2993 【恍惚】
聖ダリウス大聖堂の裏手にある、掃除用具が納められた小屋。
ユーリカはそこで、仲間の諜報員から得た地下施設の情報に関して調査を行っていた。
小屋の内部を調査し、掃除用具が収められた棚の裏に隠し階段を発見する。
周囲に人の気配が無いことを確認し、ユーリカはその隠し階段を下りていく。
「これは……」
石造りで荘厳な聖ダリウス大聖堂とは様相を違え、コンクリートと金属で構成された無機質な地下に、ユーリカは衝撃を受けた。
更に詳しい調査を行いたいが、深入りすれば何者かに見つかる可能性が高まってしまう。
地下に何かしらの施設があるということが判明しただけでも、大きな収穫だった。
◆
ユーリカはヨーラス大陸北方にある都市国家、マイオッカの軍人だ。
マイオッカは軍事政権によって統治されており、国家の安寧と領土の拡大を求めて、周辺国家の吸収を狙っていた。
吸収に有利な情報を求めるために諜報員を各地に送り込んでおり、ユーリカもその一員として活動している。
ユーリカは美貌の諜報員ノンナと共に、新興国ミリガディアに潜入していた。
ミリガディアはヨーラス大陸の南部で信仰されていた『命の神』を祀る教団が母体となった国だ。教団の理念に則って民を率いており、《渦》から逃れてきた人々を積極的に救っていた。
首都ルーベスに難民として保護されたユーリカ達は、教団の理念に感銘を受けたと装って入信に成功した。
二人は聖ダリウス大聖堂で入団の儀式を受け、表向きは信徒として真面目に教団の仕事をこなしていた。
ノンナはその美貌を利用し、高位の祭司に接触を図っていた。
ユーリカは真面目に教団の職務をこなすことで、出入り可能となる施設を着実に増やしていき、ノンナの入手した情報の裏付けを取るために行動した。
◆
だが任務は失敗した。あまりにもノンナが祭司に探りを入れすぎ、間諜の疑義が掛けられたのだ。
投獄されたノンナを助け出し、二人は首都ルーベスから脱出を試みる。
「すまない、ユーリカ……」
「謝るのはあとだ」
ミリガディアの警官が二人を追うが、高度な潜入訓練を受けているユーリカとノンナの方が上手だった。
警官を巻き、首都ルーベスを守る障壁の外に向かう。
障壁の外ではユーリカの連絡を受けた自国の馬車と同胞が待っていた。追っ手の姿は無い。あとは馬車に乗り込んで出発しさえすれば助かる。
二人は馬車に近付いた。その刹那、連続した銃声が響く。同時に、前方にいたノンナが倒れた。
ユーリカは咄嗟に体をずらしたが、強い衝撃と熱さに体を焼かれた。
「馬鹿な……救援では……」
「逃げ帰る者には死を。将軍からの命令です」
同胞は無表情のままユーリカに小銃を向ける。
不意に周囲が明るく照らされる。ミリガディアの警官だった。
「ちっ……」
霞む視界が、馬車と共に走り去る同胞の姿を映していた。
ユーリカは自身から流れ出る血をどうすることもできず、意識を手放した。
◆
ユーリカは目を覚ました。状況は不明だが、箱のようなものの中に寝かされていた。
顔の周辺だけがガラスで覆われていて天井を見ることができたが、この場所がコンクリートで囲まれた大聖堂の地下室に似ているくらいのことしかわからなかった。
もしここがミリガディアだとするなら、他国の諜報員である自分が何故生きているのか、それが不思議だった。
だが、それを問おうにも、いつまで経っても誰も訪れる気配は無かった。
どれ程の時間が経過したのだろう。何も摂食していないのに空腹感に襲われず、生理現象等に悩まされることも無かった。
明らかに異常なことではあったが、様々な感覚が消失している現状では、何をどうすることもできなかった。
◆
誰とも会話せず、何もできない状況は、ユーリカに思考する時間を与えた。こんな風に自身の心と向き合って思考するのはいつ以来だろうか。
ユーリカは、己が自分の意志で何かをすることを放棄していたと思い至った。
今までは何も考えなくとも国が全てを与えてくれていた。寝床も、食事も、衣服も、そして生き方さえも。
それは、国のために奉仕する軍人を救出することなく平然と殺害する国に、何もかもを支配されていたということである。
そんな状況を当然と思っていた自分に愕然とする。
次いで、自分達を助けず、殺害しようとした将軍に憎悪が湧いた。
久方ぶりの感情の想起だったが、今の彼女にその憎悪を昇華させる手立ては無かった。
感覚さえ失われた身体では何もできない。仮に身体が動いたとしても、脆弱な一個人の身ではどうしようもない。
そのことを自覚し、身悶えしたい程に苦しんだが、どうすることもできなかった。
◆
すっかり日課のようになってしまった思考時間中、話し声が近付いてきた。
「祖国に切り捨てられたとはいえ、彼女を抱えるのは危険すぎやしないかい?」
「そうかな? だからこそ、我々と共に進む価値があると思わんか?」
中年の男性が二人、ユーリカの箱の前で立ち止まった。どちらも見覚えがあった。大君の側近として仕える高位の祭司ギュスターヴと、この国の警察機関の長であるクロヴィスだった。
「……君の悪い癖だ、ギュスターヴ」
クロヴィスは溜息を吐いて肩を竦めると、ユーリカを一瞥する。そして、あとは好きにすればいいとばかりに一歩下がる。
「何故、私を生かした」
ユーリカはギュスターヴに問うた。音になっているかわからなかったが、自分の声は相手に届くらしい。
「お前の潜入能力は評価に値する。だから欲しいと思った。それだけに過ぎぬ」
「いつ裏切るかもわからぬ者が欲しいだと? 馬鹿馬鹿しい」
「己の危険性を先に説くとは、実に好ましい。さて、そんなお前は何を望む? 何が欲しい?」
ギュスターヴは人好きのしそうな笑みを浮かべてユーリカに問う。
「……私に何をさせたい」
「吾が聞いているのだ。お前が真に望むものは何だ?」
その言葉は「己の欲望をさらけ出せ」と言っているかのようにも聞こえた。
「真に……?」
ユーリカはギュスターヴの言葉を反芻する。同時に憎悪と諦念が交差し、持て余していた感情に一つの道が示されたように感じた。
「いま暫く、吾の言葉の意味を考えるがよい」
ギュスターヴはそう言ってクロヴィスを無言で促し、背を向けた。
「ま、待て……」
その背をユーリカは呼び止めた。今ここで自分の意志を示さねばならないと思い至った。
だがそれは同時に、彼女の『今まで』を全て捨て去ることと同義であった。
「何ぞ?」
ギュスターヴは振り返る。その表情は、確信に満ちた笑みに溢れていた。
「力が必要だ。奴等に復讐するための……」
ユーリカの意志を受けたギュスターヴの口元が、深い笑みを湛えた。
◆
数ヵ月後、ユーリカは祖国の大地を踏み締めていた。
目の前には自身を見捨てた将軍や軍人がいる諜報機関の建物がある。
勤務終了時間の直前、軍人達がほんの少し気を抜く時間に、ユーリカは奇襲を掛けた。
緊急時の脱出通路を警備する兵を拳銃で沈黙させると、そこから潜入する。よく熟知している建物だ、監視の位置やその交代時間まできっちりと把握している。
難なく将軍のいる執務室まで辿り着くと、即座にそこにいた将軍以外の軍人を撃ち殺した。
一瞬のことに対応できなかった者達は、すぐに物言わぬ肉塊となった。
こんなものに怯えていたのかと、ユーリカは嘆息する。あの時、延々と悩んでいた自分が馬鹿らしく思えた。
「ひぃ! や、やめろ! 誰か!」
手足を撃ち抜かれて動けなくなった将軍は、瀕死の動物のようにのたうち回る。
軍人達のようにすぐには殺さなかった。絶望という感覚を一瞬でもいいから将軍に思い知らせたかった
「無駄です、将軍」
「た、たす、助けて……」
「いいえ。将軍、これで終わりです」
ユーリカは怯える将軍を無表情で見つめながら、構えた小銃の引き金を引く。
腕に感じる僅かな衝撃と、軽い音がした。
「あが、ごぉ……」
脳漿と血を噴出し、将軍は動かなくなった。ユーリカは倒れた将軍に近付くと、何の躊躇いもなしにその頭を踏みつけた。
足に自身の体重を掛ける。頭蓋骨が砕ける音と、泥の中に足を思い切り踏み入れたような音が、執務室に響き渡る。
「貴方のような者でも、最後の音だけは素敵なのですね」
靴に付着した将軍だった何かを見つめ、ユーリカは淡々と、だがどこか恍惚とした風に呟いたのだった。
「―了―」