3394 【撤退】
フロレンスの機体は、飛び散った赤黒い血で奇妙な斑模様になっていた。
その汚れた機体の脇でフロレンスは装備を外し、緊急用装備を身に着けた。ハンドガンと緊急医療パックしかないが、無いよりはましだった。
機体を焼却処理するためにテルミット手榴弾を二つ取り出し、ピンを抜いた後、エイダと自分の機体の中に放り込んだ。花火のような黄色の光が立ち上り、王国の誇る装甲猟兵は数秒で黒い鉄屑と化した。
◆
長い夜が始まった。
フロレンスとエイダは王国の要衝トレイド永久要塞での戦闘で奇怪な死者の群れに襲われ、戦線を離脱した。
しかし装甲服が燃料切れを起こし、生身の姿で逃走を続けなければならない状況に陥っていた。
トレイド永久要塞は二つの山の稜線を結ぶように築かれており、今現在二人がいるのは西側の山腹だった。険しい森を4リーグ程抜けて山を越えることができれば、王国側の塁に辿り着ける筈だった。しかし辺りが暗くなって視界が悪く、装備もままならない今の状態では、山を越えるのはかなりの危険が伴うことだった。
「処理は終わった。進もう」
フロレンスは手にしたハンドガンの薬室に銃弾が送られているのを確認してから、安全装置を掛け、ホルスターに差した。
「ああ、わかった」
エイダは座り込んでいた。傍目にも疲れが見える。今回の敗北の衝撃を受け止め切れていないようだった。
二人は暗い林の中を、山頂目指して進み始めた。
◆
足下を照らすライトだけで、二人は黙々と山中を進んだ。方角は星を頼りにするしかない。歩きづらい森の中で山頂方向への獣道を見つけ、そこを歩く。
「楽しいハイキング、というわけにはいかないか」
フロレンスはそう呟き、暗い道を進んでいく。山道は険しく、時に手を突いて這うようにして登らなくてはならない場所もあった。
三時間程かけて山頂の手前まで来ると、大きく突き出した岩場があった。そこからは自分達の戦場が見渡せた。
「燃えている」
左に見えるトレイド永久要塞から火の手が上がっている。赤く揺らめく光が、低く立ち込めた夜の雲に反射している。時折、大きな爆発が起こる。音は遅れてここまでやってきた。
「要塞は陥ちたな。 帝國の連中はどこまで進むつもりだろう」
フロレンスはエイダに語り掛けた。憔悴したエイダはぼうっとした表情のまま、炎を見つめ続けている。
「あの化け物に王国を蹂躙させるわけにはいかない。 早く戻って戦線を立て直さないと」
「ああ、だがまだ掛かる。 ここまで上がっていればおそらく安全だ。 少し休んだ方がいいと思う」
フロレンスは疲れ切っているエイダの状態を見て、そう提案した。フロレンスも疲れてはいたが、まだ余裕がある。
「いや、行こう。 時間が無い」
フロレンスはエイダがどう答えるかわかっていた。彼女の気位の高さや責任感から、エイダはどんな無理をしてでも本軍に合流したいと言い出すだろうと。だが、提案だけはしておく必要があった。
二人はまた、無言で山頂を目指して歩き出した。
◆
さらに数時間歩いて山頂を越え、ついに下りの道に入った。山では下りる時の方が注意力と体力を必要とする。
フロレンスは足下がおぼつかないエイダの様子を気にしながら進んでいた。しかし、エイダは足下の草に足を取られて転んだ。斜度がそれ程でもなかったため転げ落ちはしなかったが、打ち付けられるように地面に倒れた。
「大丈夫か?」
エイダの手を握って声を掛ける。
「エイダ、少し休もう。 焦って無理をすれば、帰れなくなる」
「わかった。 迷惑を掛ける」
俯き、しなだれかかるようになったエイダはそう答えた。
フロレンスは体温の低下を防ぐための携行ブランケットをエイダに掛けてやり、木の根元に座らせた。
「私が歩哨に立つ。休んで」
「すまない、フロレンス」
フロレンスは木に寄りかかるようにして立ち、自分は眠らぬようにした。一時間でも休めれば随分と違う筈だと、フロレンスは考えていた。森の闇は深く、時折、散発的な爆発音が遠雷のように響いていた。
フロレンスが夜空を見上げると、雲間に星が見えた。この森は故郷を思い出させた。まだ自分が王国に来る前の、幼い日に見たものだ。僅かな記憶だが、まるで過去に戻ったかのような感覚に囚われた。
そんな思いに浸っていた時、フロレンスは物音に気が付いた。落ち葉や枝を踏む音が近付いてくる。
フロレンスはそっとハンドガンを抜き、身を屈めて音のする方向に身体を向けた。そして音を立てないように、相手の姿が確認できる位置へ移動を始める。
フロレンスが灌木の陰から見たのは、生ける屍だった。一体で彷徨っている。おそらく自分達の匂いや音に反応して追ってきているのだろう。
その屍の装備は王国軍のものだった。高度な装備でないことから輜重兵であろうということを、暗闇の中でフロレンスは見抜いた。
兵站を担う輜重隊にまで生ける屍達の汚染が広がっていることに驚いたが、それよりも、自分達が想定よりも本軍に近付いていることに少しの安堵を覚えた。
「近くに部隊がいるのか?」
そう呟いて立ち上がると、屍に向かって進みながら腰のナイフを抜いた。何があるかわからない。なるべくハンドガンは使いたくなかった。
輜重兵の屍はフロレンスに気付くと、呻き声を上げて近寄ってきた。屍の性質はだいたい理解していた。動きは鈍いが、手足を失ったくらいでは動きを止めず、頭部に損傷を与えなければ停止しない。
フロレンスは近付いてくる屍の横に回り込むと、その側頭部にナイフを突き立てた。屍は力を失って倒れ込んだ。屍を倒すとエイダの元に戻る。
「まずい、屍がいた。 移動しよう」
エイダに声を掛ける。屍が一体だけということは考えにくい。どこかに襲われた本隊があるのだろう。
「ああ、わかった……行こう」
エイダは立ち上がるが、バランスを崩して座り込んでしまう。
「どうした!?」
フロレンスはエイダに肩を貸そうとするが、様子がおかしいことに気付き、彼女の額に手を当てた。熱がある。意識も朦朧としているようだ。
「いいか、掴まるんだ。このままじゃ死ぬぞ」
フロレンスは片方の腕でエイダを抱きかかえるようにして引き起こし、肩を組んだ。その時、がさがさと周りに屍の気配が走った。
「来たか」
フロレンスは音から離れながら、しかし回り込むようにルートを採って山を下った。エイダは辛うじて足を動かし、フロレンスにしがみつきながら付いてきている。
回り込む際に、僅かな星明かりで屍の数を確認した。七、八体はいる。こちらの存在に気付いているようだ。
二人はそれから必死で山を下った。屍達も付いてきている。
やにわに開けた場所に出た。大きな山道へ出たらしい。しかし、そこには二十体以上の屍がたむろしていた。
二人はすぐに足を止めて伏せた。だが、後ろから自分達を追う屍達が近付いてきている。
「フロレンス、一人で逃げろ。自分を置いていけば逃げ切れる」
伏せたエイダは息も絶え絶えにそう言った。
「ここまで来たんだ、それはない」
「行け、命令だ。一人でも助かるべきだ」
「くそっ」
フロレンスはそう言うとエイダに自分のハンドガンを渡し、立ち上がって走り出した。
エイダは渡されたハンドガンを構え、自分達を追ってきた屍に照準を合わせた。
「ただでは死なないわ」
最初の一発が先頭の屍の頭部を吹き飛ばした。乾いた銃声が森に響く。山道の屍達の動きもエイダに向かう。
二発三発と、続けてエイダのハンドガンが屍を倒していく。ただ、弾には限りがある。フロレンスのハンドガンの弾が切れると自分のハンドガンを出し、間を置かずに撃ち続けた。どうにか追っ手の屍達を始末することはできたが、今度は山道の屍達が近付いてきていた。
エイダはふらふらと立ち上がると、山道の屍達に銃口を向けた。そして同じように屍を仕留めていくが、ついに銃弾が尽きた。
「こんな終わりとはな……」
ぞろぞろと屍がエイダの元に集まってくる。エイダは目を瞑った。
その時、エイダの眼前にいた屍が吹き飛ばされた。
機械馬に乗ったフロレンスだった。フロレンスはエイダの戦闘服のドラッグハンドルに手を掛けると、一気に引き上げて自分の前に乗せた。
フロレンスの機械馬は輜重隊のものだった。屍に襲われた本隊を探し出し、エイダのために戻ってきたのだった。
「行くぞ」
フロレンスはそのまま屍を振り解き、本軍がある方向へ山道を走り出した。
「―了―」