3395 【泥濘】
午後を過ぎて冷たい雪が降り始めていた。激しい砲撃を受けた地上は泥濘と化して、エヴァリストの足下を汚していた。
帝國の東方、バーンサイドとの国境沿いにある橋を挟んで、膠着状態が続いていた。
土塁の傍まで来てアイザックは囁いた。汚れた戦闘服は戦いの激しさを物語っていた。
「嵌められたな」
ただし、その顔には笑みが浮かんでいる。エヴァリストをからかっているかのような口調だった。
「知っていたさ。だから来た。何かを得たかったら犠牲は必要だ」
「……犠牲か。お前の部下たちは可哀想だな」
「お前だって私の部下だ」
「オレは好きなんでね、戦争が。楽しませてもらってる」
「これからもっと楽しくなるかもしれんぞ。見てみろ」
土塁の向こうをアイザックは乗り出して覗いた。
「わかるか?」
対岸の堤防側で、兵が慌ただしく行き来している様子が見える。
その装備は、今まで戦っていたバーンサイド軍のものとは明らかに異なっていた。
「援軍か?」
「インペローダの兵だ。戦獣をつれている」
エヴァリストはシドール将軍からの指令をアイザックにも伝えようと決心した。
◆
「―帝都ファイドゥ―」
「私は不安なのだ」
酒杯を置いて、将軍は語る。
「我が軍には役人の様な軍人が多すぎる」
麾下の師団で頭角を現したエヴァリストを、シドール将軍は特別に目をかけていた。
「私は君をかっている。ヴァルツ大尉」
深い皺に囲まれた鋭い眼孔は、この小柄な将軍の威光の中心だった。
「特に軍人としてというより、戦士としての君をな」
将軍はグランデレニアの帝國軍にあって特別な人物だった。
曙光の時代が始まり、地上の多くが混沌から解放された時に、真っ先に軍を増強して帝國の版図を広げることを主張したのが彼だった。
多くの戦果を上げ、帝國の威信を大いに高めた。ただ、そのあまりに大きな成功がかえって帝國内での立場を危うくしていた。
ルビオナ王国との東部戦線では一進一退の状況が続き、軍内での政治力に陰りが出てきていた。
「生まれはどこかね。領内の生まれではないと聞いているが」
今までの会食は他の士官を交えて戦況や要望などを語り合う定型の場だったが、今日呼ばれたのはエヴァリストのみだった。
「フォレストヒルです。今はもう存在しません。子供の頃に『渦』に飲まれました」
エヴァリストは正直に話した。将軍の真意がわからない内には、駆け引きをする必要を感じなかったからだ。
「難民として帝國で育ち、十七の時に軍に志願しました」
「軍に志願した動機は?」
「自分の力を試すためです。何処までやれるのか知りたかったからです」
将軍はエヴァリストの目をじっと見つめていた。
「なるほど。自身の出自や環境はどう感じている?」
「自分を憐れむ気持ちはありません。感情は所詮行動に付随するものです。前進しているならば、拘泥する必要を感じません」
「面白い物言いだ。しかし前線指揮官としては頼もしい」
将軍は笑って酒杯をあおいだ。
「将軍、今日私をお呼びなった理由は何でしょうか?」
エヴァリストは直裁に切り出した。
「焦るな大尉。聞いてくれ」
「人生に目的は無い。どこの街に生まれようが、どんな家系に生まれようが、結局は死ぬ」
「しかし戦争は違う。何処で始まろうとも、必ず勝利という目的がある。そこを私は気に入っているのだ」
将軍は立ち上がり、壁に飾られた地図に向かう。
「戦線は日々拡大している。西にも東にも南にもな。そしてすべての戦場で我々は勝利する」
振り返った将軍の目には、独特の光が宿っていた。
この歪んだ意気こそが小柄な男を将軍にしているのだと、エヴァリストは感じた。
「そのためには新しい力が必要なのだ」
「ひとつ頼みを聞いてもらいたい。君のような男でないとできない、特別な仕事だ」
◆
「―マイオッカ国境―」
朝が来た。夜明けと共に、対岸からゆっくりと戦獣三体が姿を現した。背の高さは3アルレ《4.5メートル》ぐらいだが、横にもそれぐらいの幅があり、肉塊の迫力はここからでも伝わってくる。
背にはインペローダの獣騎兵が乗っていた。突き出た口には拘束具が取り付けてあり、拘束具から延びた手綱を獣騎兵が握っている。昨日のうちに戦獣のタイプはわかっていた。昔は『トーベア』と呼ばれていたタイプだ。
歩くときは四本足で進むが、捕食時には立ち上がって前足を器用に使う。赤く甲羅のように厚い皮膚と、強力な治癒能力を持っている。確かに戦争にも役に立つタイプだ。
巨獣は障壁器を後ろに引きながら、ゆっくりと橋に向かう。と同時に背後からバーンサイドの工兵達が現れ、橋を渡り始めた。巨獣が引く障壁器の力で銃弾や砲撃の心配が無い。
工兵達はこちらが橋に仕掛けた地雷や障害物を取り除き始めた。
バーンサイドやインペローダにはテクノロジーを管理する『エンジニア』達との繋がりが弱く、こちらが使う自動機械や高性能な野砲などは持っていなかったが、防衛の為にどの都市にもあった障壁器の技術は残っているようだった。
騎士隊はすでに集まっていた。従卒が機械馬《オートホース》の傍に立ち、エヴァリストを待っていた。馬へ乗り、彼から騎兵銃《カービン》を受け取った後、薬室を確認してから鞍へと差した。従卒は自分の馬に乗り、他の隊員全てが騎乗した。
エヴァリストは剣を抜き、隊員に向かって叫ぶ。
「我が帝國軍の本隊は現時ルビオナと交戦中である。今、このマイオッカにその後陣を突こうとバーンサイド軍が侵攻してきた。これは暴挙である。しかもその背後には邪悪な獣をつれたインペローダがいることがわかった。ここで引き下がることはできない!」
「西方で戦う同胞のために!故国で待つ家族を守るために!インペローダの意気をここで葬る!」
「邪悪な獣を恐れるな、敗北の恥辱を恐れよ!」
隊員は声を上げ、顔をあげた。みな一様に緊張をしているが、その顔は戦いへの意欲を現していた。
「ゆくぞ!」
副長のアイザックが隊列を整えさせる。エヴァリストの横にアイザックは立った。
「さて、楽しませてもらおうか。生きているうちにな」
いつもの調子なアイザックの後ろには従卒がいた。だが、その顔は緊張のあまり蒼白になっていた。
「無駄口だな、中尉。彼を見習え」
急に声を掛けられた従卒は、驚いた顔でアイザックを見る。
「怒られたよ。大尉は怖いね」
陣地から勢いをつけて騎士隊が飛び出した。自分達の工兵が置いた障害物を、踊るように機械馬が避けていく。工学師《エンジニア》が作る自動機械《オートマタ》の精巧な動きは、滑るように馬と騎兵を進めていた。
障害物に取り付いていたバーンサイドの工兵達は、持ち場を飛び退くように離れ、元の対岸に向かって走る。しかしすぐに機械馬に追いつかれ、振り出した剣と馬体に押し潰され、ぼろ切れのように地面に転がった。
バーンサイドの獣騎兵達は、突撃してくる騎兵に対抗しようと必死に手綱を引き、拘束具を解こうとしていた。カービンを構えて馬を止め、獣の上に乗る獣騎兵を狙う。まだ50アルレ《75メートル》以上はあるかという距離だったが、揺れる標的をしっかりと捕らえ始めた。
ゆっくりと時間が進むのが感じられた。はっきりとエヴァリストは「端」に立ったことがわかった。力を使うときだ。眼の中で、照星の向こうに霞む獣騎兵達の『未来』が見えた。
揺れる銃口と未来の映像がシンクロしていた。獣騎兵の倒れる絵をしっかりと捉えた時、引き金を引いた。まるで一度時間が巻き戻ったかのように、起き上がった兵がまた倒れた。獣騎兵は獣の鞍からぶら下がるようにして息絶えた。
縦列になった獣に乗る残りの獣騎兵二人も、同じようにして倒していく。
「大尉、お見事です」
恐れていた巨獣が力を奪われるのを見て、興奮した様子で従卒が声を掛けてきた。立ち止まった自分と共に残っていたのだ。
「いいから前に進め。橋を渡りきってからが勝負だぞ」
従卒と共に一気に先陣に追いつく。巨獣の脇をすり抜けていく。拍子抜けするほどに『トーベア』は動かなかった。力なくぶら下がった獣騎兵の死体を一瞥すると、障壁器のある後方に向かう。
「これじゃただの荷馬ですね」
従卒が高揚した口調で叫ぶ。
障壁器の周りでは、先陣の部隊が足止めされていた。障壁器は戦の要のため、どんな場合でも防衛兵がついている。機銃掃射で馬を近づけないようにしている。
「どうした」
「うまく配置されてやがる。抜けれねえ」
アイザックが答える。
「時間が無い、二人で行くぞ」
アイザックはうなずく。
「私とアイザックに付いてこい。必ず機銃は仕留める」
左右から同時に飛び出せば、必ずどちらかは辿り着ける。ここで時間を取られれば対岸の本隊を仕留められず、犬死にとなる。
「行くぞ!」
声を掛け、同時に飛び出した。
機銃は一瞬の迷いの後にこちらに銃口を向けた。エヴァリストは機械馬を走らせながら体を伏せ、銃撃を待った。数発ならば機械馬は持ち堪えられるし、体幹に弾を受けなければ死にはしない。
銃撃音が響くと同時に激しい衝撃を受けた。機械馬がコントロールを失い、障壁器の手前で前のめりに倒れた。放り出され、地面に叩きつけられる。痛みは感じたが、後続に踏み潰されぬよう必死に顔をあげた。
うまく後続はエヴァリストを避けていく。防衛兵の機銃はアイザックが仕留めたようだった。
「大丈夫ですか!」
従卒が傍に来た。
「馬を替えましょう」
「いや、後ろに乗せてくれ」
幸い骨は折れていないようだった。失ったカービンを借り、機械馬の後ろに乗った。
障壁器を確保し、橋の三分の二を過ぎたところで、橋向こうから後続の装甲猟兵達が押し出てくるのが見えた。
訓練された装甲猟兵は騎兵にとって危険な存在だった。馬による蹂躙も、士気を保った装甲猟兵相手だと分が悪い。
エヴァリストは馬上から装甲猟兵の中隊長マークを背負った者を狙った。トリガーを引き絞る。シアが落ち、撃針が雷管を叩く。ガス圧によって加速された徹甲弾が空を進んでいく。
全ての感覚が繋がっていた。トリガーを引くことで弾が射出される道理と同じように、弾は確実に装甲猟兵のスリット状の眼孔に吸い込まれて行った。
前のめりに倒れていく中隊長。まだ敵は何が起こったのかに気付いていない。次弾を先頭の兵へと合わせようとしたとき、先を行くアイザックが視界に飛び込んできた。
馬を下りたアイザックは、体捌きによって眼前の敵を倒して行く。装甲猟兵のスピードでは全く追いつけない。敵の混乱は明らかだった。
前線に追いついたエヴァリストも馬を下り、アイザックと共に剣を振るう。ここでアイザックと共に装甲猟兵を引きつけ、他の隊員を先に行かせる。
後方にいた敵の部隊は、騎兵達が届くと潰走を始めた。自分達の兵力の支えであった巨獣と装甲猟兵の敗北を見て、恐怖したのだ。
アイザックはとどめの一撃を装甲猟兵の首へ叩き込んだ。
傍らで戦況を確認しつつ戦っていたエヴァリストは、勝利を確信した。損耗は激しかったが、得たいモノを得られた。
何も無い自分達が何かを得るためには、戦うしかない。
エヴァリストの決意は、血に塗れた戦場の中でも変わらなかった。
「―了―」