07ジェッド1

3390 【母】

ジェッドは床に座り、横たわった母親の顔をみつめていた。血が床に染み入っていく。黒い血溜まりに映る顔の口元には、安堵の笑顔があった。

「早くするんだよ!うすのろ!」

母親の怒号にびくっとジェッドは体を震わせた。水を汲みに井戸へ行く。季節は冬だ。

昨晩のうちに汲んでおくべきだったと、ジェッドの母親は七歳の彼をひどく殴りつけた。

腫れた頭の傷の痛みは、外の寒さにさらされると少し和らいだような気がした。

一週間以上何も食べ物を口にしていなかった。ふらふらと街の水汲み場へと進む。

冬の明け方、水汲み場には誰もいなかった。目が霞んで立っていられなくなったジェッドは、水を入れた桶を置いて地べたに座り込んだ。運ぶ気力は残っていなかった。

気が遠くなった。

ジェッドは人の気配で目が覚めた。霞む目に映ったのは、亡霊のような老女だった。

「宿業だよ」

その老女はそう言いながらジェッドの額に人差し指をあてた。もし気力が残っていれば気味の悪い老女の指を払いのけていた筈だが、今のジェッドにはこの老女が本当にこの場所にいるのか、自分がどこにいるのか、夢なのか現実なのかもわからなかった。

そしてもう一度眼をつぶった。

眼を開けると、周りには誰もいなかった。ゆっくりと立ち上がって、水を入れた桶を引き摺るようにして家へと戻っていった。

力を絞り、意識を失いかけながら、倒れるように家の扉に寄り掛かって部屋に入った。

そこに母親が立っていた。水を差し出そうとしたジェッドの手から桶をひったくり、彼女はジェッドを蹴り倒した。

小さな体は力なく扉に打ち付けられる。

「遅いんだよ。ほんとうにこの役立たずののろまが!お前みたいな役立たずにあげる飯はないからね!」

口汚い罵りを受けたジェッドは、立ち上がりながら声を発した。

「ごめんなさい、おかあさん……」

顔を上げることができなかった。怒る母親の顔をどうしても見られなかった。

「なにがごめんなさいだ。ほんとに悪いと思ったら態度でしめすんだよ!」

母親は扉を開け、ジェッドの腕をつかんで外へと放り出した。

「そこで反省しな!」

そう吐き捨てられた言葉が終わると同時に、扉は閉まった。

冷たい地面に打ち付けられた顔を、ジェッドはゆっくりと上げた。寒くてたまらなかった。

扉に向かって這っていき、ノブに手を掛けて体を押しつけるが、扉は開かなかった。二度三度、と試したところで力尽きて、ジェッドは座り込んだ。

手と体の震えが止まらなくなっていた。膝を抱えて頭をさげた。

ジェッドはこんな時にいつもするように、昔を思い出していた。まだとうさんがいて、かあさんがこうなる前の。

その思い出の中で、ジェッドは二人の手に引かれて市場を歩いていた。もう父親の顔は思い出せなくなっていた。

ただ、その大きな手の感触だけは思い出すことができた。市場を飾る色とりどりの果物がとても鮮やかに感じられた。

思い出の中のとうさんは自分を抱きかかえてくれて、好きな果物を取るように仕向けてくれた。

ジェッドは大好きな赤い小さな桃を一つ選び、その手でつかんだ。かあさんととうさんが笑っている。

ジェッドは急に暖かさを感じ、そのまま横になった。

しばらくして冷たい雨が降ってきた。廃墟が連なるこのスラムに人通りはまばらだった。軒先で死んだ少年に気付く人はいなかった。

ジェッドは目を覚ました。部屋は暗く、まだ夜中のようだった。空腹感で目が冴えた。しかし奇妙な感覚が残っていた。

今の今まで冷たい外で眠っていたかのような感覚が身体に感じられたのだった。そして猛烈な徒労感があった。

はじめは頭の傷の痛みかと思ったが、そうではなかった。とてもジェッドには夢だと感じられなかった。それぐらい、夢は現在の間隔と地続きだった。

奇妙な感覚が残ったままだったが、起き上がって食べ物を探すために部屋をふらつきながら歩いた。ふと空の桶に躓いた。

水を汲まないと。とジェッドは思い出し、母親を起こさないように桶を掴んで扉へ向かった。

しかし徒労感から真っ直ぐ歩くことができず、ジェッドは大きな音を立てて転んでしまう。その物音に母親が目を覚ました。

眠りを中断させられた怒りを全く隠さない母親が、ジェッドの傍にやってくる。

「なに騒いでいるんだ!また食べ物を盗もうとしていたね。汚い泥棒だ、こいつは」

母親は横になっているジェッドを踏みつけ、蹴り上げた。

「まったく、本当に役立たずの穀潰しめ」

意識が遠くなっていく。母親はジェッドを引き摺って扉へ向かう。ジェッドはまた、雪の降るスラムの路地に放り出された。

辺りに光はなかった。

ジェッドはベッドで目を覚ました。外はまだ暗い。今度は自分の夢の感覚にはっきりと気が付いていた。同じ夜だった。

ずっと繰り返されているのだった。また母親に痛めつけられると思うと涙が出てきた。暗い部屋に目をやると、あの桶が目に入る。

せめて水が汲まれていればと思い、痛む感覚の残った身体を引き摺って桶の傍までいく。

桶の中は空だった。

力が抜け、桶の傍に座った。

もう一度桶を覗く。空の桶を眺めていると、別の感情が沸き起こるのをジェッドは感じた。

怒りだった。

桶が空であることの怒り。水を汲まされることの怒り。母親の暴力への怒り。

自分の周りの出来事が、すべて連鎖的に爆発するように連なっていった。

動悸が激しくなり、徒労感が身体から抜けていく。

何かをしなければ収まらない気持ちで頭がいっぱいになった。

部屋の隅のベッドで眠る母親の傍に行く。

心臓の音が彼女に聞こえるのではないかとジェッドは思った。そして、起きた彼女に振るわれる暴力の味と冷たい地面の感触を想像した。想像の痛みは焦燥感に変わり、ジェッドを突き動かした。

机の上にあった酒瓶を手に取る。そして大きく振りかぶり、母親の頭へ振り下ろした。

鈍い音がして、奇妙な音を立てながら母親は息を吐いた。

再び振り下ろす。

夢中で何度も母親の頭の上に酒瓶を落とした。やがて母親の息は止まった。

ベッドの上に黒い血溜まりができていた。

朝、ジェッドは窓から差す光で目を覚ました。静かな朝だった。

痛みも徒労感も無かった。空腹すら感じていなかった。

長い夜は終わったようだった。

ジェッドは立ち上がり、戸棚からパンを取り出して、ひとり食事をとった。

そしてとりあえず必要なものを部屋からかき集め、袋に入れた。

一度だけベッドの黒い染みを確認したあと、少年は家を出た。

外の世界の光は眩しかったが、とても暖かく感じられた。

「―了―」