38イヴリン3

3372 【悪霊】

人気の無い公園のベンチに、イヴリンは座っていた。

遠くの方で火事を告げる鐘の音が微かに響いている。

またあの夢を見ているのだと、イヴリンは自覚していた。

ふわふわとした感覚の中、ベンチで膝を抱えて縮まるように座っていると、一人の少年がやって来た。

「また会ったね」

「そう、ね……」

イヴリンはぼんやりとしたまま少年と言葉を交わす。

「君の名前は?」

少年は屈託のない笑顔で尋ねてくる。名前を聞かれたのは今回が初めてであった。

「イヴリン……」

夢だもの、教えたところでどうかなる訳でもない。そう思い、イヴリンは少年に自分の名を告げた。

「素敵な名前だね!」

「あ、あなたの名前、は?」

「ボクはヴォランド。 ねえ、イヴリンはどこに住んでるの?」

ヴォランドと名乗った少年がそう尋ねてきた時だった。イヴリンは誰かに呼ばれたような気がした。

「ごめんなさい、もう行かなきゃ」

「あ、待って!」

ベンチから立ち上がったイヴリンは、急に激しい動悸に襲われた。

早く行かなければ。早くここから立ち去らなければ。そんな焦燥感だけが募る。

「ごめんなさい!」

急がなければ酷い目に遭わされる。何故かイヴリンはそんな思いを抱いていた。

少年を振り切ったところでイヴリンは目を開けた。

そこは自分の病室であった。

イヴリンの夢はますます現実感を帯びるようになっていた。

いつも炎と硝煙に包まれる夢だった。でも、夢の中で出会うヴォランドという少年だけは、いつも優しかった。

イヴリンは少しだけ体調が良いからと、コンラッドの許可を得て病院の庭を散策することにした。

久しぶりに浴びる太陽の光は暖かく、そして優しくイヴリンを包み込んだ。

「気持ちいい」

病院の庭に咲いていた野生の花を何本か摘み取り、建物の中に入ろうと立ち上がる。

「こんにちはイヴリン。 それ、押し花にするの?」

後ろから声を掛けられた。その声は病院に勤める少々年嵩の女性看護師の声だった。

「あ、こんにちは。 そう、前のが出来上がったから――」

そう言って看護師の方を見やる。だが、そこにいたのは見慣れた看護師ではなかった。

イヴリンには看護師に黒い靄がまとわりついているように見えていた。

黒い靄は少しずつ濃さを増すと、見慣れたあの染みのようになった。二つの光る目を持つそれは、以前よりもはっきりと人の形を取っていた。

「ひっ!」

イヴリンは小さく悲鳴を上げる。

だが、イヴリンの悲鳴を聞くが早いか、染みは周囲の背景と同化するように消え去った。

看護師にまとわりついていた靄も同時に消える。

「イヴリン、どうしたの?」

呆然と看護師を見つめていると、看護師は不思議そうな顔でイヴリンに問い掛けてきた。

「な、なんでもないです……」

「そう? 顔色が悪いわ。 そろそろ病室に戻った方がいいわね」

看護師はゆったりとした足取りで病院の中へ入っていく。

その姿を視線で追う。一瞬だけ、看護師の服が血と泥に塗れているように映った。

「またなのね……」

イヴリンは溜め息を吐く。あの夢を見始めてからというもの、目が覚めていても夢の光景が現れることがあった。

コンラッドにも相談したことがあったが、不安や熱がそうさせるのだろうと言われ、薬の種類を増やされるだけに終わっていた。

その日の夜、消灯時間も過ぎて静まり返った病院内に、叫び声が響き渡った。

寝付けずにいたイヴリンはその悲鳴で飛び起きると、何が起きたのかと廊下へと出た。

廊下は暗く、何が起きているのかわからない。叫び声が聞こえたにもかかわらず、寝入っているのか、他の患者が起きる気配も無い。

それでも、コンラッドかミシェルに異変を知らせなければいけないとイヴリンは感じていた。

人気のない廊下をイヴリンは急ぐ。

医者や看護師の詰め所となっている大きな部屋まであと少しのところで、廊下に倒れ伏している人を見つけた。

「あ、あぁ……たすけ……悪霊が」

昼間の看護師だった。

看護師は額から血を流しながら、必死で廊下を這い蹲って逃げようとしていた。その背後から人型になった黒い染みが迫る。染みは逃げようとする看護師に覆い被さる。

そのまま、看護師は悲鳴を上げることもなく、動かなくなった。

「あく、りょう……」

目の前で起きた現象に固まるしかできないイヴリンが、やっとのことで発した言葉だった。

その言葉に反応したのか、染みはイヴリンの方を向いた。そして腕のような何かをイヴリンに向かって伸ばしてくる。

「ひいいいいいい!」

イヴリンは悲鳴を上げると、必死に走り出した。

不気味に静まり返った廊下を駆け抜け、自分の病室へと入る。

他の医師達が気付いたのだろうか、大きな音が下の階から響いてきた。

次第にそれは、爆発するような音に変わっていった。

イヴリンは自分の病室で毛布を被って丸くなった。

あの染みに見つかってはいけない。見つかったらきっと殺されてしまう。

額から血を流し、動かなくなった看護師の姿を思い出した。

自分もああなってしまうのではないかと怯えていると、病室のドアが開いた。

染みがやって来たと、イヴリンは身体を硬くする。

「イヴリン、大丈夫!?」

ミシェルの声だ。恐る恐る毛布から顔を出すと、ミシェルがほっとしたような表情をした。

「ミシェル、一体何が……」

「悪霊がやって来たわ。 逃げるわよ」

悪霊。その言葉に、イヴリンはさっき看護師を襲った染みを連想した。

ミシェルは起き上がったイヴリンに黒っぽい色の外套を着せると、イヴリンの手を引いてどこかへと向かっていく。

「ミシェル? どこに行くの?」

「大丈夫よ。 あなたは私がちゃんと守るから」

ミシェルはイヴリンの問い掛けに、答えにならない答えを返した。

ミシェルの必死さに、今現在この病院で起きている事はただならぬ事なのだと感じ取った。

建物の端にある階段に辿り着いた。階段の傍には鍵の掛かった頑丈な鉄扉があり、医者や看護師以外は使用してはいけないと言われている場所だった。

ミシェルは鍵を開けると扉を開く。扉の先には下へと降りる階段が続いていた。

「降りて」

強い口調で促され、イヴリンは追い立てられるように中へと入った。ミシェルも後を追うように中へ入ると、扉を閉めて鍵を掛ける。

階段を降りた先は小部屋のようになっていた。

「ここなら安全なの? 他のみんなは?」

「みんなは別のところに避難しているわ」

外からは断続的に爆発するような音が聞こえる。怯えるイヴリンはミシェルにしがみつく。

「……こわい」

「大丈夫。 きっと先生が何とかしてくれる」

ミシェルはイヴリンを抱き締めると、そっとイヴリンの背中をさすった。

自分に付き纏うあの染みは悪霊だというのか。だとしたら、看護師がああなったのは自分のせいなのではないか――。

イヴリンは想像を悪い方へ悪い方へと連想していくばかりであった。

どれ程の間小部屋にいたのだろうか。不意に、夜明けを告げる鐘の音が響いた。

ミシェルは外の様子を見るために、イヴリンを残して外に出た。

ややあってイヴリンを外から呼ぶ。

その声に従い、イヴリンは外へと出た。朝日が二人を照らす。

「悪霊は?」

「もう大丈夫。 誰にもあなたを渡さないから」

「ミシェル?」

ミシェルは普段とは違う緊迫した表情のまま、イヴリンにそう告げる。

イヴリンはその言葉に、お父さんとお母さんがやって来たらどうするのだろうと、不思議な気持ちになるのだった。

「―了―」