3258 【ザジ】
薄汚れた天井。意識を取り戻したカレンベルクの視界に入ったのはそれだった。
すぐ横で何かを片付ける音がする。その方向を見やると、無精髭を生やした中年男性が医療機器を片付けていた。
「……ここ、は」
「気が付いたか、カレンベルク」
男性は衝撃的な言葉を口にした。何故自分の名を知っているのか。カレンベルクは衝撃に目を見開き、同時に身構えた。
「組織の関係者か……」
「警戒するなとは言えんが、私が組織の関係者なら、君の意識が戻る前に組織に引き渡している」
男性はロンゴと名乗った。以前はルピナス・スクールの併設病院で研究者を務めていたという。
そして、カレンベルクに超人となるための種を植え付けたのは自分だと、簡潔に語った。
「そんな、いつの間に……」
「十歳の頃。と言われれば、心当たりがあるだろう?」
そう言われ、カレンベルクは十歳の頃を思い出した。ちょうどその頃、病を患ってルピナス・スクールの病院に数週間入院したことがあった。
その時から自分の体は人間でなくなっていたのかと思うと、カレンベルクは身震いした。
「貴方は、何故……」
「何故君を助けたのか? それとも、何故組織を抜けたのか? どちらだ?」
「……両方です」
ロンゴは静かに息を吐き出すと、カレンベルクの疑問に答えた。
――苛酷な実験を繰り返す内に組織の活動に疑問を持ち、実験体の死体を自身の自殺死体に偽装して組織を出奔したこと。
――サベッジランドに辿り着いた自分は、組織で得た技術を利用して医療業を営むことで、組織で犯した罪を償おうと決意したこと。
――そしてつい先日、瀕死のカレンベルクが自分のところに運び込まれてきたこと。
――怪我をしている患者を救わない理由は無いこと。
それらを粛々と語った。
「それで、お前はこれからどうする?」
今度はカレンベルクの番だ。ロンゴの視線はそう告げていた。
「ビアギッテを助けたい。それだけです」
迷いは無かった。自分が生き存えた理由はこれだけだと、カレンベルクは思っていた。
◆
傷の癒えたカレンベルクは、自らの力を正しく扱えるように特訓を開始した。
ビアギッテを取り戻そうとする以上、組織からの攻撃は避けられない。
「お前は音の力を操る能力を持っているのだろう。バイオリンの音によって恋人が苦しんだというのは、それが原因だ」
力の正体を知るためにいくつかの心当たりをロンゴに告げると、彼はそう返した。ロンゴは愛する人を助けるために組織に反逆しようというカレンベルクの覚悟を気に入り、あれこれと助言をするようになっていた。
カレンベルクは新たなバイオリンを入手して超人の力を操る訓練を進めていったが、何かが違う。
やはりザジでなければ駄目だ。そう断案したカレンベルクは、忌まわしきルピナス・スクールの寄宿舎へ忍び込む決意をした。
自分の超人の力はビアギッテを苦しめてしまった力だ。だが、それよりも組織に対抗してビアギッテを取り戻す力を得たい、その願望が勝った。
◆
脱出した時のルートを遡る形で、カレンベルクは寄宿舎へ向かう。
建物の周囲を見回る警備員をやり過ごして侵入すると、まずは自室へと向かった。
自室だった場所は、すでに荷物が処分された後であった。だが、ザジの回収は容易だった。
ビアギッテを害してしまった時に、クローゼットの底に穴を開けてザジを封印していたのが幸いした。
次にビアギッテの部屋へ向かったが、そこにビアギッテの姿は無かった。
それどころか、自分の生活していた部屋と同じように荷物が処分されている。ビアギッテは何処へ行ったのか。
◆
カレンベルクは寄宿舎の寮長室に忍び込んだ。寮長であればビアギッテの行方を知っている可能性がある。寮長は寝室で寝入っていたが、不審者の侵入を察知したのか、目を覚ます。
そして、寮長はカレンベルクの顔を見ると、その表情を恐怖に歪ませた。
「き、貴様、何故ここに!?」
助けを呼ぼうとする寮長をザジの音色で拘束する。碌にメンテナンスをしていないにもかかわらず、ザジはカレンベルクの力に完璧に応えた。
「ビアギッテを何処へ隠した?」
「……し、知らん」
怯えた声で話す寮長だが、この寄宿舎の全権を任されている彼が寮生の所在を知らぬ筈がない。
寮長が嘘を吐いていると考えたカレンベルクは、ザジの弦を一つ弾く。低い音色が寮長の耳に届くと、寮長は苦悶の呻き声を上げた。
「お、ああ……」
「さあ、ビアギッテは何処だ?」
再び寮長に問う。ザジの音が寮長の脳を支配していた。
「み、リ……ガディア……」
「ミリガディアの?」
「首都近く……スラム……今は、使われていない、聖堂……」
「そうか」
聞きたい事を聞き終えたカレンベルクは、再びザジの弦を弾く。
寮長は苦悶の表情を浮かべたまま悶死した。外見ではわからないが、彼の脳細胞はバイオリンの音によって破壊し尽くされているだろう。
◆
何処からともなく響くバイオリンの音色。
作曲者の悲しみを旋律とした曲が、聖堂に響き渡る。
「ぐ、ぎゃ……あ、あ……たす、た……」
「な、何だ、これは、あぐ……!? ぎぇ、があああああああ!」
次いで、バイオリンの音を掻き消すように悲鳴が響き渡る。真夜中の聖堂は阿鼻叫喚に包まれた。
僧侶達の絶叫が収まると、カレンベルクはバイオリンを携えたまま聖堂の奥へと進んだ。
累々と横たわる僧侶達の中、聖堂の奥にいる二つの影だけは、何事もなかったかのように立っている。
片方は女性で、もう片方は男性だった。女性の方は僧侶のフードを目深に被っており、表情は窺い知れない。
「我らの組織を背負って立つ若者が、このようなことでは困る」
「コンラッド祭司……。ビアギッテを返していただきます」
「私の教育は失敗だったようだな。神の名の下に、私が直々に裁きを下してやろう」
カレンベルクとコンラッドは対峙する。相手を射殺さんとする両者の視線がぶつかり合う。
「僕はビアギッテさえ解放してくれれば、貴方がたには何もしません」
「そうか。ならば行け、ビアギッテ」
フードを被った女性が、コンラッドの言葉に促されるようにカレンベルクに駆け寄った。
「ビアギッテ……?」
カレンベルクは駆け寄ってくる女性を見て一歩後退る。
その直後、ビアギッテと呼ばれた女性が蟷螂の鎌のように変化した腕を振り翳して、カレンベルクに襲い掛かる。
突然の攻撃に見えたが、カレンベルクは冷静にバイオリンの弦を一度弾いた。すると、彼女の体は金縛りにあったかのように動かなくなる。
バイオリンの音が女性の行動を支配していた。
「な、に……!?」
女性の顔が驚愕と恐怖に彩られた。
「僕を嵌めましたね、コンラッド祭司」
カレンベルクは女性の先にいるコンラッドを見据えていた。
「ああ。だが、それがどうしたというのだ?」
フードを被った女性がビアギッテでないことは、一目見たその瞬間に把握していた。確かによく似ていたが、長い年月を共に過ごした人を見間違うほど、カレンベルクは鈍感ではない。
カレンベルクはバイオリンの弦を弾き続ける。そのリズムに合わせるように女性の体が動き、ついにはその腕の鎌をコンラッドに向ける。
「行け」
言葉と共に、カレンベルクは一層強くバイオリンの弦を弾いた。
それを合図に、女性がコンラッドに向かって鎌を振り上げる。
「……失敗か」
「た、助けて……コンラッドさ――」
何かが潰れるような音が響き渡る。コンラッドの手には棍が握られており、その先端は血と脳漿で濡れていた。
「祭司……貴方という人は……」
カレンベルクの目には絶望ともつかない色が宿っていた。
まさか、助けを求める者を一撃で殺害してしまうとは予想しなかった。カレンベルクの知るコンラッドは、分け隔てのない無償の愛を生徒達に与える僧侶であった。
「我らの神に仇なした者を排除したのみ。我々は我々を脅かす者の存在を許さぬ」
コンラッドは棍を構えると、常人では見切れぬ速さでカレンベルクとの距離を詰める。間合いに入ったその瞬間、カレンベルクの脳天に向かって棍が振り下ろされた。
しかし、カレンベルクはその一撃を左に大きく避けることで回避した。
回避しながら、カレンベルクはザジの弦を弾く。
「ぐ……」
ザジの音により、コンラッドの動きが一瞬だけ止まる。
しかし、超人としての力かそれとも精神力の賜物か、コンラッドはザジの音色から無理矢理抜け出した。
「甘い!」
棍の追撃がカレンベルクを襲う。先程よりも鈍い速度ではあったが、今度はカレンベルクの脇腹を捉える。
呪縛が振り解かれたことに対する動揺が、カレンベルクに隙を作っていた。
カレンベルクは息と共に悲鳴とも呻きともつかない声を吐き出すと、床に叩き付けられた。
不意の一撃をもらってしまったが、カレンベルクは動揺を隠して体勢を立て直す。
コンラッドが強いであろうことは想定済みであった。カレンベルクはコンラッドの更なる追撃を回避し、距離を取りながらザジの弦を何度も強く弾く。
曲を奏でる暇は無い。とにかくコンラッドにザジの音を何度も聞かせ続けなければと、必死に弦を弾く。
「小癪な真似を……」
コンラッドの攻撃を何度も回避していく内に、聖堂の最奥へと追い詰められた。
「神の名の下に滅せよ、カレンベルク!!」
コンラッドの棍が迫る。カレンベルクはその攻撃を躱すことなく、再びザジの弦を弾く。
今度こそ、コンラッドの動きが完全に止まった。
「な……」
コンラッドの口や鼻から血が流れ出た。
同じ超人であったため時間は掛かったが、コンラッドの体細胞をザジの音色で振動させ、内部からの崩壊を狙っていたのだ。
ついに耐え切れなくなったコンラッドは、穴という穴から血を流しながら床へと倒れ付した。
聞くべき事があったため、脳細胞には攻撃をしていない。だが、このまま放置しておけばじきに失血死を迎えるだろう。
「コンラッド祭司、ビアギッテは何処にいるのです?」
カレンベルクはザジの弦を弾き、コンラッドの精神に問う。
「ビアギッテ、は……聖……ダリウス大聖堂に……いる……」
コンラッドは息も絶え絶えながら、ビアギッテがいるらしい場所を口にする。
ザジの音色から逃げおおせるだけの精神力も体力も、彼にはもう無かった。
「お前は……せめて、私の……手で……」
その言葉を最後に動かなくなったコンラッドを一瞥すると、カレンベルクは聖堂を後にした。
そして一縷の希望を胸に、ミリガディアの首都にある聖ダリウス大聖堂へと向かうのだった。
「―了―」