42コンラッド1

3243 【神秘】

有機化合物と塩基の混合液に満たされた楕円形の箱の中に、コンラッドは納められていた。

外には何人かの人の気配があり、始終何か会話を交わし、時には怒鳴るような声さえも聞こえてきていた。

中から外の様子はわからない。そもそも、目を開けていられないほどにコンラッドは傷つき、衰弱していた。

手足の感覚はなく、身体が上を向いているのか下を向いているのかさえもわからない。

覚束ない感覚の中、コンラッドは昔の夢を見た。

「ぐぞ……」

顔の下半分を赤黒く染めた筋肉質の大男が、壁にもたれるようにして呻いていた。

「ぬるい」

コンラッドはその男を一瞥すると、一言吐き捨てて薄暗い路地を後にした。

スラムで生活していたコンラッドにとって、暴力沙汰は日常茶飯事であった。

自身の詳しい出自は知らなかった。物心ついた時から、養父と共に棍術を主体とした武道と酒に明け暮れていた。

「オレはよぉー、首都じゃ有名な武道家だったんだよぉー。おらぁ、酒だ、もっと酒もってこいよぉー」

「いい加減にしろ、もう酒はないぜ」

「アァン? ケチつけんだったらオレに一回でも勝ってからいえよぉー」

酒に酔った戯言と思ったことも一度や二度ではないが、養父の強さは確かなものであった。事実、養父が亡くなるまでコンラッドは彼から勝利を奪うことはできなかった。

「おめーにオレの技術全部教えてやっからよぉー、首都の連中を見返してやってくれよぉー」

これもまた養父の口癖だった。どうしてスラム暮らしの転落人生を歩んだのかはわからなかったが、その言葉には悔しさや憎しみが募っていた。

だが、コンラッドが養父の言葉に従うことはなかった。彼にとって養父の技術は、スラムで生きていくためのものに過ぎなかった。

力には力で対抗した。そうする内に、コンラッドは誰も彼も叩きのめす凶器と化していった。何かが憎かった訳ではない。生きるためにはそうする他なかった。

「もし、そこの若者よ」

路地を出てすぐ、嗄れた声に呼び止められた。声のする方を睨み付けると、声に違わぬ小さな老人が立っていた。

「あん?」

「道をお尋ねしたいのですが、アキムという者がやっている薬屋の場所はご存じですかな?」

「アキム……、ジジイ、あの男の知り合いか?」

「えぇ、そんなところです」

老人はにこやかに答えたが、コンラッドは眉を顰めた。つい二日前、コンラッドは薬屋のアキムと揉め事を起こしたばかりであったからだ。

「悪いなジジイ。俺はアキムの野郎に一杯食わさないと済まなくてね。少々痛い目を見てもらおうか」

この老人がアキムの客であるならば、少々痛め付けてアキムの商売の邪魔をしてやろう。そんな程度に考えた。

「おやおや、血気盛んな若者だ」

老人はコンラッドの態度に鷹揚に笑った。ただ笑っているだけなのに、コンラッドは見下されたように感じた。

「調子に乗るな、くたばり損ないが!」

ただ一撃、棍棒で殴りつけるだけ。それだけでこの老人は事もなく倒れる。そのイメージを思い描きながら、コンラッドは腕を振った。

その時の老人の目はコンラッドを見据えており、またコンラッドの目も老人を捉えていた。

「ぐ……」

「どうしましたか? 得物が届いていないようですが」

武器が老人に届かない。まるで全身が見えない鎖に拘束されたように、どうやっても動かすことができなかった。

「少々、心の鍛錬が足りないようですね」

老人は事も無げに言うと、コンラッドに近付いて腕を取り、軽々と背後へ投げ飛ばした。

地面に叩きつけられて呆然としていたコンラッドだったが、暫くして身体の自由を取り戻した。立ち上がったときには、既に老人は立ち去った後であった。

「な……にが……」

何もできずに敗北することは、養父以外では初めてであった。

金縛りのようなものから解放されると、その足ですぐにアキムの店へと向かった。

不可思議な現象を目の当たりにしたコンラッドは、その力の秘密を知りたくなった。となれば、唯一の手掛かりは老人の知り合いらしいアキムから聞き出すしかない。

揉め事を起こしたばかりで癪ではあるが、それよりも老人への好奇心が勝った。

薄汚れた店内には、何に使うのかわからない草や調合された薬による嫌な臭いが立ち込めており、コンラッドは顔を顰めた。

「相変わらず酷い匂いだ」

「何の用だ、罵倒するだけなら帰ってくれ!」

「さっきお前のところに身なりのいい小さなジジイが来ただろう。アレは誰だ?」

「あぁ? 人に物を聞く態度じゃねえな。情報が欲しけりゃ、よこすもんよこしな」

アキムは下碑た笑いを浮かべながら手を差し出す仕草をした。コンラッドは舌打ちすると、アキムの顔面に持っていた金を投げ付けた。

アキムから老人についての話を聞きだした翌日、首都ルーベスへと赴いた。

普段の格好では目立つため、以前誰かから奪い取ったそれなりに上等な服を着込み、さも首都の人間であるかのように歩いて目的地を目指した。

アキムから聞き出せたのは二点だけだった。老人はウェルザーという名であること。そして、首都ルーベスにある大聖堂で祭司職に就いているということであった。

ミリガディアはこの世界に《渦》が発生して少し経った頃に、ヨーラス大陸南部に伝わる『命の神』を信奉する宗教が母体となってできた国である。

スラムに暮らす者や渦から逃れてきた難民は例外としても、国民は基本的に皆『命の神』を祀っている。

ウェルザーという老人が祭司を勤める大聖堂も、この宗教施設の一つであった。

大聖堂の中に入ると、祭司用の服を身に纏ったあの老人が、赤子を抱えた女に何やら説いているところだった。

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

「神は行動するものに必ず加護を授けます。あなた自身が救われる道を選択したからこその結果なのです」

ウェルザーらしき老人は、穏やかな笑みで親子を見送った。

「おや、あなたは昨日の。何かお悩みごとでもあるのですか?」

親子がコンラッドの横を通り過ぎたのを見計らい、備え付けの椅子に腰掛けようとしていたコンラッドをウェルザーが呼び止めた。

遠目からどのような人物か観察するつもりだったコンラッドは小さく溜息を吐くと、ウェルザーに近付き、率直に疑問をぶつけることにした。

「昨日アンタが使った妙な力はなんだ?」

「おやおや、何かと思えば。わたしは何もしておりませんよ」

コンラッドの失礼な態度にも、にこやかな笑みを崩さずにウェルザーは答えた。その余裕そうな態度に、コンラッドは苛立ちを募らせる。

「そんなはずはない。あの時、オレは金縛りにあったように動かなかった。あんなことは初めてだ」

「ふむ……例えばそれに答えがあったとして、それを聞いたあなたはどうするおつもりですか?」

「アンタには関係のない話だ」

「そう仰られても、あなたの望む答えをわたしは持ち合わせておりません。あなたの言う『力』とやらは持っていないのです」

「なら、あの力は一体なんなんだ」

「ほんの少しだけ、わたしの方があなたよりも心が強靭であった。 それだけでしょう」

「どういう意味だ?」

「あなたは畏怖したのです、神に仕える者に。その心に。 心の鍛錬を怠っていなければ、そのようなことは起こり得なかったでしょう」

「まやかしだな。精神論で片付くようなものではないはずだ」

「そのようなことはありません。我々人間は神から授かった心で生きています。その心を強くすることが我々の使命です。武道を志すならば、なおさら大事にすべきことです」

「結局は神か」

上手くはぐらかされたな。そうコンラッドは思った。この小さな老人はやはり何か隠しているのだろう。

あの力を神を信奉することで手に入れたのか、それとも元々持ち得たものかはわからない。だが、あれは確かに『心の鍛錬』で済ませられる現象ではなかった。

その日から、コンラッドはウェルザーが見せた力の秘密を探るべく、大聖堂に足繁く通うようになった。

宗教的なことはさっぱりわからなかったが、ウェルザーの説教には何か不思議な力があるように感じられた。

ウェルザーの言葉を理解するために大聖堂で配布している教義の書かれた本を手に取り、『命の神』について少しずつ学ぶようになった。

ある日、コンラッドは『命の神』の伝承が書かれた本を読みながら大聖堂への道を歩いていた。

伝承自体は御伽噺もかくやという内容であり、さほど興味を惹かれるものではなかったが、これもあの力を手に入れるためと、頭に入れていた。

本の内容に注視するあまり周囲への注意を怠ってしまったのか、路地を通り過ぎるときに誰かの腕とぶつかった。

「ぶつかっておいて謝罪もなしかよ、舐めてんのか? え、おい!」

気にすることもないとそのまま通り過ぎようとしたところ、やけに響く声で呼び止められた。

そこでようやっと本から目線を外して相手を見やる。それは以前、完膚なきまでに叩きのめした名も知らぬ大男だった。

つい何週間か前にへし折った筈の鼻が無事なところを見ると、あの時は随分と手加減してしまったようだとコンラッドは思った。

「邪魔だ。またその鼻っ柱をへし折られたいか」

「言ってくれるじゃねぇかよ。本なんて読んで、お前たちとは違うんですってか?」

「オレが何をしようと、お前には関係のない話だ」

コンラッドは本を懐にしまうと、流れるような動作で腰に携行している三節棍を振り抜いた。

勢いよく振り下ろされた棍棒の先端が大男の顔面を捉えたように見えた。しかし、大男はその場にいなかった。下品な笑いだけがコンラッドの耳に届く。

「何!?」

「ここだよ、ここ。本ばっかり読んで頭でっかちにでもなったのか?」

頭上から響く声にコンラッドは上を見上げた。大男は裏路地を照らすために設置された街灯の天辺に器用にしゃがんで、コンラッドを見下ろしていた。

更に大男は揺れる街灯からコンラッド目掛けて飛び降り、全体重を掛けて圧し掛かってきた。

「ぐっ」

全身を地面に打ち付けたせいで息が詰まる。衝撃で明滅するような視界を振り切って相手の鳩尾あたりに膝蹴りを当て、相手の動きが止まったその一瞬の隙を突いてなんとか脱出する。

「逃げてんじゃねぇよ」

腹を押さえながら立ち上がる大男の容姿が、煙を上げながら変貌していくのが見て取れた。顔や肌の表面が鱗状の突起物にびっしりと覆われていく。

爬虫類めいた容姿に変化した大男は声だけで笑った。顔の作りが変化したことで、どういった表情をしているのかは読み取れない。

姿が変化しようとも無敵という訳ではないことは、先程の一撃で判明していた。

逃げ切ることはできないと思い、コンラッドは三節棍を連結して構えを直した。

大男は体格に似合わない素早い動きでコンラッドとの距離を詰めると、鱗に覆われた右腕で殴り掛かってくる。

コンラッドは棍棒でその拳を薙ぎ払うも、相手に腹を蹴られて壁にぶつかった。

「いつまで涼しい顔をしてられるか、見ものだな!」

大男は大きく笑いながら、体制を立て直しつつあるコンラッドを殴り飛ばした。

再び姿勢を崩したコンラッドに対し二度、三度と容赦なく殴り付けてくる大男だったが、コンラッドは反撃の機会をじっと待っていた。

「お前ごときに倒される気はない」

「いい加減、やられちまえよ!」

段々と顔を狙っていた大男の拳の位置にずれが生じてきた。大男をじっと見ると、目の焦点が合っていないことにコンラッドは気が付いた。

「ガアァァ!」

とうとう大男は咆哮を上げると、あさっての方に向かって腕を振り上げた。その隙を見たコンラッドは大男に体当たりし、広い通りへと転がり出た。

「おや……」

転がったその先にはウェルザーがいた。小さな薬臭い袋を持っているところを見ると、アキムのところからの帰りのようであった。

「逃げろ! こいつは危険だ!」

コンラッドは無意識のうちに叫んでいた。コンラッドにも矜持というものがあった。例えいけ好かない首都の住民であれ、個人の闘争に巻き込む訳にはいかなかった。

緩慢な動きで大男は立ち上がると、ウェルザーとコンラッドを区別できなかったのか、ウェルザーに向かって拳を振り上げた。

「我を失っているようですね。いけないことです」

ウェルザーは異様な姿の大男に動じることはなかった。その小柄な体躯に見合う動きで、大男の攻撃を回避していく。

コンラッドは大男の視線がウェルザーに集中しているのを見ると、弾かれたように動いた。

棍棒を大男の背後から振り下ろし、その脳天に叩き付けた。

大男はそのまま地面に倒れ付した。爬虫類のようだった外見は、すっかり人のそれを取り戻していた。

荒い息で大男をじっと見つめるコンラッドも地面に座り込んでしまった。殴られた部分は酷く痛んでおり、立っているのは限界であった。

「大丈夫ですか? 必要なら病院で手当をしましょう」

そこへウェルザーが特に慌てる様子もなく近付いてきて、コンラッドを見下ろしていた。

異形と化した人間を見ても動じないこの祭司は、どうあっても只者ではない。

「逃げろと言ったはずだ……」

「ここで逃げれば、あなたはもっと酷い目に遭っていたでしょう。覚悟を持って動く者を神は見捨てません。わたしは教えに従って行動したまでのことです」

「あんたは一体なんなんだ?」

「この世に生きるもの全てに大善なる愛を注ぐ神の教えを広めるだけの、ただの祭司です」

ウェルザーは人の良さそうな笑みを浮かべてそう答えると、コンラッドに手を差し伸べた。

「祭司が嘘を吐くもんじゃない」

この小さな老人の秘密を絶対に暴いてやる。コンラッドは決意を新たに、その枯れた手を取って立ち上がった。

「―了―」