—- 【大樹】
アインはお気に入りの大樹に登っていた。手から伝わる大樹の感触や森の匂いを、とても愛おしく感じていた。
いつも座っていた枝に辿り着き、森の風景を眺めた。木々の葉を通した光りが、辺りを優しく照らしている。
旅立ちの前にこの風景を心にとどめようと、アインは思っていた。
雲はいつもと同じように青い空を流れ、森の空気は変わらずに澄んでいた。
時がまるで流れていないかのように感じられた。
「アイン、ここにいたの!」
大樹を勢いよく登りながら息を弾ませて、スプラートが声を掛けてきた。
幼いスプラートはアインの膝元に飛びかかるようにして抱きついた。
「本当にいっちゃうの?」
「うん」
「いやだよ。いかないで」
スプラートの声は涙声になっていた。
「ごめんね。でも誰かが行かないといけないの」
「アインじゃなきゃだめなの?」
旅立てる熟練の戦士は森の中にもういなかなった。殆どが『黒い夜』の戦いで死ぬか深い傷を負っていた。
残ったのは見習いの戦士、若い未熟な者ばかりだった。
その中でもアインは決して優れた戦士ではなかった。だが、森の大母は宝珠を探し出す任務にアインを指名した。
「わたしが行くの。もう決めたの」
辞退することもできた。しかし、アインは選ばれた時にとても誇らしく、嬉しかった。
ある部族の若い戦士には「おまえなんかが選ばれるなんて」と面と向かって言われた。
また友達には「嫌だったら、断ればいいんだよ」とも言われた。
だが、アインはそんな言葉を聞いてもまったく感情が動かされなかった。
自分が行くことは、まるで、ずっと前から決まっているかのように感じていたからだった。
スプラートの髪をアインは優しく撫でた。
「夢はまだ見る?」
スプラートは黒い夜の直後から妖蛆の夢をよく見ていた。感の強い子だった。
「平気。もう怖くない。アインが戻ってこない方が怖い」
「大丈夫よ」
優しい匂いのするスプラートの髪を、アインは優しく撫でた。
「黒いゴンドラ乗りたちの居場所はわかったの?」
「大叔母様たちが見つけてくださったの」
黒い夜の侵略者達は、彼らが乗ってきた黒く光る船と姿から『黒いゴンドラ乗り』と呼ばれていた。
彼らは森に突然現れ、一晩で森の戦士達を倒し、宝珠を奪っていった。その夜は『黒い夜』と名付けられた。
「そこは遠い、私たちと異なる世界なんだって」
「あいつらがいっぱいいるんでしょ? 怖いよ」
「大叔母様たち皆が力を貸してくれるのよ。心配ないよ」
スプラートはアインの膝元に顔を押しつけて押し黙っている。
「スプラート。お母様や、お父様をよろしくね」
「うん」
小さく彼女はうなずいた。
しばらくじっとしていると、幼い彼女は寝息を立てて眠り始めた。
◆
帰ってこられるかどうかは、わからなかった。
しかし、地下に巣くう妖蛆がこの森を見つけるまでに、『黒いゴンドラ乗り』達に奪われた宝珠を、どんな形であれ取り戻さないといけない。
まだ十年も生きていない幼いスプラートの人生や、この美しい森を失う訳にはいかない。アインは強くそう思った。
「う、うーん」
スプラートが小さな呻き声を上げた。また妖蛆の夢にうなされていなければいいのだが。
アインは、光の無い地下を蠢きながら、森の匂いを求めて彷徨う巨大な妖蛆を想像するだけで、身震いした。
一度だけ、その影をアインは見たことがあった。
宝珠の森の外縁から地平線近くに立ち上る土煙、その中から浮かび上がる白くうねった巨大な蛆が、木々をゆっくりと飲み込んでいった。
誰も妖蛆を殺すことはできない、と大叔母様達は言う。ある古い物語では、太古の魔法使いが自身を巨大な蛆に変え、復讐の旅に出たきり我を忘れて生き続けている、と語られている。そして、宝珠の力がなければ妖蛆は易々とこの森を飲み込むという。
本当のところは誰にもわからない。ただそこにある、としか言えない。でも理由はどうあれ、あいつはどこかにいて、この森を奪おうとしている。
◆
「スプラート、起きて」
「ううーん」
大きな伸びをしてスプラートは起きた。
「平気?」
「……うん、なんともないよ」
強がった様子は隠しきれていなかったが、そんな彼女の様子をアインは愛しく思った。
「そろそろ行かないと。儀式の準備があるの」
「わたしもついていっていい?」
「ごめんね。だれも一緒には行けないの」
「ここでお別れ?」
「うん。ごめんね」
「あやまらないで、アイン。 わたしアインのこと絶対にわすれない。必ず戻ってきて」
「大丈夫、またここで一緒にあそびましょう」
「うん、ずっとまってるよ」
涙を浮かべたスプラートを、アインは強く抱きしめた。
小さな身体から伝わる暖かさが、アインを不思議と勇気づけた。
そしてゆっくり身体を離すと、笑顔でスプラートと別れた。
途中何度振り返っても、スプラートはこちらに手を振っていた。
◆
森に夜が訪れ、木々の間に夜空の星々の光が見えていた。
森の中心にある神樹の周りには、十二人の大叔母達と大母が揃っていた。
大叔母達の手には神樹で作られた杖が握られ、一心不乱に文言を唱えていた。
太古の言葉で語られる呪文はアインにはわからなかった。しかし、呪文の力が音以外の何かを作りだしてこの空間を変化させ始めている、と感じていた。
呪文がやみ、空気の振動が止まると、今は盲となった大母が神樹の前に立った。手をかざして何かを念じ始めると、神樹が柔らかな光を発しはじめた。
その光は脈動しながらだんだんと強くなっていった。そして一際力強く大きな光を発すると、神樹の根本に大きな裂け目が開いた。
裂け目の向こうは光に満ちていて、眩しい程だった。
大叔母達に手を引かれ、アインは裂け目へと導かれていく。
別の世界に旅立つ時が来たのだ。
神樹はどの世界にも存在し、その実と花はどこにでも咲くという。その力を使って、失われた宝珠のある世界までアインは行くことになる。
一枚だけ纏っていた薄衣を脱ぎ、アインは光の中に入っていく。樹の中は暖かく光に満ちていたが、アインの心には静かな不安があった。
神樹はアインを飲み込むと、ゆっくりと裂け目を閉じていった。
裂け目が閉じると同時に、ふわりと身体が浮かび上がるようにアインは感じた。周りの光は初めと同じように脈動しながら、徐々に暗くなっていく。
アインはだんだんと眠たくなっていった。身体を丸めるとすこし安心できた。スプラートの笑顔や家族のこと、愛していた風景を思い出していた。
しかし、意識を失う直前に思い出したのは、黒い夜に出会った異世界の若者の姿だった。黒いゴンドラ乗りと呼ばれたその戦士、青年の顔を、アインははっきりと覚えていた。
◆
意識を失ったアインの身体を、神樹は養分として取り込みはじめた。別の世界に同じ形の実として生み出すために。
「―了―」