3394 【虫】
薄暗い居城の中にいるということは、ぼやけた視界でもわかった。薬臭い己の体臭に混じって感じる空気の匂いは、故郷のものだ。
目を覚ましてから長い間、グリュンワルドはその片方しかない瞳で天井を見つめていた。懐かしい天井だった。ただ、こんなに長い間見つめ続けたことは無かった。
混濁する意識は、子供時代へと戻っていった。
彼の記憶の中では、暗く湿っていて孤独な世界だったが、心落ちつく世界だった。他人から気味悪がられ、避けられていたが、何も思い煩うことは無かった。
そこはただ、好きなものに囲まれた、自分だけの世界だった。
◆
グリュンワルドは急に声を上げたくなった。
だが、包帯に巻かれた下顎に感覚は無く、今、自分の口が開いているかどうかもわからなかった。
奇妙にくぐもった、何かが泡立つような音だけが部屋に響いた。
部屋には誰もいない。何の反応も無い。
そして、今度は急な眠気を感じ、目を瞑って眠りについた。
◆
夜中の突然のノックにローフェンは驚いた。ローフェンの地下の研究室を訪れる者などいない。ある一人を除いては。
扉を開けた彼の前に、王妃マルラがいた。
歳を取ってはいたが、未だにその高貴で近寄り難い美しさを保っていた。
「相談があって参りました」
「なんでしょうか、マルラ様」
ローフェンは丁寧に挨拶をした。
「王と王子の為にやっていただきたいことがあります」
マルラは雑然とした地下室を一瞥すると、そう言った。
「詳しい話を聞かせていただきましょうか」
ローフェンはぼろぼろの椅子を出し、テーブルにマルラを招いた。
「こんな場所にあなたが来られるとは。この城の地下にあなたが訪れることなど、決して無いと思っていましたよ」
「忌々しい思い出、と言いたいのですか」
「まあ、そんなところですな」
ローフェンはパイプを取り出した。もう滅多なことでは吸わなくなっていたが、苦手な人物を相手にするときには、つい欲しくなってしまうのだった。
「今度の宮廷会議が三日後にあります。あなたも出席なさるでしょう?」
マルラは話題を切り出した。
「ええ、もちろん」
「王権の今後について、何かしらの話し合いが行われるのでしょう」
既に王の意識は無い。王子が帰還する直前に重篤な事態に陥っていた。そして、グリュンワルドも帰還したが、誰もその姿を見ていない。
「まあ、現状を鑑みれば、そうならざるを得ませんな」
ローフェンは煙を吐きながら、一緒にそう言った。
「王子の様子は既に宮廷内で話題になっています。それと、王の病状は聞いていますか?」
「いいえ、まだ」
「一月も保たないでしょう」
「そうでしたか……。 陛下は長く立派な人生を送られた」
ローフェンは目を瞑って背もたれへ身を沈めた。ローフェンと王は、若い頃からよく見知った仲であった。
先代の兄王は、即位後僅か一年で亡くなった。彼が王位に就いてからは、長く相談役として彼を支えていた。
政策や王子達についても、随分と二人で話し合った。ただ、グリュンワルドの追放を決めてからは、彼との距離ができていた。
「ガイウス卿は王権の委譲の話を持ち出すでしょう。グリュンワルドが生きているにもかかわらず」
「彼ならそう言い出すでしょうな」
「混乱した国の状況を治めるには、王位に空白があってはならぬと、諸公に訴える気です」
「なるほど」
「だから、グリュンワルドが健在であると示して欲しいのです」
「どのようにして?」
「あなたの技術で彼を立たせ、声を出せるようにしてあげて欲しいのです」
「王妃、あなたは勘違いをなさっておられるようだ。私は義肢職人でも医者でもありませんよ」
「いいえ、やっていただかなくてはなりません」
「いっそ廃王し、諸公に譲られればよろしい。 穏便だ」
とは言っても、穏便に事が済まされるとは、当のローフェンも思っていなかった。諸公の誰が王になろうとも不満は出る。そして、その不満は陰謀や内乱を生じさせ、この国を混乱に陥れるであろう。
もちろんローフェンは、そうなればこの国から出て行こうと決めていた。
「今はそんな時期ではありません。 もしそうなれば、グリュンワルドも殺されてしまうでしょう」
「今になって母の情ですか?」
「いいえ、王族としての威厳を守りたいのです」
「でしょうな。 殿下の放逐の時に、あなたは何も文句を言わなかった」
少々きつい言い方だったが、ローフェンは遠慮などしなかった。
「王も王子も、まだ生きています。 馬鹿げた話し合いなど、まださせません」
マルラは毅然としたまま、ローフェンの皮肉を無視した。
「殿下を晒し者にするのですか?」
「いいえ。ただ、グリュンワルドが生きているということを、威厳をもって示せればいいのです。 あなたはグリュンワルドを理解し、友人であったのでしょう?」
ローフェンは彼女の強い決意を理解した。それは彼女の、王妃としての、譲れない意志なのだ。
「殿下はどう思っておいでかは存じ上げません。ただ、私が殿下を導こうとしたのは事実だ」
「彼の威厳を守ると思って下されば、それでよいのです」
「威厳ですか……わかりました、やってみましょう。 ただし、あなたの望み通りになるかは保証できかねます」
マルラの決意に絆される形になった。
「頼みます、ローフェン」
マルラは地下室から出ていった。彼女の香水の匂いだけが、不釣り合いに地下室に漂っていた。
◆
ローフェンはすぐに地下室にグリュンワルドを運び込み、施術を始めた。
グリュンワルドの身体の損傷は甚大だった。両手両足を失い、右目と下顎も失っていた。気高さを讃えていたその若い肉体は、無残に、そして徹底的に打ち壊されていた。
ローフェンはグリュンワルドの頭に奇妙な機械を取り付け、簡単な意思疎通ができるようにした。脳へのダメージも相当なものであろうと、ローフェンはみていた。
「声は聞こえていますか? 殿下」
くぐもった唸り声と共に、ローフェンの見ていたコンソールに色とイメージが浮かんだ。
「なるほど。痛ましいお姿ですが、これも一つの運命です」
ローフェンは、これから彼に施す施術について説明した。
「わかっていただけましたか?」
奇妙な光がコンソールに浮かんだ。それを見たローフェンは、一瞬、当惑の表情を浮かべた。
「……それがあなたのお望みですか。 いいでしょう。私の最後の奉公とさせていただきます」
ローフェンは冷静だった。
「仰せのままに」
そう呟くと、ローフェンは眼鏡を掛け直し、作業を始めた。
昼夜を問わぬ二日間で、ローフェンはグリュンワルドの施術を終えた。
◆
控えの間に、家臣達が謁見のために集まっていた。そこで彼らは宮廷会議に王子が出席すると聞き、一様に驚きを隠さなかった。
家臣達が議事堂に入ったときには、既に王子が席に着いていた。
王子はフードを目深に被り、片目だけを出した奇妙なマスクを着けていた。両手は彫金で装飾された王族の甲冑を纏っている。
一瞬訝しむ一同だったが、その瞳の色は確かにグリュンワルドのものだった。
諸公は王子の前で感嘆や賛美の声を上げた。ただ、一様に、その不気味な王子の姿に警戒していた。
全員が席に着き、奇妙な沈黙の時間が流れた。
ガイウスが堪らず言葉を切り出す。
「殿下が無事のご帰還をなさったこと、その無事なお姿に臣民も必ずや歓喜のうちに……」
切り出したガイウスの言葉を、グリュンワルドはその鉄の腕で不器用に制止した。
そして、机に置いた紙をガイウスに向かって指し示した。
ガイウスはその紙を取り、読み上げた。
「私は死地から帰ってきた。そこで得たものを皆と分かち合いたい。是非とも、その味を諸公らに味わってもらおうと思う」
ガイウスは詰まりながら、そして意図を計りながら、辿々しく読み上げた。
ガイウスが読み終えると同時に、グリュンワルドは両腕に仕込んだ散弾を、左右に並んだ諸公に一度ずつ撃ち放った。爆音と硝煙、真っ赤な血煙が部屋を満たした。グリュンワルドの真横にいたガイウスに弾は当たらなかったが、粉々になった家臣の肉片が彼の顔一面に飛び散った。
「狂いましたか! 殿下!」
ガイウスがそう叫んだ時、グリュンワルドは機械で作られた声で笑っていた。ただそれは、何かが地獄で煮られているような、奇妙なぶくぶくという鈍く低い響きでしかなかった。
そして、怯えて立ち尽くすガイウスの頭を、腕に仕込まれた刃で顎から頭頂に貫いた。
左右に並んでいた家臣の中で生き残った四人が、這々の体でグリュンワルドから逃げようとする。それを逃さんとするグリュンワルドが椅子から立ち上がった。が、膝から下の義足が上手く機能せず、そのまま床に崩れ落ちた。しかし、そのままグリュンワルドは膝と手で這うように彼らを追った。
そして、義手の刃を杖のように使って立ち上がり、逃げる四人の背中を切り裂いた。
血の海となった議事堂で、奇妙にねじ曲がった四肢を揺らしながら、グリュンワルドは笑っていた。まるで子供が悪ふざけを成功させたときのように身体を震わせ、のたうち続けていた。
◆
グリュンワルドは衛兵によって捕らえられた。そして義手義足を取り外され、元の居室に幽閉された。
今回の凶事はまだ城外には知らせていなかったが、既にローフェンは城からいなくなっていた。
とてつもない混乱がこの国を襲うだろうということは、マルラにもわかっていた。
「なぜ、あんなことを」
グリュンワルドは血の薄く滲んだ白い包帯に包まれて、囲いのあるベッドに寝かされている。
グリュンワルドの反応は無く、眠っているように思えた。
「なぜ……王も私も、なぜこんな目に遭わねばならぬのです」
マルラは泣いていた。
「王家の尊厳も、輝かしい歴史も、全てあなたが台無しにしてしまった」
呟きが部屋に低く響いた。
「私や王が悪かったのですか? あなたの望みは何だったのです?」
ふと目をグリュンワルドに向けると、彼の目は開いていた。そしてその目は、マルラには笑っているように思えた。いや、はっきりと笑っていた。
◆
マルラは胸元から鋭く細い短剣を取り出し、グリュンワルドの胸を突いた。
虫のようにのたうつグリュンワルドに、何度も何度もその短剣を振り下ろした。赤い斑点が包帯に巻かれた身体に次々と浮かび、花が開くように広がっていった。
王妃の顔も、手も、何もかもが真っ赤に染まっていた。
グリュンワルドの血はベッドに満ちると、床へと一滴一滴、落ちていった。
「―了―」