48ヴィルヘルム1

3394 【残光】

夜が明けた。空は白み、陽の光がトレイド永久要塞を照らし始める。

要塞に陣取るルビオナ王国軍及び傘下の連合軍兵士達には、緊張しながらもある程度の余裕があった。

そんな中、ヴィルヘルムはロンズブラウ軍の陣地で今回の作戦内容を再確認していた。

「何だ、あれは……」

誰の呟きだったかはわからない。ただ、巨大な機影が見えた。

それが帝國軍の擁する巨大戦艦ガレオンであると認識する間もなく、要塞に轟音が響いた。

一瞬の出来事だった。ガレオンの砲撃によりルビオナ王国軍が駐留していた陣地の一部が餌食となり、瓦礫を残すのみとなった。

兵士達は襤褸のように吹き飛び、硝煙と血の臭いが周辺を支配する。

恐怖に乱れた統制は更なる被害を呼んだ。帝國兵の突撃に対応できなかった王国軍は、手の打ちようもないまま蹂躙された。

「殿下、このままでは我が軍にも甚大な被害が」

ヴィルヘルムは事態を重く見てグリュンワルドに指示を仰いだ。ロンズブラウ軍は直接の砲火に曝されていないために統制を保っていたが、兵士達の間には恐怖と動揺が走っていた。

「全軍に後退を指示しろ。あの化け物から離れて、機を窺う」

「了解しました!」

グリュンワルドの指示を集結させていた兵士に伝える。ヴィルヘルムよりも年若い彼等の顔は、やはり強張っていた。

ヴィルヘルムにトレイド永久要塞に派兵する部隊を率いる命令が下ったのは、つい数ヶ月前のことだった。

要塞に出兵する部隊は、大将であるグリュンワルドを含めても、ヴィルヘルムが最年長であった。

ロンズブラウ王国内では『王国軍、いまだ勢い衰えず』と報じられているが、幾度にも重なる派兵によって兵は疲弊している。よって今回のトレイド永久要塞への派兵は、年若い体力のある若年兵が集められた。

ヴィルヘルムを含め、上層にあまり関与していない人間はそう聞かされていた。

「君がいる部隊は、苛酷な戦場でも必ず生きて戻ると聞いている」

「私だけの力ではありません。隊長や部隊の連携があってこそだと思っています」

「謙遜するな。此度の活躍も期待している。グリュンワルド王子殿下に粗相のないようにな」

「はっ」

様々な考慮からヴィルヘルムは昇進し、『トレイド永久要塞派遣部隊大隊長』という、周囲も当人も困惑するような、大仰な肩書きを与えられたのだった。

巨大戦艦に火柱が上がるのが見えた。ルビオナ王国軍の装甲猟兵による大火力攻勢だった。

「今だ! 突撃せよ!」

グリュンワルドの命令が下った。大将自らガレオンが墜落するであろう地点に向かい、先陣を切って突撃していく。

グリュンワルドが駆け抜けた後に残るのは、首から血を噴出して痙攣していたり、心臓を一突きで貫かれたりした帝國兵の死体だった。

返り血で深紅に染まったマントを見失わないようにしながら、ヴィルヘルムも後に続いた。

「急げ、殿下をお守りしろ!」

戦場で鬼神の如く戦うグリュンワルドを見るのは、これが初めてだった。

恐ろしい王子、薄気味悪い黒太子。そう影で噂されていることはヴィルヘルムも知っていた。

風のように戦う彼の姿は確かに恐ろしかったが、同時に見蕩れたくなるような、奇妙な清々しさがあった。少なくともヴィルヘルムにはそう見えた。

ガレオンの甲板では、王国軍と帝國軍が入り乱れていた。

戦いの中心に異様な女性がいた。指揮杖を持って白い軍服を鮮血に染めた、美しいがどこか不気味な女将軍だった。

グリュンワルドがその女将軍に向かって駆けていく。ヴィルヘルムはグリュンワルドに襲い掛かろうとする帝國兵を切り伏せていた。

何人の帝國兵を切り捨てただろうか。ヴィルヘルム自身も返り血や怪我で血塗れになっていた。

振り返ると、グリュンワルドが女将軍を刺し貫いていた。

勝負はあった。

生き残っている王国軍、ロンズブラウ軍の兵士から、歓喜ともつかないどよめきが上がった。

――ビチャリ。

そのどよめきは、突然発せられた不快な音により強制的に中断された。

「さあ、死者達。お前達の手で、さらなる死を生み出しなさい!」

ヴィルヘルムの目に映ったのは、緑色の体液を滴らせる女将軍の、喜びとも叫びとも受け取れる喊声を上げる姿だった。

その女将軍の姿を遮るように、首と胴が千切れかけた死体が起き上がる。身に着けているものは王国軍の兵装だった。

ぐちゃり、ぐちゃりと、濡れた音があちこちから発せられる。

「化け物だ!」

「う、うわああああああ!!」

一瞬にして、歓喜の場が地獄と化した。

戦場は混乱を極めた。死人となった兵士は敵も味方も関係なく生者に襲い掛かった。

統率など取れる筈もない。恐慌状態に陥った兵士達が死者から逃れるべく退却していく。

だが逃げる先でも死者が復活し、為す術もなく喰われていった。ヴィルヘルムも逃げる兵士達の波に呑まれ、ガレオンの甲板を走らざるを得なかった。

不意に背後から笑い声が聞こえた。それがグリュンワルドの声だと気付くのに、さして時間は掛からなかった。

奇妙な清々しさの正体は快楽であるのだと、ヴィルヘルムは気付いてしまった。

「死者どもよ、ただの肉塊へ戻れ」

凄まじい剣圧で死者達が吹き飛んでいく。しかし直後に轟いた爆音と共に、グリュンワルドは甲板から弾き飛ばされていった。

ヴィルヘルムの身体は咄嗟に動いていた。どれだけ恐ろしかろうと、自国の王子をその場に打ち捨てていける筈がなかった。

グリュンワルドの笑い声と言葉が耳に残っていた。ヴィルヘルムはその幻聴を振り切って駆ける。

死者を切り捨て、生者の波に揉まれながらも、どうにか地面に降りることに成功した。

地上にも死の波が迫っていた。新たに製造された死者達は、鼠算式にその数を増やしていく。

トレイド永久要塞が死者に埋め尽くされるのは、時間の問題だった。

地面に打ち付けられたグリュンワルドの姿は、惨いものだった。

利き手は肘先が千切れ、死者に喰われた場所からは内臓がはみ出し、それもまた喰い千切られていた。端正な顔も顎の周辺で醜く潰れ、辛うじて呼吸だけをしているような有様だった。

ヴィルヘルムは自身より大柄のグリュンワルドを抱え上げると、背後に迫る死者の軍勢から逃れるべく、必死で足を動かした。

ロンズブラウ軍陣地に程近い場所まで進んだところで、後詰めに控えていた小隊となんとか合流することができた。

「大隊長! 殿下は……」

死者に喰われて凄惨な姿を曝すグリュンワルドを一瞥した兵士が、青い顔でヴィルヘルムを見た。

「まだ生きておられる。衛生兵のところへお運びしろ。俺はここで死者達を食い止める」

「大隊長、ですがこれでは――」

「我々は配下として、殿下をなんとしてでもロンズブラウ王国に護送する義務がある! わかったら行け!」

「り、了解です!」

兵士にグリュンワルドを任せた後、その場に残ったヴィルヘルムは必死で剣を振るった。死人の動きはひどく鈍かった。

それでも、死人はまるで更なる犠牲者を求めるように、後から後から出てきた。

帝國兵も王国兵も、ロンズブラウ王国の兵士さえもが死人と化していた。

死人の一体に喰いつかれる。動きが鈍ったところを次々と襲い掛かられた。

ヴィルヘルムは死人の山に埋もれていった。光が遮られたが、自分の身に起こっている事は音と感覚だけで理解できた。

身体の肉が奪われていく。肋骨と脛骨が音を立てて削られていく感覚がある。死人の骨や歯が全身に突き立てられ、穴の開いた箇所から内臓や肉が引き摺り出される音がした。

血が啜られていく。頭蓋骨が音を立てながら喰い破られたのがわかった。大脳に何かが触れたのだろうか、反射的な嘔吐に襲われたが、吐いたのは血の塊だった。

ヴィルヘルムはそれでも抵抗していた。

感覚の残る右腕を振るうと、死人の一部が断絶されて光が漏れた。その隙間から見えたのは、グリュンワルドを背負って山道を下るロンズブラウ兵の姿だった。

まだ駄目だ。ここでもし自分が事切れれば、次は必死で逃げる兵士とグリュンワルドが呑まれてしまう。

そう考えると、残っていた心臓が強く脈動した。脈動と同時に、ヴィルヘルムの全身から吸い尽くされた筈の血液が大量に噴出する。

残っていた右腕を振るって死人の肉を掴む。すると、ヴィルヘルムが掴んだところから死人の肉が崩れていった。

それはヴィルヘルムに触れていた死人に伝播していった。次々と死人が崩れ去っていくのに合わせて、ヴィルヘルムの出血が止まる。

死人が生者だった頃の生命力の残滓を吸い上げている、ヴィルヘルムははっきりとそれを感じ取った。

蠢く死人の山が楔を失ったように崩れ去る。

ヴィルヘルムは残された肉と臓物と血でできた汚泥の中に、一人倒れ伏していた。

「ぐ……おぉ……」

呻き声を上げながら、ヴィルヘルムは覚束ない感覚の中、流れ出る血とこぼれる肉を引き摺りながら山の急斜面を転がり落ちた。

土地勘のないヴィルヘルムは、自分が何処にいるかわからなかった。

だが身体の大部分を失い、内臓や骨はおろか脳髄さえ露出しながらも生き続けるこの姿を、誰かに見られることだけは避けねばならなかった。

大部分の感覚は麻痺していた。神経も断裂しているのかもしれない。ヴィルヘルムに動く力は残っていなかった。

どのくらいの時間が経ったのか。虚ろな意識でどこか遠くを見ていると、不意に全身を鋭く強い痛みが走った。

麻痺していた感覚が急速に戻ってくる。傷口の脈動がはっきりとわかる。残った肉が少しずつ再生していくのを自覚する。小さな音を立てながら骨が形を取り戻していくのが感じられる。

ぼやける目を凝らして内臓を失った腹部を見ると、残った内臓のかけらが蠢き、新たに内臓を作り出していくのが見えた。

「やはり、これでも俺は……」

言葉を言い終わらぬ内に、全ての思考を遮断する程の痛みと疲労がヴィルヘルムを襲う。

そのまま、ヴィルヘルムの意識は闇に呑まれていった。

「―了―」