3373 【救い】
「……です。中毒症状は――」
知らない女性の声がイヴリンの耳に届いた。
目を開けて周囲を見回す。そこは自分が暮らす病室ではなかった。
そこは牢獄のような場所で、至る処にあの黒い『染み』が蠢いていた。
イヴリンの周囲を黒衣と『染み』を纏った数人が取り囲んでいる。背格好は様々だが、全員女性だった。
その声はノイズが混じったように上手く聞き取れないが、最初に聞こえてきた声の主が集団に指示を出しているようだった。
◆
ここは何処だろう。何で自分はこんな所にいるんだろう。
イヴリンは混濁した意識の中で、目覚める前の出来事を思い出そうとする。
病院が悪霊に襲われたあの後、夜明けを待ってミシェルと一緒に脱出しようとした。その際、病院の爆発騒ぎに気付いた都市の警備隊に保護された。
その筈だった。
◆
「ねえ、コンラッド先生は? ミシェルはどこにいるんですか?」
イヴリンは自分を取り囲む黒衣を纏った者達に尋ねる。
だが、彼女らは何も答えることなく、ただイヴリンを気の毒そうな目で見るだけだった。
「お願い、答えて。ねえ、お願い……」
イヴリンは泣き崩れるしかなかった。この場所には親身な医者も、姉のような看護師もいないのだ。
恐ろしい場所に連れてこられてしまった。その思いだけがイヴリンの胸中にあった。
◆
牢獄で過ぎていく時間は、只ひたすらに苦痛であった。
拘束衣を着させられて身体の自由を奪われた。部屋には外の景色や時間がわかるような窓も無かった。
定期的に訪れる者はいたが、誰も彼もがあの黒い『染み』に全身を覆われており、その姿を見る度に、イヴリンは恐怖に泣き叫ぶしかなかった。
◆
そんなイヴリンの唯一の安らぎは、夢の中だけだった。
夢の中のイヴリンはいつもの病室に似た場所にいて、ゆっくりと病気の治療をしていた。
そこにはミシェルもコンラッドもいた。病院が襲われる前の光景が夢の中にあった。
一つだけ違うことと言えば、ヴォランドと名乗ったあの少年が、毎日イヴリンの病室にやって来ることくらいだろうか。
「今日はお花を持ってきたよ。よく見えるところに飾るね!」
「ありがとう……」
ヴォランドは同じ年頃か少し年下に見える素敵な少年で、外に出られないイヴリンのために色々なものを持ってきては、彼女の目を楽しませてくれた。
何故こんなに親切にしてくれるのかはわからない。それでも、夢の中の自分は確かな幸せを感じていた。
「今は暖かい季節なんだよ。外に出る許可が出たら、一緒にガーデンを散歩しようよ!」
「そうね!」
夢の中はこんなにも幸せなのに、目が覚めれば、そこは牢獄の光景。
「あぁ……」
幸せな夢から覚めて現実に悲観し、泣き叫ぶ。何度これを繰り返しただろう。
「もう嫌……。先生、ミシェル、助けて……」
イヴリンの精神は限界にあった。これが現実であるという苦痛は、イヴリンの心を確実に蝕んでいった。
◆
牢獄の扉が開く音で、イヴリンは目を覚ました。
また『染み』に包まれた何かがやって来たのだと、身体を強張らせた。
「ここにいたか。手間を掛けさせやがる」
イヴリンは驚いた。その者は『染み』を纏っていなかった。さらに、その声が明瞭に聞き取れたのだ。
「あなたは誰……」
「お前がイヴリンか」
「なぜ、私のことを?」
「ミシェルって女に頼まれただけだ」
「ミシェル? ミシェルはどこにいるの?」
「知りたいか?」
男はイヴリンの言葉に短く返す。
「知りたい……、ミシェルはどこにいるの?」
「俺に付いてくればわかる。どうだ? 来るか?」
男はイヴリンに尋ねる。口調は淡々としていたが、その言葉はイヴリンにとって希望以外の何ものでもなかった。
「私はミシェルの所に行きたい! ここは怖いの! もう嫌なの!!」
イヴリンは力の限りに叫んだ。ミシェルがいる場所なら何処でもよかった。
「よし、いいだろう」
男は拘束されたままのイヴリンを無造作に持ち上げると、入り口の扉を破壊して脱出した。
そのまま、外に待ち構えていた自動車に乗せられる。
自動車から見える外の景色は暗かった。それは、本当に久しぶりに見る夜の空だった。
「どこに行くの?」
牢獄からやっと出られたという開放感と、ミシェルの所へ行けるという幸福感が、イヴリンの気持ちを高揚させていた。
「新しい病院だ。お前のミシェルはそこにいる」
男はぶっきらぼうにそれだけを答えると、あとは口を閉ざして寡黙になった。
最初こそ怖い印象の男だったが、それよりも頼もしさが勝っていた。
◆
男に連れてこられた場所は、元の病院よりも大きな病院だった。
病院の入り口にミシェルが立っていた。イヴリンの到着を今か今かと待ちわびている様子だった。
「そら、お前のミシェルはあそこだ。行け」
男はイヴリンを車から降ろした。イヴリンはその足でミシェルに駆け寄る。
「ミシェル!」
イヴリンの姿を認めたミシェルも、イヴリンの方へ駆け寄ってくる。
「イヴリン! ……ああ、よかった!」
イヴリンとミシェルは固く抱き締め合う。
「もう大丈夫よ」
「コンラッド先生は?」
「先生もご無事よ。今は他所に行ってらっしゃるけど、すぐにこの施設に来てくれるわ」
それを聞いて、イヴリンは心の底から安堵した。
「よかった……」
全て元通りとはいかなくても、大事な先生と看護師が無事でいてくれた。それだけで十分だった。
「コンラッド先生がこちらに来られるまでは、別の先生に診てもらうことになるのだけれど、大丈夫?」
「うん、平気」
「じゃあ、これから住む部屋に案内するわ」
イヴリンは今までにない安堵を胸に、病院の中へと足を運んだ。
◆
イヴリンが住むことになる部屋は、元の病院と同じように白く、清潔で整った部屋だった。
真っ白いシーツとふかふかの毛布、イヴリンのためにと用意されたらしいそれらは、どれもが新品であった。
「もうすぐ新しい先生がお見えになるから、ご挨拶しましょうね」
「どんな先生なの?」
「綺麗な女の先生よ。腕の良さもコンラッド先生と同じくらいだって評判なの」
「そっか……」
コンラッド以外の医者に診てもらうことへの不安はあった。
だが、ミシェルが傍にいてくれるのだ。これ以上に心強いものはない。
◆
「初めまして、ビアギッテよ。コンラッド先生が来られるまでの間、私が貴女を担当するわ。よろしくね」
ビアギッテと名乗った女医は、御伽噺から飛び出してきたのかと見紛うほどの美貌と、目を見張らせずにはおかない気品を兼ね備えていた。その立ち居振る舞いは医者ではなく、物語に出てくる高貴な女王といった雰囲気さえ漂わせている。
それ程まで優美なビアギッテに、イヴリンは何も手入れをしていない自分の姿にみすぼらしさを感じ、萎縮してしまった。
「緊張しなくてもいいわ。酷い場所に連れて行かれて辛かったでしょう? ここで安心して病気を治しましょうね」
ビアギッテの声は、萎縮していた心と体を優しく溶かしてくれるかのように、甘く耳に入ってくる。
「は、い……よろしく、お願いします」
「じゃあ、コンラッド先生が驚くくらい元気になりましょう」
見蕩れるように頷いたイヴリンに、ビアギッテは大輪の薔薇が咲くような笑顔で答えたのだった。
「―了―」