45シャーロット2

3274 【目覚めの日】

私の中の一番古い記憶は、カレンベルク先生の腕に抱きかかえられながらどこかへと向かって行くところです。

幼い私は、流れていく灰色の景色をぼんやりと眺めていました。

いま暮らしているこの教会に住まわせていただけるようになるまで、私と先生は様々な場所を転々と旅していました。

私はあまりに幼かったのでしょう。旅をしていた頃の記憶は途切れ途切れにしか思い出すことができません。

それでも、カレンベルク先生の暖かい腕の中で護られていたという記憶だけは、昨日のことのように思い出すことができます。

とても寒い夜だったと思います。私と先生は寂れた宿にいました。

周囲を照らす蝋燭の灯りがぼんやりと橙色に輝いているのが、とても印象的な場所でした。

「シャーロット、寒いのかい?」

「あんよ、つめたい」

「わかった、ちょっと待っておくれ」

先生はそう言ってすぐに、私に暖かい毛布を掛けてくださいました。

『寒い』という言葉すら知らない幼い頃の記憶です。

けれども、何故旅をしていたのか、何故私は先生に連れられていたのか。先生がそれらについて話をしてくださることはありませんでした。

この教会に辿り着いた時、教会を預かる司祭様は先生の知人であると、そう聞かされました。

「シャーロットをよろしくお願いします」

「ああ。彼女のことは我々に任せてくれ」

「何かあったら、すぐにご連絡を」

先生と司祭様がそんな会話をしていたことを覚えています。

私は先生の元を離れ、親のない子供として、この教会の養護施設に預けられることになったのです。

それでも、先生は私が無事に教会で暮らせているかどうか、たびたび様子を見に来てくださいました。

「教会はどう?」

「先生がいないからさみしい。ねえ、どうしていっしょにいられないの?」

同じような会話、同じような質問、同じような答え。

繰り返されるそれを先生がどのように思っていらっしゃったのかは、未だにわかりません。

ですが、何度も同じことを繰り返す私を見かねたのか、先生は一つの楽譜を私にお預けになられたのです。

「これ、なあに?」

「これはね、シャーロットだけに教える、特別な歌だよ」

「とくべつなおうた?」

「そう。シャーロットに勇気を与えてくれる歌だ。さあ、一緒に歌おう」

「うん!」

先生は拙い私の声に合わせるようにして歌を教えてくださいました。

「寂しくなったらこの歌を歌ってごらん。きっとシャーロットを勇気づけてくれる」

そうして私に『特別な歌』を教えてくださった後、先生は私と会う機会を少しずつ減らしていかれ、二年ほど経った頃には、教会へ来られることは無くなってしまわれました。

先生にお会いできなくなっても、私は暇さえあれば教会の入り口に佇み、先生の来訪を待ち望んでいました。

「今日はカレンベルクは来ないよ。そこにいたら体が冷えてしまう。さあ、中へお入り」

「どうして? なんでカレンベルク先生は来ないの?」

幼い私の質問に、司祭様は困った顔をなされていました。隙や暇さえあれば先生という外の人物を待ち続ける子供。いま思えば、私は少し扱いにくい子供だったのでしょう。

それでも、司祭様は分け隔てなく接してくださいましたが。

変化が訪れたのは、私が十三歳になったぐらいの頃でした。私が所属する教会の聖歌隊に、先生が指南役として就任されることになったのです。

「先生!」

聖歌隊の練習が終わってすぐ、私は廊下を歩く先生を呼び止めました。

「やあ、シャーロット。久しぶりだね」

先生は私に気が付くと、笑いかけてくださいました。

その笑顔を見ていたら胸が高鳴ってきて、なんだか顔が熱くなるような、そんな感じがしました。

「はい! あ、あの、先生も……お元気、でしたか?」

「うん。この通りさ」

あまりにも久しぶりすぎて言葉がつかえてしまい、上手く会話ができているのかどうか不安になるほどでした。

だけど……。

私が教会に預けられた時と殆ど変わらぬ先生のお姿を、私は不思議に思いました。

教会で暮らす子供達は、地場の学校に通うことが義務付けられていました。

司祭様が「教会の外で学ぶことも重要である」と仰っていたのを覚えています。

その学校からの帰り際、学友から突然呼び止められました。

「ねえ、シャーロット」

「なあに?」

「教会に若い男の人が出入りしてるって、本当?」

学校で一緒に学ぶ女子の一人でした。あまり交流はありませんでしたが、教会から通う親なしの私達にも普通に話し掛けてくれるような良い人です。

そして彼女が言う若い男の人、それが先生だということに思い当たるのはすぐでした。いま教会に出入りをする若い男の人といえば、先生以外にいませんでしたから。

「うん。でも、どうして知ってるの?」

「学校中で噂だよ。ほら、あの教会、すっごいお堅いことで有名だから」

「そう……なのかな?」

「あっと、教会の悪口じゃないよ? でさ、その噂の人、こないだ見掛けたんだけど、若くて格好いいよね」

「あの先生はね、聖歌隊に歌を教えてくれる先生なの。バイオリンがとてもお上手でね」

「へー! ねえねえ、その人ってどんな感じ?」

「どんな感じって……」

思い返せば、彼女はただ音楽の教師としてどういった方なのかを聞きたかっただけなのでしょう。ですが、私は咄嗟の返答に困ってしまいました。胸の辺りがざわついて、当たり障りのない返答をすることがどうしてもできなかったのです。

「なになに、どうしたの? もしかして、その先生のことが好きなの?」

「う、ううん。そんなことは……」

彼女は良い人ではありましたが、こういう風に込み入ったことを何の気なしに聞いてくる性分だけは、少し苦手でした。

「なーんてね。冗談だよ。でも、あれだけ格好いい人なんだから、憧れちゃうのは普通だって」

「そういうものかな?」

「うちの学校だって、若い男の先生や女の先生が担任になったらみんな騒ぐでしょ? それと同じだよ」

「そっか。あ、ごめんね、聖歌隊の練習があるから、もう帰らなきゃ」

胸のざわつきをごまかすように、私は彼女との会話を中断させました。ちょっと強引でしたが、彼女は納得したように頷きます。

「ありゃ、引き止めてごめん。練習がんばってね!」

教会に帰っても、私は彼女の『その先生のことが好きなの?』という言葉が頭から離れませんでした。

そんなことを考えたことは、いままで一度としてありませんでした。

「シャーロット、どうしたんだい?」

あまりにも考え過ぎて寝付けなくなってしまい、同室のレミに迷惑をかけないようにと夜の庭に出てぼんやりしていた私に、先生が声を掛けてくださいました。

心臓が跳ね上がるというのはこういうことを言うのでしょう。強く脈打つ心臓の音が先生に聞こえてしまわないか、そんなことばかりが頭を駆け巡りました。

「い、いえ……。ちょっと寝付けなくなってしまって……」

「珍しいね。昔の君はとても寝付きのいい子だったのに」

「そうでしたっけ?」

「そうだよ。お話をねだるんだけど、いつもお話の途中で寝ちゃって、そのまま朝までぐっすりだったよ」

笑いながら先生は、昔を懐かしむように私の頭を撫でてくださいました。その手は少しだけひんやりとしていて、とても心地が良いものに感じられました。

先生は私を見てくださいました。私に笑いかけてくださいました。それは聖歌隊を指導している時には見せない、とても優しい微笑みでした。

この顔は私だけが見られる特別なもの。そう感じた時、私は自覚したのです。これが『好きになる』ということだと。

「さ、お休み。祭事も近いんだ、風邪をひいてはいけないからね」

先生は私を部屋まで送ってくださると、教会の本堂の方へと歩いていかれました。

そしてこれが、先生とちゃんと言葉を交わした最後の日となってしまったのです。

教会主宰の祭事が行われる日のことでした。この催しは神に感謝し、祈りを捧げ、神に祝福された食物を戴き、その年の平穏を願う、とても大事な聖なる催しです。

ですが、朝から先生の姿は見えず、とうとう聖歌隊が歌を歌い終えても、先生が姿を現すことはありませんでした。

「司祭様! あの、カレンベルク先生はどちらに?」

祭事が終わってすぐ、私は司祭様に先生の行方を尋ねましたが、私の質問を聞いた司祭様は表情を堅くされます。

その表情に、私はとても胸がざわつきました。嫌な予感と言えばよいのでしょうか。とてつもない不安が襲ってきたのです。

「シャーロット、落ち着いて聞いておくれ」

そう言って司祭様は私に目線を合わせると、一つの絶望的な事実を告げられました。

――カレンベルクは昨夜旅に出た。ここへ戻ることは二度と無いと言っていた。

彼を追ってはいけない。これもカレンベルクが言付けたことだ。シャーロット、彼の最後の頼みを聞いておくれ。――

翌日、司祭様から聖歌隊の皆に、カレンベルク先生が旅立たれたことが正式に告げられました。昨日聞かされたことは事実であると、改めて突き付けられたような気がしました。

次の日も、その次の日も、次の月になっても……、先生が教会に姿を現すことはありませんでした。

時間を重ねるにつれて、私は目の前が真っ暗になっていきました。

私が大人になったら、幼かったあの頃のように旅に連れて行ってくださると、大人になればずっとずっと先生と一緒にいられるのだと、愚かな私はそう信じていたのです。

先生が旅立たれてから、どうやってレミたちと共に過ごしたのか、あまり覚えていません。

覚えているのは、毎日のように教会の裏手にある女神像の足元に座り込み、先生から教わった『特別な歌』を、先生への思いを胸に口ずさんでいたことだけです。

そうしていれば、先生が「シャーロット、また一緒に旅に出よう」、そう言って戻ってこられる気がしたのでしょう。

そうやって過ごしていたある日、いつものように女神像の足元で『特別な歌』を歌っていると、心が宙に浮くような感覚が起こりました。

初めての感覚に戸惑いましたが、私の中の何かが変わるような気がして、そのままその感覚に身を任せて、喉が枯れるまで歌い続けていました。

「シャーロット、シャーロットってば」

突然、レミの声が隣から聞こえてきました。

はっとしてレミの方を見ると、真夜中の筈なのに、レミは何故か聖歌隊の制服を着ています。

「レミ……?」

「どうしたの? ぼーっとしちゃって。カレンベルク先生が呼んでるよ」

「え、先生が? どうして……」

彼女の言葉に私は大きな衝撃を受けました。周囲を見回すと、そこは教会の小さな音楽堂でした。

そして、いなくなった筈の先生が、不思議そうな顔でこちらを見ていらっしゃいました。

「―了―」