに愛情をもっているのさ」
「機械にもそういった感情は必要だと思う?」
「ヒューリスティックなシステムは、十分有用な側面がある」
「ならよかった」
レッドグレイヴはグライバッハにキスをした。
◆
それから二十年ほど進むと、レッドグレイヴの治世は評価を得るようになっていった。美貌の指導者は世界に活気をもたらしていた。レッドグレイヴがもたらす平和な日々は、永久に続くかと思われた。その平和に最初のヒビが入ったのは、レッドグレイヴの元に届けられたひとつの報せだった。その文書にはこう書かれていた。
「天才機械技師グライバッハ、自殺す」
もう若い時のように頻繁に会うことはなくなっていたが、不思議な紐帯で繋がれていた兄妹ともいえる男の死に、レッドグレイヴは衝撃を受けた。
「メルキオールにも、この報せは行っているのか?」
レッドグレイヴは、ふと気になって秘書に尋ねた。
「調べます。研究所にいらっしゃる筈ですので。 いずれ新聞が大々的に報じますので、メルキオール様もお気づきになるとは思いますが」
メルキオールの活動も昔ほど活発ではなくなっていた。申し訳程度の論文を発表しては、自身の研究所に閉じ籠もっている。
「そうか、わかった」
二人と疎遠になったのも、彼らの目指す発明なり研究なりの行き詰まりが原因だった。また、自分の仕事が順調に進んでいくことに十分満足していたことも、理由の一つにあった。
しかし、自分達の精神を含めた健康について、不安に思ったことなど一度も無かった。本当に、自分の知っているグライバッハが自死などを選択するのだろうか。
この疑問がレッドグレイヴの頭を離れなかった。
「治安管理局の責任者と今すぐに話したいことがある。 連絡をつけてくれ」
レッドグレイヴは秘書にそう言って、席を立った。
「―了―」