03グリュンワルド5

3394 【虫】

薄暗い居城の中にいるということは、ぼやけた視界でもわかった。薬臭い己の体臭に混じって感じる空気の匂いは、故郷のものだ。

目を覚ましてから長い間、グリュンワルドはその片方しかない瞳で天井を見つめていた。懐かしい天井だった。ただ、こんなに長い間見つめ続けたことは無かった。

混濁する意識は、子供時代へと戻っていった。

彼の記憶の中では、暗く湿っていて孤独な世界だったが、心落ちつく世界だった。他人から気味悪がられ、避けられていたが、何も思い煩うことは無かった。

そこはただ、好きなものに囲まれた、自分だけの世界だった。

グリュンワルドは急に声を上げたくなった。

だが、包帯に巻かれた下顎に感覚は無く、今、自分の口が開いているかどうかもわからなかった。

奇妙にくぐもった、何かが泡立つような音だけが部屋に響いた。

部屋には誰もいない。何の反応も無い。

そして、今度は急な眠気を感じ、目を瞑って眠りについた。

夜中の突然のノックにローフェンは驚いた。ローフェンの地下の研究室を訪れる者などいない。ある一人を除いては。

扉を開けた彼の前に、王妃マルラがいた。

歳を取ってはいたが、未だにその高貴で近寄り難い美しさを保っていた。

「相談があって参りました」

「なんでしょうか、マルラ様」

ローフェンは丁寧に挨拶をした。

「王と王子の為にやっていただきたいことがあります」

マルラは雑然とした地下室を一瞥すると、そう言った。

「詳しい話を聞かせていただきましょうか」

ローフェンはぼろぼろの椅子を出し、テーブルにマルラを招いた。

「こんな場所にあなたが来られるとは。この城の地下にあなたが訪れることなど、決して無いと思っていましたよ」

「忌々しい思い出、と言いたいのですか」

「まあ、そんなところですな」

ローフェンはパイプを取り出した。もう滅多なことでは吸わなくなっていたが、苦手な人物を相手にするときには、つい欲しくなってしまうのだった。

「今度の宮廷会議が三日後にあります。あなたも出席なさるでしょう?」

マルラは話題を切り出した。

「ええ、もちろん」

「王権の今後について、何かしらの話し合いが行われるのでしょう」

既に王の意識は無い。王子が帰還する直前に重篤な事態に陥っていた。そして、グリュンワルドも帰還したが、誰もその姿を見ていない。

「まあ、現状を鑑みれば、そうならざるを得ませんな」

ローフェンは煙を吐きながら、一緒にそう言った。

「王子の様子は既に宮廷内で話題になっています。それと、王の病状は聞いていますか?」

「いいえ、まだ」

「一月も保たないでしょう」

「そうでしたか……。 陛下は長く立派な人生を送られた」

ローフェンは目を瞑って背もたれへ身を沈めた。ローフェンと王は、若い頃からよく見知った仲であった。

先代の兄王は、即位後僅か一年で亡くなった。彼が王位に就いてからは、長く相談役として彼を支えていた。

政策や王子達についても、随分と二人で話し合った。ただ、グリュンワルドの追放を決めてからは、彼との距離ができていた。

「ガイウス卿は王権の委譲の話を持ち出すでしょう。グリュンワルドが生きているにもかかわらず」

「彼ならそう言い出すでしょうな」

「混乱した国の状況を治めるには、王位に空白があってはならぬと、諸公に訴える気です」

「なるほど」

「だから、グリュンワルドが健在であると示して欲しいのです」

「どのようにして?」

「あなたの技術で彼を立たせ、声を出せるようにしてあげて欲しいのです」

「王妃、あなたは勘違いをなさっておられるようだ。私は義肢職人でも医者でもありませんよ」

「いいえ、やっていただかなくてはなりません」

「いっそ廃王し、諸公に譲られればよろしい。 穏便だ」

とは言っても、穏便に事が済まされるとは、当のローフェンも思っていなかった。諸公の誰が王になろうとも不満は出る。そして、その不満は陰謀や内乱を生じさせ、この国を混乱に陥れるであろう。

もちろんローフェンは、そうなればこの国から出て行こうと決めていた。

「今はそんな時期ではありません。 もしそうなれば、グリュンワルドも殺されてしまうでしょう」

「今になって母の情ですか?」

「いいえ、王族としての威厳を守りたいのです」

「でしょうな。 殿下の放逐の時に、あなたは何も文句を言わなかった」

少々きつい言い方だったが、ローフェンは遠慮などしなかった。

「王も王子も、まだ生きています。 馬鹿げた話し合いなど、まださせません」

マルラは毅然としたまま、ローフェンの皮肉を無視した。

「殿下を晒し者にするのですか?」

「いいえ。ただ、グリュンワルドが生きているということを、威厳をもって示せればいいのです。 あなたはグリュンワルドを理解し、友人であったのでしょう?」

ローフェンは彼女の強い決意を理解した。それは彼女の、王妃としての、譲れない意志なのだ。

「殿下はどう思っておいでかは存じ上げません。ただ、私が殿下を導こうとしたのは事実だ」

「彼の威厳を守ると思って下されば、それでよいのです」

「威厳ですか……わかりました、やってみましょう。 ただし、あなたの望み通りになるかは保証できかねます」

マルラの決意に絆される形になった。

「頼みます、ローフェン」

マルラは地下室から出ていった。彼女の香水の匂いだけが、不釣り合いに地下室に漂っていた。

ローフェンはすぐに地下室にグリュンワルドを運び込み、施術を始めた。

グリュンワルドの身体の損傷は甚大だった。両手両足を失い、右目と下顎も失っていた。気高さを讃えていたその若い肉体は、無残に、そして徹底的に打ち壊されていた。

ローフェンはグリュンワルドの頭に奇妙な機械を取り付け、簡単な意思疎通ができるようにした。脳へのダメージも相当なものであろうと、ローフェンはみていた。

「声は聞こえていますか? 殿下」

くぐもった唸り声と共に、ローフェンの見ていたコンソールに色とイメージが浮かんだ。

「なるほど。痛ましいお姿ですが、これも一つの運命です」

ローフェンは、これから彼に施す施術について説明した。

「わかっていただけましたか?」

奇妙な光がコンソールに浮かんだ。それを見たローフェンは、一瞬、当惑の表情を浮かべた。

「……それがあなたのお望みですか。 いいでしょう。私の最後の奉公とさせていただきます」

ローフェンは冷静だった。

「仰せのままに」

そう呟くと、ローフェンは眼鏡を掛け直し、作業を始めた。

昼夜を問わぬ二日間で、ローフェンはグリュンワルドの施術を終えた。

控えの間に、家臣達が謁見のために集まっていた。そこで彼らは宮廷会議に王子が出席すると聞き、一様に驚きを隠さなかった。

家臣達が議事堂に入ったときには、既に王子が席に着いていた。

王子はフードを目深に被り、片目だけを出した奇妙なマスクを着けていた。両手は彫金で装飾された王族の甲冑を纏っている。

一瞬訝しむ一同だったが、その瞳の色は確かにグリュンワルドのものだった。

諸公は王子の前で感嘆や賛美の声を上げた。ただ、一様に、その不気味な王子の姿に警戒していた。

全員が席に着き、奇妙な沈黙の時間が流れた。

ガイウスが堪らず言葉を切り出す。

「殿下が無事のご帰還をなさったこと、その無事なお姿に臣民も必ずや歓喜のうちに……」

切り出したガイウスの言葉を、グリュンワルドはその鉄の腕で不器用に制止した。

そして、机に置いた紙をガイウスに向かって指し示した。

ガイウスはその紙を取り、読み上げた。

「私は死地から帰ってきた。そこで得たものを皆と分かち合いたい。是非とも、その味を諸公らに味わってもらおうと思う」

ガイウスは詰まりながら、そして意図を計りながら、辿々しく読み上げた。

ガイウスが読み終えると同時に、グリュンワルドは両腕に仕込んだ散弾を、左右に並んだ諸公に一度ずつ撃ち放った。爆音と硝煙、真っ赤な血煙が部屋を満たした。グリュンワルドの真横にいたガイウスに弾は当たらなかったが、粉々になった家臣の肉片が彼の顔一面に飛び散った。

「狂いましたか! 殿下!」

ガイウスがそう叫んだ時、グリュンワルドは機械で作られた声で笑っていた。ただそれは、何かが地獄で煮られているような、奇妙なぶくぶくという鈍く低い響きでしかなかった。

そして、怯えて立ち尽くすガイウスの頭を、腕に仕込まれた刃で顎から頭頂に貫いた。

左右に並んでいた家臣の中で生き残った四人が、這々の体でグリュンワルドから逃げようとする。それを逃さんとするグリュンワルドが椅子から立ち上がった。が、膝から下の義足が上手く機能せず、そのまま床に崩れ落ちた。しかし、そのままグリュンワルドは膝と手で這うように彼らを追った。

そして、義手の刃を杖のように使って立ち上がり、逃げる四人の背中を切り裂いた。

血の海となった議事堂で、奇妙にねじ曲がった四肢を揺らしながら、グリュンワルドは笑っていた。まるで子供が悪ふざけを成功させたときのように身体を震わせ、のたうち続けていた。

グリュンワルドは衛兵によって捕らえられた。そして義手義足を取り外され、元の居室に幽閉された。

今回の凶事はまだ城外には知らせていなかったが、既にローフェンは城からいなくなっていた。

とてつもない混乱がこの国を襲うだろうということは、マルラにもわかっていた。

「なぜ、あんなことを」

グリュンワルドは血の薄く滲んだ白い包帯に包まれて、囲いのあるベッドに寝かされている。

グリュンワルドの反応は無く、眠っているように思えた。

「なぜ……王も私も、なぜこんな目に遭わねばならぬのです」

マルラは泣いていた。

「王家の尊厳も、輝かしい歴史も、全てあなたが台無しにしてしまった」

呟きが部屋に低く響いた。

「私や王が悪かったのですか? あなたの望みは何だったのです?」

ふと目をグリュンワルドに向けると、彼の目は開いていた。そしてその目は、マルラには笑っているように思えた。いや、はっきりと笑っていた。

マルラは胸元から鋭く細い短剣を取り出し、グリュンワルドの胸を突いた。

虫のようにのたうつグリュンワルドに、何度も何度もその短剣を振り下ろした。赤い斑点が包帯に巻かれた身体に次々と浮かび、花が開くように広がっていった。

王妃の顔も、手も、何もかもが真っ赤に染まっていた。

グリュンワルドの血はベッドに満ちると、床へと一滴一滴、落ちていった。

「―了―」