3394 【彼岸】
ベリンダは跪き、自分の腹部からはみ出た臓腑を手で押し込めていた。そして、そうしていてもなお、ベリンダの口元には笑みが浮かんでいた。
爆音と共に、ベリンダを傷付けたグリュンワルドは死者達もろとも吹き飛ばされた。
ベリンダの足下には、黒く焼け焦げたグリュンワルドの右腕が転がっている。
その腕を拾い上げてゆっくりと立ち上がる。ベリンダの笑いが大きくなった。
「くっくっくっく」
自分の腹を抉ったこの腕はもう二度と動くことはない。全く愉快な光景だった。この酸鼻極まる戦場が、彼女にはとても滑稽で愉悦に満ちたものに写っている。
「かわいそうな王子様。こんな風にバラバラになってしまったら、私のために働いてはくれなさそうね」
そう言って、グリュンワルドのものだった手の甲に口づけをすると、甲板からその腕を投げ捨てた。
◆
落ちたガレオンの周りでは、王国兵達が再び勢いを取り戻そうとしていた。地上から5アルレ程ある甲板に梯子を掛け、新手が登ってくるのが見えた。
「まだまだ楽しめそうね」
ベリンダは自分の身体の中に生じる、汚れた世界の扉を再び開いた。瘴気が漏れ出し、死者達にまとわりつくように伸びていく。
そして瘴気を浴びた死者達は身体を震わせ、ゆっくりと立ち上がり始めた。
死が死を生み出す悪夢の始まりだった。
甲板に登ってきた王国兵達は死者の軍勢に立ち向かおうとしたが、恐れも疲れも感じない『歩く死』に次々と飲み込まれていった。
「さあ、私のためにたくさんの死を運んできてちょうだい」
今度は死者の軍勢が甲板を降り、眼下の王国兵達を襲い始めた。
増えていく死者の軍勢は王国軍を圧倒する。しかし同時に、戦線を接する帝國兵にも死者は襲い掛かっていた。
「かわいそうな人間達。はやく楽にしてあげなさい」
雲霞のごとく増えた死者は、見境なく生者を貪り喰った。前線は崩壊し、トレイド永久要塞は死者対生者の戦いで大混乱に陥った。
◆
甲板の端に立っていたベリンダは、眼下に広がる陰惨な光景を笑いながら眺めていた。とその時、一瞬目の前が暗くなった。
体液を失いすぎたのか、知覚が混乱して立っていることができなくなり、欄干を背にして体重を預けた。
「こんな傷で……、もっと死を……」
意識が遠のきかける。目の端に小銃を構えた一団が上がってくるのが見えた。銃口をこちらに向けながら近付いてくる。
「あなたたちも……死者になりたいのね。 まってなさい……」
ベリンダは絞り出すように、ぼやけた視界に映る一団に声を掛ける。しかし力が抜け、ずるずると腰を落としてしまった。
それと同時に、小銃の斉射がベリンダの身体を捉えた。
ゆっくりと倒れたベリンダに近付いてきたのは、帝國兵士の決死隊だった。
「機能停止を確認」
「とどめを刺しておいた方がよくないか、大尉? とんだ化け物だぜ、こいつは」
眼帯を着けた帝國兵士が、傍らの隊長に声を掛ける。
「いや、いい。 シドール将軍はこの玩具がお気に入りだ。 処分は我々の仕事じゃない」
端正な顔立ちの若い将校は伝令を呼び、シドール将軍の元へ行かせた。
◆
シドール将軍は宮廷会議で窮地に立たされていた。難攻不落の永久要塞をついに粉砕したが、帝國軍の被害も甚大だった。しかもその被害の殆どが、シドール将軍の手引きで帝國に迎え入れた、ガレオン強襲部隊の暴走によるものだったからだ。
「これがガレオンの力というわけですな、将軍。 まったく結構な結果だ」
カンドゥン長官が将軍に、これ見よがしに当てつけを言う。
「勝利に犠牲はつきものだ」
シドール将軍は苦々しい顔つきで言った。
「この犠牲は一体何のために必要だったのか、経過を説明してもらわんといかんな。 まさか生き残りの将兵達の言うような、死者が蘇って敵味方関係なく共食いを始めた、などという荒唐無稽な話ではなく、だ」
他の統制派の大臣も糾弾に加わる。
「兵に罪はない。 おそらくは会戦の中で敵が使用した、幻覚剤を用いた砲弾の効果だ」
「遺体の損傷は将兵の証言と一致するが、それも幻覚剤を用いた兵器のせいだと?」
「奴ら王国は我々に勝てぬと知って、自暴自棄な作戦に出たのだ。犠牲は確かにあったが、それは我々の責任ではない。非人道的な行為に出た王国こそが問題なのだ」
シドール将軍は何が起こったのかを子細に承知していた。しかし、それを認めれば自分の地位が無くなることも、また承知していた。
「王国は、こちらが死者を使って要塞を落とした、と非難しているが」
「馬鹿げた濡れ衣だ。 我々を冒涜するための流言だ。 私は自分の兵を我が子のように思っている。 そんな事が行われるはずがない」
会議に沈黙が流れる。要塞の攻略に成功したのは事実だ。表向き英雄となったシドール将軍を処分するのは、民意を挫くことになる。
「とにかく、あの忌まわしいガレオンを再び使うことはないな、シドール将軍」
「もともと要塞攻略の兵器に過ぎぬ。 もう用済みだ」
シドール将軍にも今回の結果は予想外だった。行われた出来事は、彼にとっても許し難い行為だったのだ。
「将軍、あなたの働きは認めています。 しかし、永遠に戦争を続けるわけにはいかないのです。 今後は我々と協力して事に当たるべきだ。 互いに帝國の未来を信じる気持ちは同じなのですから」
カンドゥン長官は丁寧な言葉で将軍を諌めた。
慇懃な長官の態度にシドール将軍は心底怒りを感じていたが、それを押し殺して席を立った。
◆
……痛い、痛いよ。
……誰か、誰か助けて。
……私は、こんなに痛いのに。
……私は、こんなに苦しいのに。
どうして、みんなは笑っているの?
どうして、私はみんなと笑えないの?
どうして、私、だけ、死ぬの?
そんなのおかしい。
私が死んで、みんなが笑っているのは。
私がいなくなったのに、みんながそこにいるのは。
次は、みんなが、死ねばいい。
次は、私が笑えばいい。
死んだみんなを見て、私が笑う。
◆
ベリンダはベッドから跳ね起きた。
辺りはまだ暗い。窓から薄明るい月の光が差し込んで、ベリンダの胸元を照らしている。
「今のは……」
脳裏に浮かんでいたのは、ベッドに横になっている自分とそれを取り囲む人々。そして、隣で自分の手を握ってくれている男性。ただ、そのどれもがベリンダの記憶には無いものだった。
しかし、胸に宿る死への恐怖と周りへの憎しみは、とても夢で見ただけとは思えない程、激しいものだった。
目を覚ました場所は全く見覚えのない居室だった。
ベッドから降りようとすると、一人の少女が部屋に入ってきた。
「目覚めたようだな。 もう一度、仕事をしてもらうことになった」
「―了―」