04アベル1

3395 【鬼神】

御者台の男は改めて馬車の背後を見やった。

先程から一定の距離を置いて隊商を付け狙っていた魔獣達が、ついに一斉に襲いかかってきたのだ。

必死に機械馬の速度を上げるが、その距離は徐々に縮まりつつあった。自分達が荒野に無残な骸を晒すのも時間の問題かと思えた。

頭を振っていやな想像を打ち消すと、男は逃げ延びる道を探すために馬車の進行方向に目を向けた。

そこに、青年が立っていた。青い空に映える黄金の髪。そしてその青空よりも澄んだ輝きを放つスカイブルーの瞳。そんな顔立ちとは一見釣り合わない鍛え上げられた肉体はしかし、古代の彫刻を彷彿とさせる絶妙なバランスを保っていた。

「あんた、危ないよ!魔獣が襲ってきてるんだ」

ガラガラと響く車輪の音に掻き消され、御者台の男の声など届く筈がなかった。

だが、青年はその言葉に確かに頷いた。

ガチャリと重い音をさせて腰の鞘から剣を引き抜くと、迫る馬車に正面から突っ込んできた。

気でも狂っているのか。御者台の男はこの時のことをそう振り返った。

青年は全速力で迫る馬車の御者台に正面から飛び乗ったのだ。彼はそのまま荷台の屋根を渡り、背後の魔獣の群れに飛び込んでいった。まさに一瞬の出来事で、男は何が起こったのかすぐには理解できずにいた。並の運動神経ではない。

男が慌てて馬車の後方を見やると、男は群れをなす魔獣を相手にひとりで戦っていた。すでにその足下には、判別できるだけで五体の屍骸が転がっていた。

「あの一瞬であんなに倒しやがったのか……」

どんどん小さく離れてゆく“戦場”を見て、男はあるプランを思いついていた。

アベルは馬車の屋根から飛び降りた加速度を利用して、目に付いた魔獣を一体薙ぎ倒した。そのまま速度を回転の力に換えて剣に乗せ、周囲に群がる魔獣を二、三体吹き飛ばす。さらに振り抜いた剣をそのまま上段に構え、襲い掛かってこようとした魔獣の頭蓋を叩き割った。僅かばかりの脳漿が飛び散り、他の魔獣が一瞬だけ怯んだ。

トカゲとオオカミを足して二で割ったような魔獣だった。肉食ではあったが、小型の魔獣や小動物を襲うことはあっても、隊商の馬車を襲うことなど滅多にない筈だった。だが、渦《プロフォンド》の消え去ったこの世界では魔獣の数も減り、食う物に困ったのだろう。

「お前らも、俺と同じか」

並行世界から侵食された混沌の化け物――意思の疎通など図りようもない相手に、アベルは親近感を抱いた。

「だが!」

アベルの感慨などお構いなしに、態勢を立て直した獣の群れが襲い掛かる。不毛の荒野で生き抜いてきた本能がそうさせたのか、魔獣達は左右から同時にアベルに飛びかかった。

――右の方が僅かに速い!

研ぎ澄まされたアベルの五感は、常人が決して感じ取ることのできない僅かな差を見抜いた。身体を捻って右の魔獣の攻撃をかわし、その回転を利用して二体の魔獣を一刀両断する。

思わず笑みがこぼれる。脳内に麻薬のような成分が溢れて気分が高揚する。視界が白く染まり、そこにあるのは「己」と「敵」のみとなった。

荒野は戦場と化し、青年は鬼神と化していた。

「こりゃまた派手にやったモンだな!」

アベルはその声で我に返った。

声のした方を見ると、機械馬に乗った男が近付いてきていた。もう少し近くまで来ていたら、反射的に攻撃してしまうところだっただろう。

辺りには魔獣の屍骸が散乱していた。アベルは感覚を澄ませ、微かな呼吸音も唸り声も無いことを確認した。全てが死に絶えた荒野に血臭が立ち込めていた。

「何の用だ?」

アベルが訊ねると、機械馬の男は一瞬ポカンと口を開け、刹那のあとに笑い出した。

「うはは。兄さん、面白いこと言うね。俺はあんたを雇いに来たんだよ」

「雇う?」

「そうさ。それだけの魔獣を相手にできる手練は滅多にいねぇ。ぜひ俺達の隊商の護衛を引き受けてもらえねぇか?報酬はすぐには出せねぇが、ミリガディアに着いたらちゃんと支払うぜ」

ミリガディア王国と言えば、大君《オーバーロード》バステタの治める宗教国家である。そんな遠方の国の隊商が、なぜインペローダに程近いこんな土地にいるのか。アベルが考え込んでいると、男がそれを察したように言った。

「ほら、こないだミリガディアがインペローダと同盟を結んだだろう?おかげで新たな商売のルートができてな。今回は記念すべき初遠征の帰りってワケなんだよ。危うく魔獣のヤツらに襲われそうだったところに、兄さんが現れたってコトさ。いやぁ惚れ惚れするほどの戦いっぷりだったねぇ!」

「……世辞はいい」

男が戦いを見ていないのはわかっていた。おだてて護衛を引き受けさせようとしているのだろうが、アベルにはそういった言葉は逆効果だった。

「っと、すまねぇすまねぇ。商売柄つい口のほうが先に回っちまうもんでね。で、どうだい?引き受けてくれねぇか。少なくとも道中の食事は腹いっぱい食わせてやれるぜ」

そういえば食料が心許なかった。いざとなったら“狩り”でもするつもりでいたが、食事が提供されるのなら、この隊商について行くのもいいだろう。

「わかった。引き受けよう」

「そうこなくっちゃ!さ、乗ってくんな。本隊に合流するからよ」

男の操る機械馬の後ろに乗ろうと足を掛けたところで、アベルは思い出したように口を開いた。

「もし、俺があんた達の隊商を襲ったらどうするんだ?」

「いや、それはねぇな」

男はにやりと笑う。

「あんたは強盗はしねぇよ。ただ、ちいっとばかし戦闘狂のケがあるがな」

「……」

アベルは少しだけ驚いていた。どうやらこの男の観察眼はなかなかに鋭いようだ。となると、先程ギリギリの距離で声を掛けてきたのも計算の内なのだろう。

「参ったな。さすがはスマグラーといったところか」

アベルの顔に戦いの時とは異なる笑みが広がった。

アベルがミリガディアの隊商と出会って数日が過ぎていた。旅は概ね順調で、何度か魔獣の襲撃があったものの、アベルの活躍によって大した被害もなく退けられていた。

彼にとって唯一の不満といえば、昼間の馬車の寝心地の悪さだ。道なき道を往く荒野の交易商人、スマグラー達は慣れているのかもしれないが、乗り慣れない交易用馬車の狭い荷台は、野営の見張りをこなすアベルにとって快適なベッドとは言えなかった。

だからだろうか。

アベルは思い出したくもない過去の悪夢の中にいた――。

「どうした。トドメを刺せ!」

血走った眼がアベルを見据えていた。強さを求める狂気の眼だった。

アベルは息ひとつ乱さずに、構えていた剣を下ろした。

「俺の勝利は明らかです。それに、ニコラスはまだまだこの先鍛えれば強い剣士になります」

「アベルよ、人には得られるものと得られないものがある。そして同時に、人は選ぶことができない。たとえ選んだとしても、それは選んだと思い込んでいるに過ぎない」

儀礼用の鎧の拍車を鳴らし、父――オズワルド・タウンゼンドが近づいてくる。

試合前、オズワルドは、これは正式な戦いだと言った。それは暗に、ルビオナ連合王国公家フォンデラート家の剣術指南役の正当な後継者を決める試合である、と言いたかったのだろう。

「剣士とはなんだ?強さとはなんだ?」

オズワルドは、アベルが鞘に納めかけた剣を再び引き抜き、ムリヤリその手に握らせた。

「選ばずに得る、それこそが強さ!」

「ち、父上……!?」

アベルは倒れ伏したニコラスに剣を振り下ろす。いや、振り下ろさせられた。

「ぐぁっ!?」

突き刺さった剣と厚手の革鎧の隙間から勢いよく鮮血が吹き上がった。誰の目にも致命傷なのは明らかだった。

「や、やめてください父上!ニコラスが、弟が死んでしまいます!」

「その通り!ニコラスは得られなかった!弱き者は死す定め!アベル!お前こそが剣士となるのだ!!」

剣を握った手に弟の命の灯火が消え逝くのが感じられる。だが、その手は父の手によって押さえつけられ、逃れることができない。僅かに痙攣していた弟の身体が動かなくなった。

「やめ、やめてくれえええええええええっ!」

その瞬間、思いもよらない力が出た。押さえつけていた父の手を振りほどき、一瞬の踏み込みで剣を振り下ろす。熟練者でもまずかわせないであろうその必殺の一撃を、王国随一の剣士であるオズワルドは紙一重で避けてみせた。

「ははは、いいぞアベル。一段と強くなった。それでこそ剣士。私の跡を継ぐに相応しい!」

「うわあああああああああああああああ!」

アベルには、もう父の声は聞こえていなかった。

この男を殺す――。

ただそのことだけを考えて剣を振るった。白く染まった闇の中で、銀の鎧を着た“敵”だけを見ていた。

どのくらいの時間が経過しただろう。

数分か、それとも数十分か。もしかしたら数時間戦っていたのかもしれない。もはやアベルは剣を支えに立っているのがやっとという状態だった。腕といい脚といい、その身体はどこも傷だらけで、いまだ出血の止まらぬ箇所すらあった。

目の前には血溜まりができていた。その中に倒れているのは父だった。

傍らには弟の亡骸があった。

ああ、俺が殺したのか。と、アベルは麻痺した頭でぼんやりと考えていた。

ゆっくりと、アベルは目を覚ました。

相変わらずガタゴトと派手に振動する馬車の荷台は、すぐに意識を覚醒させてくれた。おかげで夢の内容が霧散せず、ハッキリと記憶に残ってしまっていた。

「どうした、珍しくうなされてたぜ?」

彼を隊商に誘った男――このキャラバンのリーダーだそうだ――が声を掛けてきた。

「ああ、最悪だ」

アベルは狭い荷台から出て、荒野に飛び降りる。

「お、おい!」

「仕事だ」

短くそう言い放つと、アベルは隊商の後方に向かって剣を構えた。魔獣の群れがすぐそこまで迫っていた。

「―了―」