3274 【諦めの日】
「先生! 好きです! 好きなんです!」
「……ありがとう。僕も君のことが大好きだよ、シャーロット」
そう仰って、カレンベルク先生は私が初めて見るような甘い甘い笑みを浮かべ、私を抱き締めてくださいました。
なんて幸せなのだろう。私はなんて幸福な人間なのだろう。そう思うと、自然と目から涙が溢れ出てきます。
◆
先生の腕の中で幸福を噛み締めようとしたその刹那、私は目を覚ましました。
◆
今の私にとっては思いを告げることが全てです。本来なら幸せに感じる筈のこの夢も、今は悪夢以外の何ものでもありません。
そもそも、カレンベルク先生には何者にも揺るがされないほどに大切な誰かがいらっしゃるのです。そして、私の幼い恋慕に応えてくれる心の隙間は、先生には存在しません。
それを理解してなお、私はこの暖炉の残り火のように燻り続ける思いを先生に伝えたいと願っています。
挫けそうな心を何とか奮い立たせ、私は先生に思いを告げるその瞬間を、じっと探し続けるしかないのです。
◆
祭事の一日前。つまりカレンベルク先生が真夜中にひっそりと旅立ってしまわれる日の夕方。偶然にも私は音楽室で作業をしている先生と会うことができました。
その時、私は音楽室に忘れ物をしていて、それを取りに行ったのです。
「あ、先生……」
「珍しいね、シャーロット。忘れ物かな?」
「はい。楽譜を忘れたみたいで……」
何度も繰り返した一週間の中で、ようやっと巡ってきた機会でした。
緊張でどくどくと脈打つ心音が先生に聞こえてしまわないだろうか。それくらいに緊張で硬くなってしまいます。
でも、この機会を逃せば、また一週間前からのやり直しです。
「あの……、先生」
「何だい?」
「私、その……」
早鐘のように煩い心音を無理矢理に落ち着かせ、思いを伝えようとしたその時でした。
「カレンベルク、ここにいたのか」
司祭様が音楽室に入ってこられました。
「司祭様、どうかなさいましたか?」
「ああ。すまないが例の件で話がある」
司祭様の言葉で、先生のお顔から表情が消えるのが見て取れました。
「シャーロット、すまない。行かなければ」
「待って――」
「すまないな、シャーロット。大事な用なのだ」
お二人に厳しい表情でそう言われてしまえば、ただの少女である私が先生を引き止めることなど、できる筈がありません。
「明日は本番だからね。早く宿舎に戻って休むんだよ。じゃあ、また明日」
そう仰って私の頭を優しく撫でてくださった先生は、司祭様と慌ただしく音楽室を出て行ってしまいました。
私のために無理に作った笑顔で、引き攣った優しげな顔で、酷い言葉を私に告げて。
明日なんて無いのに。先生はそれを知っているというのに。
何と残酷な言葉なのでしょう。
◆
その日のカレンベルク先生が旅立たれる瞬間に、私は立ち会うことができませんでした。
いつもであれば真夜中に旅立たれるのですが、教会のどこにも先生はいらっしゃいません。
翌日司祭様に尋ねると、司祭様とのお話を終えた後、先生はすぐに旅に出てしまったと聞かされました。
◆
数少ない機会を生かすことができずに失敗し、そしてまた一週間前に戻る。
何度同じことを繰り返したでしょうか。
思いを伝えられなかった記憶が、カレンベルク先生の旅立ちの日に降る雪のように、私の中に静かに積もっていきました。
思いを告げることができるその日まで、一週間を何度でも繰り返し続けるようと決意しました。ですが、数え切れないほどの失敗を繰り返した私の心は、少しずつ変わっていったのです。
少しずつ少しずつ、私の心は決意から諦めへと変貌していったのです。
◆
そんな心の磨耗を映し出すかのように、私は繰り返される一週間の半分以上を、熱を出して寝込むようになりました。
「調子はどうだい? シャーロット」
「せん、せ……」
寝込んだ日は私を必ず見舞ってくれるカレンベルク先生ですが、私の喉は病魔に冒されていて、言葉を紡ぐことができません。
ですが、私の心はどこか満ち足りた気分を感じているのです。
ずっとずっと、永遠にこの日々を繰り返していけばいいのではないか。そういった黒く暗い感情が、私の心を覆い尽くそうとしていきます。
自分の思いを先生に告げることが成し得ないのであれば、私を気に掛けて見舞ってくれる先生の姿を見続けていたい。そう思ってしまうのです。
◆
そうやって、繰り返す一週間を先生に見舞ってもらうだけになった頃、不思議な夢を見るようになったのです。
最初は一週間に一度くらいの頻度でその夢を見ていました。
霞が掛かったような不鮮明なものでしたので、最初は高熱のせいだと思っていました。
ですが、幾度とない繰り返しを行っているうちに、ついにはその夢を毎晩見るようになってしまったのです。
◆
その夢を見る度に、聖歌隊の練習の最中に戻る度に、霞が掛かっていた夢は徐々に鮮明になっていきました。
◆
鮮明になっていったその夢は、カレンベルク先生と見知らぬ老人が、豪奢な聖堂のような場所で戦っている夢でした。
先生は私の知らないバイオリンを爪弾いて音を操り、それによって老人を攻撃しているようでした。
普通に考えて、音で人に危害を加えることなどできるわけがありません。ですが、私が特別な歌を歌うことで最後の一週間を繰り返しているように、先生は他人を攻撃できる楽曲を知っているとしたら。その可能性は十分にありました。
老人も杖を振るって怪しげな術を繰り出し、先生と渡り合っています。
老人の口が動いていることから、何かしらの言葉を喋ってはいるのでしょう。先生の口も、老人に対して言い返すように動いているのが見えました。
ですが、先生の言葉も、老人の言葉も、どちらも聞き取ることはできませんでした。
◆
先生と老人の戦いは熾烈を極めます。
術と音のぶつかり合い、とでも言えばよいのでしょうか。
衝撃によって、私の周囲の空間が震えているのがわかる程です。
夢の中では私は空気のような存在ですが、何故かその衝撃だけは体感できました。
そして、術と音の打ち合いが暫く続き、ついに終わりを迎えます。
老人が倒れたと見せかけて、不意打ちで光り輝く不思議な紋様を出現させるのです。
先生はその不意の一撃を防ぐことができず、いつも必ず負けてしまいます。
◆
先生が膝を突きました。もう何度も何度も見ている光景ですが、私はその光景を見る度に胸が締め付けられます。
先生の体のそこかしこから血が流れ出し、今にも倒れそうでしたが、必死に痛みを堪えて立ち上がろうとしています。
老人が先生に向かって何かを喋っているのですが、聞き取ることはできません。
先生は朦朧とする意識で、老人の言葉を悔しそうに聞いています。
老人は笑っていました。背をのけぞらせ、醜悪な笑みを浮かべ、先生を嘲笑しているように私には見えました。
「先生っ! 先生!!」
私は堪らずに叫びだし、先生の元へと走ります。
ですが、これは夢です。夢でしかないのです。
私は先生に触れることすらできず、ただただ先生の前で立ち尽くすのです。
◆
先生が完全に倒れ伏したと同時に、私は目を覚ますのでした。
◆
「う、うぅ……」
カレンベルク先生が傷つき倒れる姿に、私は涙してしまいます。
この夢は一体何なのでしょうか。
思いを伝えることに失敗し続けている私の心が見せているものなのでしょうか。それとも、特別な歌が何か別の力を発揮して先生の未来の姿を見せているのでしょうか。
◆
「教えてください、カレンベルク先生……」
その言葉は、私以外の誰もいない部屋に吸い込まれて、静かに消えていきました。
「―了―」