59シラーリー1

—- 【歪み】

「一番テーブルにウイスキーとジャーキーお願いします!」

「はいよ!」

ローゼンブルグのとある酒場に、威勢の良い声が響く。

「これ五番テーブルさんね!」

「はい!」

注文を厨房に伝えたその足で、出来上がった料理を客席に運ぶ。

厨房と客席を行き来するシラーリーは、酒場で働くには不釣り合いに若かった。

シラーリーは、元はローゼンブルグ下層のスラムに暮らす孤児だった。

ある時、大金を手にした仲間に連れられて訪れた飲食店でおいしい料理に衝撃を受けた彼女は、いつか自分で飲食店を出すという夢を持った。

頭のいい仲間の助言を受けて一つ上の階層に潜り込んだシラーリーは、出自を問わずに働ける酒場で働き出した。

それだけでは経験が足りないと感じたシラーリーは、朝の市場でも働くようにもなった。市場で食材の流通を直に学び、酒場で飲食店の仕事を経験する。

周囲からは体が持たないと心配されたこともあった。

しかし、働いた分だけの給金が手に入った。朝から晩まで売れるかどうかもわからない廃品を回収して売り歩いていた頃と比べれば、遙かに良い環境だった。

そうやって寝る間も惜しむ程の努力を重ねたシラーリーは、働いていた酒場のオーナーから支店を任されるまでになった。

「じゃあ、店の準備は頼んだよ」

「はい!」

「もし困ったことがあったら、すぐに相談してね」

「ありがとうございます!」

酒場の同僚達は優しかった。暖かい人に恵まれたことにシラーリーは感謝し、幸せを噛み締めていた。

しかし、ここは出発点に過ぎない。これからも一層の努力をしなければと気を引き締めた。

支店の店長となったシラーリーは、より積極的に行動を起こす。

店を盛り立てながら、経営者達が催す会合にも積極的に参加し、経営に必要な知識や技能を学んでいった。

そうして何年かの時を経て、ついに経営者として自身の店を構えるまでになった。

シラーリーは久方ぶりに、かつて暮らしていた下層の廃ビルへと足を運んだ。

ここに暮らす仲間達に、自分の経営する店で共に働かないかと持ち掛けるためだった。

少しでも仲間達に良い暮らしをして欲しい。自分のように上の階層で働いた経験があれば、苦しい生活を断ち切ることが可能だと思ってのことだった。

「あれ?」

廃ビルに一歩足を踏み入れてすぐ、シラーリーは違和感を覚えた。

夜も近い時間なのに、廃ビルの中は話し声の一つもしていない。

ひと月程前にやりとりした手紙には、仲間達は変わりなく暮らしている様子が綴られていたし、住居を変えるなどという話も書かれていなかった。

何かがおかしい。そう思いながらシラーリーは、慎重に廃ビルの中を進んでいった。

「おーい、誰かいないのか?」

シラーリーの呼び掛けに応える者はいない。静まり返った廃ビルに、シラーリーの声と靴音だけが響く。

程なくして、仲間達がいつも集っていた広い部屋に辿り着いた。

立て付けが悪く、開きにくい扉を開ける。

「……なんだ、これ」

扉を開けた先に見えた光景に、シラーリーは愕然とするしかなかった。

「おい、みんな!? 大丈夫……か……?」

シラーリーは室内にいた一人に駆け寄る。だが、近付いたその瞬間、誰も自分の問い掛けに応えられる筈もない事に気付いてしまった。

夕暮れの太陽によってオレンジ色に照らされた室内には、骨と皮だけになった様々な年齢の子供達の遺体があった。

「どういうことだよ……なんだよこれ!」

シラーリーは踵を返すと、部屋を出て廃ビルの階段を駆け上がり、仲間達が寝室にしていた部屋を一つずつ開けていった。誰か生きている仲間がいればと思っての行動だったが、どの寝室も同じような光景が広がっていた。

「一体どうしちまったってんだよ……」

シラーリーは呆然としたまま、自分が寝室としていた部屋を開けた。

部屋の様子を目にしたシラーリーは、その場で崩れ落ちた。

「なんなんだよ……どうなってんだよ……」

部屋の中にある小さなベッドには、他の仲間達と同じように、骨と皮だけになって横たわる自分の姿があった。

か細い呼吸を繰り返し、辛うじて生きているようだった。

身長からすると十代の前半くらいだろうか。混乱の極みにある筈の思考は、妙な冷静さで自分の年齢を分析していた。

「どうやら理解したようだな」

不意に、背後から女の声が聞こえた。

「誰だ!」

シラーリーは咄嗟に振り返り、後ずさる。

背後にいたのは、爪先から頭の天辺まで白尽くめの衣装を纏った、奇妙な女だった。

「そういえば名乗っていなかったな。私はノイクローム。 故あって君の力を借りに来た」

「何を言ってやがる。 てめえがこんなことをしたのか!」

「否。これは君がこの世界で辿った、歪められし因果の結果」

ノイクロームと名乗る女の芝居がかった態度に、シラーリーは苛々していた。

「なんだと。 じゃあ、今ここにいるオレはなんなんだよ!」

激昂に任せてシラーリーはノイクロームの胸倉を掴み上げる。

確かに感触がある。シラーリーは自分が死にかけているとは到底思えない。そのことが更に苛立ちを募らせる。

「君は今まで夢を見ていたのだよ。苦役を乗り越え、幸せを掴んだという本来の因果。 その夢をね」

「そんな馬鹿な話があるか! オレは、オレは!」

「現実を見つめよ。 答えはそこにある」

ノイクロームはベッドに横たわっているシラーリーを指し示す。

シラーリーはノイクロームに言われるがまま、今にも死にそうな己をじっと見つめる。

何か引っ掛かるものがあった。この光景には、僅かに覚えがあった。

不意にあの日の記憶が蘇る。あの日、シラーリーがスラムを出ようと決意したあの日、仲間は自分を飲食店へ連れて行ってくれたのではなかった。

あの日、仲間が持ち帰ったのは大金ではなく、不思議な薬であった。

どんな病気や怪我にも効く魔法の薬。病気に苦しむ仲間のためにどこかから手に入れたという薬が、シラーリー達の人生を変えた。

最初は良かった。確かに仲間の病気は治った。怪我をした時も、その薬を飲めば立ち所に元気になった。

だが、シラーリーを含めた廃ビルの仲間達は、少しずつその薬によっておかしくなっていく。ちょっとでも風邪を引いたり怪我をしたりすればその薬を飲んだ。次第に、その薬が無ければ激しい嘔吐感や目眩に襲われるようになった。

薬を飲まなければ睡眠すらままならない。シラーリー達は薬を飲み続けるしかなかった。

薬を手に入れるためには大金が必要だった。シラーリー達は薬を買う金を手に入れるために、犯罪にも手を染めた。しかし所詮はスラムに暮らす者だ。すぐに薬を買う金は底を突き、身体の弱い者から順に死んでいくしかなかった。

シラーリーは息絶える直前、何故自分達がこのような目に合わなければいけないのかと憤りを感じていた。

「なんで、死にたく、な……」

貧しいけれど、仲間に囲まれて自由に生活していた。それが一つの薬で狂ってしまった。

シラーリーの胸中は後悔の念に埋め尽くされていた。

「そうか、オレ達……」

「思い出したようだな」

ノイクロームの口元には、僅かな笑みが浮かんでいた。

「ああ。 この後すぐにてめえがやって来て、勝手に幻を見せたこともな」

シラーリーは精一杯の憎しみを込めて、ノイクロームを睨み付ける。

「私は君に正しい未来の姿を見せただけに過ぎない」

ノイクロームはシラーリーから少し距離を取る。同時に、二人の間に白い真珠のような光沢を放つ小さな球体が出現した。

「正しい未来を取り戻したくはないかね?」

「どういう意味だ?」

「先程まで見ていた幻影。 あの様な幸せな人生を送りたくはないのかと聞いている」

「訳がわかんねえ……」

シラーリーは小さく首を振る。

その混乱に同調するかのように、夕焼けに照らされたシラーリーの部屋が、水に濡れて流れていく絵の具のように溶けていく。

「あまり時間は無いぞ。歪みを受け入れ、そのまま死するか。 それとも歪みを拒絶し、生き長らえるか。どちらでも選ぶといい」

景色が溶けていくのと一緒に、シラーリーの意識もまた、眠りに落ちる直前のようにぼんやりとしてきた。

「嫌だ、と言ったらどうなるんだ?」

「さて。 何分、私は死者となったことがない」

ノイクロームは首を振る。

「本当に死ぬってことかよ……」

「この世界の言葉を借りるなら、そうなる」

ノイクロームの言葉は、あまりにも現実から掛け離れていた。

いつの間にかシラーリーは、ベッドで寝ている息も絶え絶えの自分に戻っていた。

「さあ、選択の時間だ。私と共に正しい未来を手に入れたくば、この球体を取れ」

「オレ、は……」

シラーリーは何も考えられなくなっていた。だが、殆ど動かなくなった腕を、球体に向かって懸命に伸ばす。

あんなに幸せな人生を失うのは嫌だった。

ただそれだけだった。

「―了―」