3398 【ミルク】
「つまり、あなたはアインという子を探しているのね」
「うん」
スプラートは注いでもらったミルクを飲みながら、小さく頷いた。相手の少女はスプラートの突拍子もない話にも、素直に頷いている。
「あの……」
「ん? ミルク、もっといる?」
ミルクが注ぎ直されたカップを、スプラートは恥ずかしそうに受け取った。
「ありがとう」
「でも不思議な話だね。どこか別の世界から、あなたみたいな子がやって来るなんて」
パルモは自分のカップにもミルクを注ぎながら言った。
パルモが小さかった頃には、《渦》と呼ばれる場所から多くの怪物が現れたという。異形の姿を持った怪物は多くの災いをこの世界に残し、今もなおその傷痕は癒えていない。その事を思えば、スプラートの事も不思議な事ではないと思っていた。
「でも、どうしたらいいんだろう、これから……身体も変わっちゃったし……」
スプラートが語るには、前の世界ではもっと小さな女の子だったらしい。パルモはスプラートの肩を抱いて引き寄せた。
「大丈夫。 今はこうして元気でいるんだし、元の世界よりは安全だと思うよ。 しばらく休むといいよ」
スプラートは改めて部屋の中を見渡した。こちらの世界は妖蛆に浸食されることもなく、緑と水が豊富だ。それに住人達は皆、スプラートに優しかった。
「アインもどこかにいるのかな。この世界に……」
か細い声でスプラートが呟くと、パルモが
「そうじゃない? だってその『手』は願いを叶えてくれたんでしょう? きっとアインもこの世界にいる。わたしも探してあげるよ」
と明るく答えた。
「ありがとう、パルモ」
「元気になるまで、ここにいていいからね。もちろん、元気になってからも」
「うん。でも、なるべく早くアインを探しに行こうと思う……」
「焦らない方がいいと思うな。 スプラートが元気になったら、必ず一緒にみつけてあげるよ」
パルモはそう言って立ち上がった。
「わたしはお仕事に行ってくるね。スプラートは、それを飲んだらもう少し寝た方がいいよ」
「わかった」
スプラートの返事を聞くと、パルモは軽い足取りで出て行った。
パルモといると、あのいつまでも追われている恐怖、そして異世界に来た不安が、ゆっくりと溶けていくように感じた。それは、ずっと感じることのできなかったものだった。
「早く元気になって、アインを探さないと……」
この世界に来た意味を思い出して小さく呟いた後、目をつぶった。
◆
部屋で横になっていると、大きな獣がスプラートの傍にやって来た。自分より随分と大きく、襲われればひとたまりもないのではと思う程だったが、不思議と恐怖心は沸かなかった。
「乗せてくれたのは、確か君だよね。ありがとう」
スプラートがお礼を言うと、獣は小さく頷くように首を動かした。と同時に、スプラートの頭の中に言葉が流れ込んできた。
『ああ。 お前はずいぶんと軽いな』
「えっ!?」
スプラートは驚いて、その獣をじっと見つめた。獣の目はじっとこちらを見つめ返している。何かを見透かすように。
『ワシの言葉が聞こえるか』
「うん。聞こえるよ。君、しゃべれるんだ。 あれ? でも、声は出ていないよね?」
『声ではない。意思だけを伝えているのだ』
「すごいね……」
まじまじと獣を見つめる。銀色の毛並みは美しく波打ち、その身体からは力が漲っている。
「あ、パルモはここにいないよ」
『ああ、知っている。パルモからお前についているよう、言われてな』
「ありがとう。でも、もう落ち着いた」
『そうか』
そう獣は意思を伝えると、スプラートの傍に身を伏せた。
「あ、君の名前は?」
『ワシの名か? 人間はワシのことを聖獣としか呼ばんな』
「でも名前はあるんでしょ?」
『ふむ。パルモだけは、ワシをシルフと呼ぶな。』
「じゃあ、わたしもシルフって呼んでいい?」
『かまわんよ』
スプラートは傍に伏せているシルフに近寄り、声を掛けた。
「ねえ、一緒に寝ていい?」
『ああ』
スプラートはシルフに頭を乗せ、目をつぶった。
『お前は大切な人と離ればなれになってしまっているそうだな』
「うん」
『ワシも探すのを手伝おう。出来る限りのことはしてやる』
「ありがとう」
『お前はワシと似ている。』
「どういうこと?」
『ワシもこの世界にやって来たのだ。別の世界からな』
「そうなんだ! でも、どうして?」
半身を起こしてスプラートは言った。
『話せば長くなる、それにずいぶんと昔のことだ。 忘れてしまったな』
「もとの世界には戻らないの」
『戻ることはできない。それに、もうワシはずいぶんと生きた。ここでの暮らしも長い。戻ろうとも思わん』
シルフは伏せたまま呟くように、そう意思を伝えた。
「そう……」
『ワシもお前くらい小さいときにここに来た。何もわからぬままな。 それから色々な事があった。悪いことも良いことも』
「寂しくはなかったの?」
『昔はそう思っていたかもしれないが、今となっては思い出せない。しかし、自分が哀れだと思ったことはない。ワシはこの世界を受け入れ、こうして、ささやかだが幸せに生きている』
「ふうん」
自分も元の世界に戻れないのかもしれないと考えて、スプラートは少し不安になった。
『お前は若いから、まだわからぬことも多いだろう。聞きたいことがあったらワシに言うといい』
「どれくらい、この世界にいるの?」
『季節が百を超えたあと、数えるのをやめたよ。』
「そんなに長く……。 でも、どうしてここに来たの? シルフも巨人に出会った?」
『巨人? それはわからんが、ワシも連れてこられたのだ』
「元の世界に会いたい人はいないの?」
『会いたい人か……。 元の世界の記憶は薄れてしまってな。もう覚えてはいない』
「そう」
なんだかスプラートは再び眠たくなってきた。自分と同じ境遇のシルフと語らっているうちに、少し興奮しすぎたようだ。
『すこし話しすぎたな。 眠った方が良い』
「うん……」
スプラートはシルフの身体の温かさを感じながら眠りについた。
◆
スプラートは夢を見た。しかし、それは前に見た悪夢の続きではなかった。
自分はシルフになっていた。
自分である幼いシルフは、少女と共にいた。見知らぬ道を二人で歩いていた。
彼女との間にある信頼はとても心地よかった。とても懐かしく、幸せな気持ちが流れ込んできた。
そこに不安はなく、ただ互いがいることによって、全ての痛みから解き放たれるような感覚だった。
ずっとこの子といたい。そう強く思った。
しかし、少女は自分の元を離れていく。必死に付いていこうと思うが、足が動かない。
焦り、叫ぶが、少女は先に行ってしまう。一度も振り向かないまま。
◆
スプラートが目を覚ますと、シルフはもう部屋にはいなかった。夜の気配がテントを包んでいた。
少女への懐かしさ、憧れだけが胸に残っていた。
「―了―」