3360 【魅惑】
ある日、魔都ローゼンブルグ第七管区にある『組織』が管理するビルに、一つの棺が運び込まれた。
ソルジャーが抗争の戦利品として持ち帰った品で、財宝が入っているという。
人一人が入れる程の大きさであろうか。華美な装飾に彩られた棺には『ビアギッテ』と書かれた金のプレートが嵌め込まれていた。
敵対組織から持ち帰った品のため、爆弾や危険物が仕掛けられていないかのチェックが行われることになった。
◆
組織に運び込まれた品物の検分や解体処理を請け負う者による一通りのチェックが終わり、危険物は入っていないことが確認された。
この棺を持ち帰ったソルジャーとその直接の上役であるカポの立会いの下で、棺の開封作業が始まった。
中に入っていたのは財宝ではなかった。一人の女性が、古いウサギのぬいぐるみを抱いて静かに眠りについていた。
「この女、まだ生きてるぜ」
「どうしますか?」
「お前の戦利品だろ、お前の好きにしたらいい。これだけの見た目だ、高く売りつける方法はいくらでもある」
「そうですねえ……」
口々に男達が言い募っていると、女の目が開いた。
「ここは……どこ……?」
ビアギッテは薄汚れたビルの地下で、何十年かぶりに言葉を発した。
目覚めたビアギッテは記憶の混濁を起こしていた。
自分が何者かもわからずにただ困惑し、持っていたぬいぐるみをしっかりと抱きしめるだけであった。
「サビーノ、どうするんだこの女? どうするかはお前の自由だが」
「いいんですか?」
「ああ」
「でしたら、見た目は悪くないですし、俺の世話でもさせますよ。 覚えさせりゃ何とでもなります」
「ほう、女なんかそこらへんの娼婦でいいって言うお前がねぇ」
「こんな上玉、捨てる方が馬鹿ですよ」
「違いねぇ。まぁ、他の連中には俺が取りなしておくさ。誰も文句は言わねぇだろうが、一応な」
サビーノと呼ばれた若い男ともう一人の男は、薄ら笑いを浮かべてビアギッテを舐めるように見回した。
ビアギッテはその視線に恐怖を感じたが、何もわからない状態のために行動を起こすことができなかった。
その日から、ビアギッテはサビーノの下で使用人として働かされることになった。
何もわからないまでも教えられればその通りにこなすことができたのは、ビアギッテにとって幸いだった。
◆
サビーノの使用人となってから一年が過ぎていた。言われるがままに夜の相手を務めたことも、数え切れなくなっていった。
『情婦』として扱われる存在だったが、それに抗うことはできなかった。
◆
ビアギッテはその頃から悪夢に悩まされるようになった。サビーノに起こされて周囲を見回すことも何度もあった。
不思議がるサビーノに、ビアギッテは少しだけ夢の内容を語った。
「昔の夢を見るの。親も、恋人も、誰も私を見てくれない」
「こんないい女に見向きもしないとは、お前の昔の恋人とやらの目は節穴だな」
サビーノはぼんやりとした調子のビアギッテの肩を撫でた。
「そうかもしれないわね」
それだけ言うと、ビアギッテはウサギのぬいぐるみを抱きしめた。
◆
「サビーノが……死んだ?」
サビーノの上役であるガイの口から、それは突然告げられた。
「あぁ。手柄を焦って、キアーラの連中と揉め事を起こして殺された……」
サビーノの管轄するシマが、ファイヴの一人であるキアーラの組織によって乗っ取られ掛けている話は聞いていた。
それに決着を付けてくると言って、サビーノは昨夜出掛けていった。
「そう……」
ビアギッテは俯いた。
「ここもすぐ引き払わなきゃならん。お前はどうしたい?」
「行く当てなんてないわ」
ビアギッテはサビーノの情婦という立場だ。義理として、組織は彼女の世話をするのが掟だった。
「多少の手助けはするつもりだ。上の階層に行くのは難しいが、仕事と住居の世話ならしてやれる」
「どんな仕事があるのかしら?」
犯罪組織が抗争を繰り返すこの区画でビアギッテが生きていくには、組織――プライムワン――に縋る他に道は無かった。
◆
ビアギッテはガイの手配により、ガイの管理するシマにある酒場の一室を住居として宛がわれ、住み込みで働き始めた。
「おう、ビアギッテ。今日も綺麗だな!」
「ふふ、ありがとう。でも、お世辞よりもたくさん注文してくれたほうが嬉しいわ」
男臭い雑然とした酒場では、ビアギッテの容姿はとても目立っていた。
「昨日は楽しかった。また次も誘っていいか?」
「ええ。いつでも誘って頂戴」
「またな」
ビアギッテは時折、酒場に通う組織の者と夜を共にするようになっていた。
自分から誘った訳ではないが、誘われれば断ることはしなかったし、特に抵抗は感じなかった。
男を見送っていると、下の階からガイが来るのが見えた。
「やるねぇ」
「ガイ、久しぶりね」
「いつからこんな事を?」
「ここで働き始めてからずっとよ。一人は寂しいもの」
「寂しい、か。なら、俺と今晩どうだ?」
「それもいいわね」
「仕事が終わったら迎えに行く」
「楽しみにしてるわ」
ビアギッテは優雅に微笑んで答えた。
◆
ガイと夜を共に過ごすようになって、暫くの時が過ぎた。
「ビアギッテ、今日は……」
「悪いな、俺が先約だ」
「し、失礼しました!」
ガイがいることで、他の男達は声を掛けてこなくなった。
ビアギッテは酒場の仕事を辞め、ガイの情婦となった。
ガイは見るまにビアギッテに惹かれていった。その蠱惑的な美しさを手に入れたことで、ガイは組織の男として自信がつくような気がしていた。
組織のパーティでは、見目麗しいビアギッテはたちまち幹部らの話題の中心となった。
「いい女だな」
「ええ、すばらしい女です。俺の女神だ」
ガイは誇らしげにそう語っていた。
◆
程なくして、ガイはビアギッテに結婚を申し込んだ。しかしビアギッテはその申し出を拒否した。
ガイはそれでも諦めずに彼女に高い服や宝飾品を与え、どうか自分と一緒になってくれるよう頼み続けた。
それでも、ビアギッテは承諾しなかった。
ある日、ひどく酔っ払ったガイに詰め寄られた。
「なあ、ビアギッテ、いい加減首を縦に振ったらどうだ? 誰かに義理立てしてるわけじゃねぇんだろ」
「ごめんなさい……」
ビアギッテは俯くだけだった。
「まさかお前、他に男がいるのか? 誰だ! 答えろ!」
「いないわ。でも、あなたの妻になることはできない」
その瞬間、ビアギッテは頬を叩かれた。
呆然としていると、今度は首に手を掛けられる。
抵抗する間もなかった。その瞬間、朧気な記憶の一部が鮮烈に蘇った。
かつて、同じように恋人に首を絞められたことを思い出した。
目の前にいるガイと、かつての恋人の顔が重なる。似てこそいないが、その鬼気迫る表情は同じだった。
「離して!」
ビアギッテは思い切りガイを振り払うと、部屋の外に向かって逃げ出した。
その際、逃がすまいとガイに掴まれた服の一部が音を立てて破れた。買い与えられたシルクの高級品だ。
部屋を飛び出すと、丁度アパートメントの階段から若いソルジャー数人と幹部の一人がやって来るのが見えた。
「助けて!!」
ビアギッテは渾身の力で叫んだ。
幹部と若い衆が駆け寄ってくる。
「どうした? 何があった?」
「ガイが……ガイが……」
何か言おうとしても、それしか言葉が出てこない。
「おい、ネレーオ、見てやれ」
「は、はい!」
幹部がネレーオというソルジャーに指示を出す。それが早いか、銃声が響いた。
「ぐわっ」
銃声が響くと同時に、ネレーオという男がくぐもった悲鳴を上げた。肩から煙が出ている。
撃たれたようだった。
「ガイ、何をしやがる!」
カポが怒鳴る。酔ったガイは拳銃を持ち出し、カポに向かって構えていた。
「お前か! 俺の女に手を出したのは!」
「ガイ、何を言っている!」
「うるせぇ! じゃあなんで、ビアギッテは俺のものにならないんだ!」
ガイは銃弾を放つが、酔っているせいかアパートメントの壁を破壊するだけに留まった。
「仕方ねえ、始末しろ。騒ぎが大きくなる前にな」
ガイは数回の撃ち合いの末に、射殺された。
◆
その日の内にガイの死体は始末され、存在ごと抹消された。
残されたビアギッテは、カポ達によりボスのところへ連れて行かれた。幹部の暴走を招いた女から事情を聞く必要があるとのことだった。
「連れてきたか?」
「はい」
「相変わらず美しいな。あいつが狂うのも、わからんでもない」
ボスはビアギッテを鑑賞するように眺めた。
「どうします? 一緒に始末しますか?」
「その必要はねえだろう。 ガイのこと、惚れてなかったんだろう?」
「それは……」
ビアギッテは口籠もった。
「まあいいさ。細かな事情は落ち着いてからでいい。よし、しばらく俺のところで預かろう」
死んだ幹部の情婦をボスがすぐに身請けするのは、あまりいいことではない。幹部達はボスに見られない形で目配せをした。一部の者は露骨に嫌悪感を表していた。
ボスはビアギッテの肩に手を置いた。
「ビアギッテといったな。俺の言うとおりにしておけば、悪いようにはしねえ」
「ありがとうございます」
ビアギッテはボスを見つめてそう言った。
「話はこれで終わりだ。 組織につまらないトラブルを持ち込むんじゃねえぞ」
幹部達はボスの言葉を聞くと、部屋から去って行った。
「―了―」