3394 【指嗾】
気が付くと、両手両足を鎖で縛られていた。
辛うじて動く頭を動かして周囲を見回す。どうやら冷たいコンクリートの床と壁に囲まれた牢屋のようだ。小さな窓に取り付けられた鉄格子の外を見やる。明かりの数が少ないようで、目を凝らしても先は窺えない。
大掛かりな身体再生を行った後は、確実に何日も眠り続ける。その間は何をされても目を覚ますことはない。ましてや身体の半分以上を失った上での再生だ。一体どれ程眠っていたのか見当もつかなかった。
「お目覚めですか」
感情が籠もっていない女の声が響く。ランプに照らされた女は冷たい目でヴィルヘルムを見ていた。
何故。どうして。そのような疑問ばかりがヴィルヘルムの頭を駆け巡る。
女には見覚えがあった。古い記憶から、この女がユーリカと呼ばれていたことを思い出す。そして、とても危険な組織の構成員であるということも。
ヴィルヘルムはユーリカが属する組織で『偉大なる首領を蘇らせるための鍵』だと言われ、研究者達に身体を弄り回された過去があった。
あからさまに死ぬような目には遭わなかったものの、昼も夜も関係なく、想定しうる限りのあらゆる傷害を負わされた。
十数年前の悪夢がヴィルヘルムの中に蘇る。
「そんな……」
「生きているとは予想外でしたね。報告を聞いたときは驚愕しました」
「もう俺は用済みだろう。何故こんな……」
「ええ。あの時は確かに用済みでした。でも、生きているのなら話は別です」
ユーリカは目を細める。光の宿っていないその目から、過去に組織から受けた仕打ちを連想させられた。
「これから俺をどうするつもりだ?」
「化け物がそれを知る必要はありません」
それだけを言うと、ユーリカはヴィルヘルムに背を向けてどこかへと去っていった。
◆
それから間もなく、ヴィルヘルムは組織の研究者達に拘束され、消毒液の臭いが充満する部屋に運ばれた。
手足は樹脂のようなもので手術台に固定され、身動きが取れない。
目の前の研究者達は皆、どこか嬉々とした表情でヴィルヘルムを眺めている。
「お前らの首領は戻ってきたんだろう、もう俺は必要ないはずだ……」
「せっかく面白い実験材料が戻ってきたんだ。この機を逃すわけがないだろう」
「全ては善き世界のためだ」
「化け物が世界の礎となるんだぞ? 感謝はされど、憎まれる筋合いはない」
研究者達は喜びの表情を隠すことなく、口々に言う。
皮膚を切り裂き、骨を砕き、心臓さえ取り出しても再生するヴィルヘルムは、格好の研究材料でしかない。
研究者達はヴィルヘルムを『人間』として見てなどいない。彼らにとってヴィルヘルムは、どれだけ過酷な実験を繰り返しても無限に再生する『生きた玩具』であった。
◆
「が……うぐ……」
ヴィルヘルムは低い呻き声を上げる。
腹部と頭部に移植された何かの植物が、ヴィルヘルムを養分にして根を張っていた。
痛みを抑える薬物を投与されてはいたが、常人より遙かに早く薬の効果が切れるヴィルヘルムには、あまり意味を成さなかった。
ただひたすら痛みに耐えてやり過ごす。ヴィルヘルムにはそれしか方法がなかった。
「再生能力に変化は見受けられん。植物の遺伝子構造も検査したが、そちらにも変異なしだ」
「養分にはなれど、影響はないか」
「どうする?」
「植物を切除し、別の実験に切り替える。植物が駄目だとすると、次は昆虫だな」
「そうだな。これの再生を待って、次の実験に取り掛かろう」
気絶することもできず、ヴィルヘルムは研究者達の言葉を虚ろな表情で聞いていた。
終わらない実験、終わらない痛み、終わらない苦しみ。
「もう、嫌だ……」
このまま精神が壊れてしまえばどれ程楽だろうか。そんなことを思いながら、為すがままにされていた。
「ほう、言葉を喋る余裕があったか。おい、あれを使うぞ」
「あれか? あれはまだ臨床の段階ではないぞ。脳に強い作用がある」
「だからこそだ。どうせ薬で発狂したところで、暫くすれば元に戻るんだ。かつての実験で実証済みだよ」
研究者の言葉で、自分が何度も正気を失っていたことを初めて知った。その前後のことは全く記憶にない。己の異常さは心にも及んでいたのだ。別に心が壊れなかったわけではない、ただ身体と同じように、心も再生しただけだったのだ。
「なら問題ないな。すぐに始めよう」
まだ苦しみが続く。それも、正気のまま死んだ方がましのような苦しみが。ヴィルヘルムは絶望するしかなかった。
脳に強い作用があるという薬物が投与されてさほど経たぬ内に酩酊し、そのまま意識が途絶えた。
◆
気が付くと、最初にいた牢屋の中で手と首に鎖が繋がれた状態で転がされていた。
「ぐ……うぅ……」
腹部が痛い。その箇所を見ると、菌が入らないように最低限の処置だけが施された腹が見えた。包帯から滲む鮮やかな血が、まだ再生の途中であることを窺わせた。
ヴィルヘルムは牢屋の中で深い溜め息を吐いた。
少しでも再生が遅くなればどこかへ放逐されないだろうか。そんなことを考える。
ふと、死者の軍勢から助かった時のことを思い出した。あの時は、ここで倒れる訳にはいかないと思っていた。あれは自らの強い意思だった。
もしやと思い、ヴィルヘルムは自分の腕に思い切り歯を突き立てた。痛みが走るも、そのまま食い千切らん勢いで皮膚を破る。
血の味が口腔内に拡がったところで腕から口を離す。くっきりと歯の形に傷付いた腕に意識を集中させ、その傷が治っていく過程をイメージする。ややあって、自身が認識しているよりも早く傷は治った。腹部に付けられた保護布を剥ぎ取って傷口を見てみるが、そちらはあまり変化がない。むしろ、再生する速度はかなり落ちている。
やはり、とヴィルヘルムは思う。この異常な能力を自分の意志で操れるようになりかけていると、確信めいたものを感じた。
◆
ヴィルヘルムは組織からの脱出を決意した。過去のように傷の治りが遅くなっても、捨て置かれる可能性は低い。このままこの場所でいつ終わるともわからない状況を受け入れることはできなかった。
程なくして、その機会はやって来た。
「今日はずいぶんと耐えるな」
「よし、もう少し深く抉ることにしよう。前に植え付けた昆虫の卵探しだ」
二人の研究員は、必死で痛みに耐えながら機会を窺うヴィルヘルムを嘲笑うかのように、腹部をメスで切り裂く。
実験が終わって拘束が解かれるまでは何としても耐えなければ、という一心で、ヴィルヘルムは気絶しないように歯を食いしばる。
「見つからんな」
「幼虫の姿もない。排出されたのか? もしそうなら観察が必要だな」
研究員達は口々に言いながら、ヴィルヘルムの穴の開いた腹部に簡単な保護布を当てるだけの処置をする。
「もう一度卵を植え付けて、今度は皮膚が再生しないようにする必要がありそうだ」
「再生を阻害する薬を開発しなければな」
次の実験への好奇を隠すことなく会話する研究員の一人が、ヴィルヘルムの拘束を解く。その際に、ヴィルヘルムはその研究員にしがみつくようにして倒れ込んだ。
「おい、何をしている」
「急に倒れ込んできたんだ」
「気をつけろ」
様子を見やった研究員の視線が外れたその瞬間、ヴィルヘルムはしがみついた研究員の生命力を吸い上げる感覚をイメージした。
「あ、がが……い、痛い、痛い痛い痛い痛い!!! は、腹、腹がああああああ!」
研究員の腹部から血が噴出し、悲鳴が上がる。同時に、ヴィルヘルムは自分の腹部の痛みが消えていくのを感じた。研究員は突然発生した痛みに転げ回り、実験台にぶつかった。二人揃って床に倒れこむ。
「ば、化け物め、何をした!」
もう一人の研究員は手元にあったメスや道具を手当たり次第ヴィルヘルムに投げつけた。悲鳴を上げていた研究員は痛みのあまり気を失ったらしく、痙攣を繰り返している。
ヴィルヘルムは道具が身体に当たるのにも構わず、もう一人の研究員の顔を掴んだ。そして、先程と同じように生命力を吸い上げる。
「ひ……やめ……!」
「殺しは、しない……。俺は、逃げられればそれでいい」
研究員達が動かなくなったのを確認すると、その衣服を奪い、実験室から休憩室に繋がる扉を開けた。休憩室は静かだった。誰かが入ってくる様子はない。視界に入った窓から外を覗くと、建物のすぐ傍を川が流れていた。
川の深さはわからない。だが逃げ道はここしかない。多少浅くて着水に失敗したところで、骨折程度ならすぐに回復するのはわかりきっている。
一時の痛みと、脱出に失敗した後に続く拷問の如き痛みとどちらが良いか。
躊躇うようなことではなかった。迷うことなく前者を選んだヴィルヘルムは窓を開ける。
そこで実験室の方が俄かに騒がしくなる。他の研究員達が異変に気付いたようだ。
幸い、窓は人一人程度ならば潜り抜けられる大きさであった。ヴィルヘルムは急いで窓から身を乗り出すと、その勢いのまま川へ向かって飛び込んだ。
◆
幸い、川はそれなりの深さがあり、そこそこ強い流れがある箇所だった。
ヴィルヘルムは水面から顔を出すと、泳ぎ始めた。研究員達の生命力を吸ったせいか、身体が驚く程に軽いのも助けになった。
とにかくあの実験施設から離れなければ。川の流れに合わせるように、ヴィルヘルムはひたすら下流を目指した。
「―了―」