3378 【扉】
薄暮の時代の工学師《エンジニア》達が製造法と用途を確立したと言われているケイオシウム。
かつては様々な用途があったと過去の資料には記されているが、現在は兵器や動力源としての単純な用途が大半を占める。
協会《アカデミー》がそれ以外の用途を禁じている為だ。
渦《プロフォンド》の発生原因がケイオシウムの暴走であった為、無理もない事だった。
レジメントを編成して渦《プロフォンド》の除去を続けてはいるが、未だ道半ばであり、完了する目処は立っていないと聞く。
工学師なら誰でも知っている話であった。
パンデモニウムにおいても研究してはならぬ領域があり、マルグリッドもまた、それに従っていた。
もちろん、今まではそれでよかった。
しかし、このままでは失うしかない我が子の命を救える可能性があるとなれば、そんな掟に従っている訳にはいかなかった。
◆
彼女の背後で無邪気に笑っている赤子は、致命的な心疾患をもって生まれてきた。
今のエンジニアの医療技術では数年しか生きられない、と告げられていた。
旧時代では確立されていた医療技術も、漆黒の時代にあっては様々な欠落、散逸があるのだ。
マルグリッドは口惜しかった。
なぜ、生まれてきたばかりのこの子の命が失われなければならないのか。
この世界の可能性を広げるために、自分は研究に身を捧げてきた。
しかし、この自分の分身、そして未来であるこの子の可能性が、このままでは奪われてしまう。
マルグリッドにとって、それは絶対に認められないことだった。
◆
それから、マルグリッドは上級工学師《テクノクラート》以上のみが利用できる図書館へ通い、薄暮の時代の書物を片っ端から読み漁った。
我が子の治療法を探すためだった。それが無意味に近い事だとわかっていても、やらずにはいられなかったのだ。
結果の出ない日々が続き、マルグリッドの焦りは積もるばかりだった。
◆
パンデモニウムの研究室に篭もりきりの日々が続いた。我が子のための研究、それと平行して、自身の本来の仕事である渦の分析も続けていた。
特殊モニターには現在、レジメントの観測班によって補足された渦の状態がリアルタイムに表示されている。
渦の大きさや速度、ケイオシウム濃度などを元に、脅威度や存続時間を予想するのが彼女の仕事だった。
モニターに映る渦は様々な光彩を放ちながらゆっくりと回転している。厳密には渦ではなく異世界との結節点《ノード》なのだが、遠目にはやはり渦としか形容しようがなかった。
ケイオシウムが暴走した本当の理由は秘匿されている。
ただ、起きた事は工学師ならば誰でも知っている。渦は異界との扉となったのだ。
違う法則、違う歴史を経た別世界との穴が地上に現れてしまったのだ。
ある高名な工学師は言っていた。「ケイオシウムは元々確率からエネルギーを取り出す物質なのだから、他の平行世界の可能性というエネルギーがケイオシウムによって奪われたのであれば、その境目が失われるのは道理だ」と。
可能性の固まりとしてのケイオシウム。多重世界からエネルギーを奪うその仕組みは、夢のエネルギーから悪夢の厄災へと変わったのだった。
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マルグリッドは渦の分析の中から、レジメントの報告書に書かれていた奇妙な報告を思い出した。レジメントの中には、渦の周辺や内部で活動を繰り返す事で特殊な知覚力を身に付けた者がいるという。ケイオシウムの影響である事は想像に難くないが、パンデモニウムで日常的にケイオシウムに接している工学師が特殊な知覚力を身につけた、という話は聞いたことが無い。
ここにおいて、マルグリッドは自分の研究と我が子の治療との接点を見出した。研究を続けすぎて疲労した脳が作り出した錯覚かもしれないが、それは暗闇に差す一条の光のように感じられた。
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ケイオシウムを制御できる「暴走」状態にし、我が子をケイオシウムの影響下に置く。可能性の固まりであるケイオシウムが人体に与える影響を利用するのだ。
レジメントの兵士達は、過酷な異世界空間との狭間で戦い続けることによって、新しい知覚力を得たのであろうと仮定できた。生き続けるために。
その影響を人為的に作り出すことさえできれば、我が子もきっと助かる筈だ。
それがマルグリッドの出した答えだった。
◆
以降、マルグリッドはケイオシウムが直接人間に与える影響力について研究を続けた。
レジメントからの報告書を丹念に読み込み、薄暮の時代の書物から、ケイオシウムの人間に対する直接的影響について調べた。
◆
そんなある日、一人の男がマルグリッドの研究室を訪ねてきた。
「私は、いや我々はケイオシウムの可能性を諦めていない者です」
「事なかれ主義である協会の方針に従っていては何事も成せない。そうは思いませんかな」
自身も含め、公には禁止されている研究に勤しむ人間が少なからずいるらしいという事は、マルグリッドも知ってはいた。
とはいえ、それを自称する人間に会うのは初めての事だった。
「皆で研究データを共有できれば、少しでも早く目的に辿り着く可能性だってあるでしょう」
「どうです、あなたも我々の仲間に加わりませんか?」
自分一人ではどうにもならない所にいるのはわかっていた。ただがむしゃらに、我が子のために全てを擲って研究を続けていたのだ。
その研究に協力者が現れたのだ。マルグリッドは迷わず答えた。
「わかりました。よろしくお願いします」
マルグリッドが手を差し出すと、男もそれに応える。
「ありがとうございます。あなたならそう仰って頂けると信じておりました」
「そうですね。お近づきの印に、こちらをあなたにお預けします」
「我々がコデックスと呼んでいる文書の複製です」
「もしかしたら、あなたの行っている研究の助けになるかもしれません」
手渡された数枚の紙に視線を移すと、判読に苦労しそうな文字と図がびっしりと詰まっていた。
◆
研究の行き詰まりを感じていたマルグリッドは、手渡された文書の解読を試みた。
まるで足らないピースが埋まるかのように、その文書にはマルグリッドの求めていた装置へのヒントが詰め込まれていた。
「これで研究が一気に進むわ……」
それからマルグリッドは不眠不休で作業を続け、一気に装置の完成まで漕ぎ着けた。
◆
大部屋をまるまる占領した巨大な装置にケイオシウムを設置し、起動する。
巨大な筐体に負けじと巨大な駆動音を鳴らし続けるだけで、何の変化も起きなかった。
「失敗……みたいね」
マルグリッドは疲れがドッと出て脱力し、尻餅を付いた。
腰を上げ、装置を止めに移動しようとした時、変化が起きた。
装置のやや上方に黒い空間が発生し、渦を巻き始めた。渦は徐々に色付くと共に消えていく。
残ったものは、見たこともない生物達が闊歩する世界が映った空間。
それは、異世界の光景だった。
「―了―」