3393 【蝶】
メリアが再び目を覚ましたとの知らせを受けたのは、彼女が倒れてから約二週間後のことだった。
あんな出来事の後であり、ブレイズにとってそれは望外の知らせだった。
「にい…さん……」
以前と同じ透明なシートに覆われたメリアを見て、強い哀れみをブレイズは感じた。
「兄さん、どこ?」
弱々しい眼の動きで、メリアはブレイズを探している。
「ここにいる、ここにいるよ、メリア」
自分を見つめる彼女の瞳の光を見て、ブレイズの心に喜びが広がった。
「兄さん、私、もうすぐ死ぬんでしょう? だからこんなに苦しいのね」
苦しみに歪んだ表情のメリアはそう呟いた。
「そんなことはない。 私が必ず助ける。 だから……」
ブレイズの言葉にメリアは目を逸らし、何も答えなかった。
◆
ある日、ブレイズはメリアと共に病院の敷地内にある庭を訪れていた。メリアの調子は一時的に上向くことがあり、そんな時は、こんな風に時間を過ごすことが許されていた。
規則正しく植栽された庭には、病院の敷地内で放し飼いにされている鳥や蝶が何匹かいた。人工的に造られ、演出された庭ではあったが、病院の敷地外に出られなくなったメリアには、良い気分転換になる筈だった。
「ねえ兄さん、見て」
メリアの膝の上に、小さな蝶が止まっていた。
「蝶か。 綺麗だな」
メリアはじっと蝶を見ていたが、突然、掌で捕まえると、無造作に握り潰してしまった。
「メリア!? どうした……」
「いつかみんな死ぬんですもの。 今ここで私が殺しても一緒。 そうでしょう?」
「メリア……」
ブレイズはメリアの奇矯な行動に酷く衝撃を受けた。だが、それを表情に出さないまま、慰めるようにメリアを抱き寄せた。
「大丈夫だ、メリア。 そんな風に思うことはない」
メリアはブレイズの胸の中でも、握り潰した蝶の感触を確かめていた。
◆
その日以来、メリアの言動はより不可解なものになっていった。殆ど寝たきりで苦痛に苦しんでいたかと思えば、突然庭を歩き回って奇妙な行動を取ったりした。ブレイズは医者に原因を聞いたが、曖昧な言葉しか返ってこないことに失望した。
「見て、兄さん。 やっと殺せた。 ずっとここから見ていて不快だったのよ。 あの鳥」
血塗れの手には、黄色い小鳥が握られていた。
「薬入りのえさ、喜んで食べたの。 馬鹿ね」
メリアの表情は微笑みで一杯だった。
「もう休むんだ、メリア。 薬は飲んでいるか?」
メリアの手から小鳥の死骸を取り上げ、ブレイズは見えないところへ投げ捨てた。そして、血で汚れた彼女の手を握った。
「薬なんて、ただ眠くなるだけ。 調子の良い日くらい、こうしていたいわ」
「ここには来ない方がいい。 病室にいよう」
メリアはブレイズの言葉を無視して続けた。
「兄さんも命を殺すの? 誰かが言ってたわ。ねえ、人を殺すのはどんな気持ち?」
メリアは当て付けや皮肉ではなく、ただ楽しみや趣味を共有してみたいという調子で言った。
「人を殺めることなど、しないほうがいいに決まっている」
「どうして? どうせ皆死ぬのだから、意味なんて無いじゃない。だったら、殺しても一緒よ」
「そんな風に言うな。 人の生には意味がある。 それぞれ――」
「うそ。 私、何もできずにこのまま死ぬのよ。 意味なんて無かった」
ブレイズは言葉が続けられなくなった。
「私だけが意味無く死ぬなんて。そんなの、ずるいわ」
「メリア、戻ろう。 休むんだ」
ブレイズはメリアの手を引いて連れ戻そうとしたが、彼女はその手を払った。
「兄さん、私はまだ平気よ。 私だけがこんな目にあうのは、もう嫌!」
◆
メリアが壊れていくにつれ、ブレイズの心には言いようのない絶望が広がっていった。己の全てだった妹が生きたまま壊れていく。優しい思い出も、愛も、全てが灰色の廃墟のように変わっていくと感じられた。
全てを打ち棄てて、仲間を殺すという業を背負ってまでも守りたかったメリアの生が、内側から壊れてしまった。
医者に説明をしてメリアを再び眠りにつかせると、ブレイズは病院を去った。
◆
後日、再び原因を説明させようとしたが、医者からの答えは、ぼやけたものでしかなかった。
眠っているメリアの前にブレイズは座っていた。眠っている彼女の顔は昔のままだった。
幼い頃から共に生きてきたつもりだった。全てを捧げたつもりだった。それが壊れていく。
妹が言った、生きる意味。
彼女が「無い」と言い切ったその意味を、自分も失っていたことに気付いていた。
ブレイズは隠し持っていた短剣を取り出した。
そして、メリアの胸に突き当てた。
「終わりにしよう。 私も一緒に行く」
メリアの眼が突然に開いた。
「にい、さ……」
ブレイズはその瞳から眼を逸らし、短剣に強く力を込めた。刀身が深く入っていく。
ふと、人体とは異なる感触にブレイズの手が止まった。
メリアの胸元から緑色の液体が滲み出してきた。それは、メリアが人ならざるものであることを示していた。
妹を模した何かは、空を掴むように藻掻いていた。ブレイズはベッドから離れ、呆然とその姿を見つめていた。
メリアだったモノは何度も上半身をくねらせたかと思うと、口から大量の体液を吐いて、動きを止めた。
◆
ブレイズは拘束されていた。病室で短剣を持ったまま自らを失っていたブレイズを、保安部員が取り押さえる形になった。
ただ、ブレイズは何の抵抗もせずに捕縛された。
「酷い結末だ」
椅子に座らされていたブレイズは、男の声で顔を上げた。そこには呆れた表情を浮かべた監視局の技官がいた。
「メリアは、メリアはどうなった……」
ブレイズは呟くように問うた。
「貴方が働くならば、と人形を覚醒させたのは、間違いだったのかもしれませんね」
技官は淡々とそう口にした。
「妹を、本物のメリアをどこへ連れて行った!!」
「妹さんはずっとここにいましたよ」
「違う! あれはメリアじゃない」
メリアだったモノは、まだベッドの上にあった。
「生身の彼女は、既に三年前に死亡しています。 そこにあるのは妹さんの姿を模した自動人形。ですが、妹さんの記憶をもとに人格を再現してありますので、同じものといってもいい。 貴方もそう感じていたでしょう?」
「違う……」
「受け手がそう感じているなら、それは同じものです。 林檎の形をして林檎の味がするなら、それは林檎です。 貴方は彼女を妹さんだと認め、そう接してきたのだから、同じものなのです」
「違う、メリアはこんな風に狂ったりはしない」
ブレイズは声を荒げた。
「彼女の感情の不具合についてですが、その原因が元の人格に起因するのか、それとも機械にあるのか、それは調査しないとわからないことです」
「違う……」
「そこの議論はやめましょう。 無駄です。 ただ、貴方は自分で妹さんを殺した。 それは変わらない」
「私は……」
ブレイズは言葉を告げられずにいた。
「まあ、自分で始末をつけたのは良いことかもしれません。 考え方によっては」
技官の口元には笑みが戻っていた。
◆
グランデレニア帝國帝都の片隅にある小さな宿屋で、ブレイズはぼんやりとランプの明かりを見つめていた。
メリアを模した自動人形を自らの手で破壊してから、随分と時間が経っていた。
ブレイズは失意の中、技官に言われるがままに生きてきた。支えを失ったが故に、ただ与えられた作業を機械のようにこなしてきた。たった一つ、妹を殺したという事実、罪の意識だけが重く心を覆っていた。
◆
ふと、宿泊している部屋の前に人の気配がすることに気が付いた。それを認識するが早いか、音も無く扉が開く。
現れたのは、別行動を取っている筈のマックスと、不思議な形の仮面を付けた人物だった。
「何者だ?」
「私はカストード。 不死皇帝の代理人だ」
「グランデレニアの皇帝の使いが、一体何の用だ」
ブレイズは己の長剣に手を掛けた。マックスと共に現れたとはいえ、本当にそのような地位の人間が自分を訪ねてくるとは思えなかった。
「なぜマックスを連れている」
戦闘のために作られた自動機械であるマックスがこの男と共にいるのは、あり得ないことだった。
「彼とは旧友でね。 君を紹介してもらうことにした」
「機械と旧友とは、奇妙な話だ」
「そうかね。 機械の妹のために仲間を殺した男もいるそうだが」
カストードの表情はマスクに隠れていてわからない。
「貴様、何が言いたい」
ブレイズは剣に掛けた手に力を込めた。
「世界の秘密は全て不死皇帝の下に集まる。 我々は君の力になりたいのだ」
その鷹揚な声の響きには、不思議な魅力があった。
「誰の助けも求めてはいない」
ブレイズは呟くように答えた。
「罪の意識だけを抱え、パンデモニウムの奴隷として生きることで満足なのか?」
「お前には関係のない話だ」
「妹を取り戻す術があるとしたら、どうする?」
剣に掛けた手から力が抜けた。
「あの自動人形、いや、メリアは未だ彼女のまま存在する」
動揺するブレイズに、カストードはゆったりとした声色で囁いた。
「私が手を回せば、再び起動させることができる」
「またメリアと一緒に暮らせるのか!?」
ブレイズは望外の提案に思わず聞き返した。
「そうだ。お前が望むものを、我々は与えることができる」
「どうやって保証する?」
「不死皇帝の名に誓って」
ブレイズの心によぎったのは、故郷で見たメリアの微笑みだった。彼女へ感じる優しさや感情を取り戻せるのならば何でもしようと、既に決意していた。
「―了―」