06クレーニヒ2

3394 【劇場にて】

「くそっ!」

クレーニヒは部屋のゴミ箱を力任せに蹴り飛ばした。

ゴミ箱は中のものを派手にぶちまけながら、ガランガランと盛大な音を立てて転がる。

今までの自分ではとても考えられない行動だった。

少しは怒りが収まるかと思ったのだが、効果は無かった。それどころか、床に散乱した破れた包装紙がクレーニヒの苛立ちを余計に増加させた。昨夜久々に帰宅した父親が土産として持ってきた本を包んでいたものだ。

自分の心と世界の変調に付いていけなくなっていた。何もかもがクレーニヒの心にさざ波を立てた。

微かな動作音と共にどこからともなく現れた掃除用自動機械が、散らかったゴミを片付けてゆく。クレーニヒの不始末を黙々と片付けるその姿に、また衝動が抑えられなくなった。今度は反対側の壁にゴミ箱を蹴り飛ばす。再び中のゴミが放り出されるが、自動機械は文句も言わずに掃除を再開する。

その様子を見届けぬまま、クレーニヒは部屋を飛び出した。

「導師イオースィフ、出発の準備ができました」

士官が折り目正しく敬礼しながら言った。

大きな荷物を持った細身の紳士がそれに応じる。髪に白いものが僅かに混じってはいるが、それ程の年齢ではない。着込んだコートの裾が強風にバタバタとはためいていた。

導都パンデモニウムが地上からどれだけの高度を維持しているかは判らないが、いかに優秀な障壁器といえども風を防ぐことはできない。いや、優秀だからこそ風を防がないと言うべきか。パンデモニウム外縁部のフライトデッキは、特に外気の影響を受けやすい位置にあった。

「しかしパンデモニウムに戻ったばかりなのに、ローゼンブルグへ再召集とは大変ですね」

「ああ、建造中のガレオンの不具合でな。まったく手の掛かる機械だよ」

「しかしあの浮遊戦艦が完成すれば、下の紛争もずいぶん様子が変わるんでしょうね」

「もちろん激変するだろうね。 これで下界の騒ぎもコントロールしやすくなるだろう」

飛行艇に乗り込み、出発の最終チェックをしている士官と会話を続けた。

「やはり下の世界は面倒ですか?」

「面倒とは思わないが、仕事なのでね。まあ環境はこことは違う。住んで心地のよいものではないよ」

「私は下の世界で暮らしたことが無いのですよ。 憧れます」

「埃っぽく、汚い世界だよ。 私はここのほうがいい」

士官が操縦室との無線で会話を始めると、窓を見ながらイオースィフは、息子のクレーニヒとの昨夜の会話を思い出していた。奇妙な幻覚に悩まされていると打ち明けてきたのは昨晩のことだった。母親のこともあり不安だったが、医師の元へ行ってみるように薦めたところで、ローゼンブルグからの緊急連絡が届き、結局話はうやむやのままになってしまった。朝も顔を合わせずに出てきてしまったのだ。もう少し詳しく話を聞けばよかったのだろうが、と思い返していた。

士官は無線での会話を終わらせて、イオースィフに声を掛けた。

「出発準備が整いました。出ます。ベルトをお願いします」

「あ、ああ……」

イオースィフはベルトを締めた後、振動し始めた翼を窓から眺めた。

「昔世話になった精神科医を知っているから、ここを訪ねてみてはどうだろう」

そう言って、イオースィフは一枚の名刺を差し出した。

違うんだ父さん、そういうものじゃなくて、と反論しようとした途端、クレーニヒの声を遮るように父親の端末が緊急連絡を告げた。そこからはクレーニヒの話を聞くどころではなかった。途中だった食事も放り出して書斎に行ったきり、父はクレーニヒの前に顔を出すことはなかった。

朝、テーブルの上には「仕事ですぐに下に戻ることになった。あとで連絡を入れる」とだけ書かれたメモが置かれており、父の姿はすでになかった。

自分の父親への僅かな期待は、ここで打ち壊された。

クレーニヒを悩ませ続けている幻覚。その事に関して上級工学師である父に相談すれば何か解決の方法が掴めるのではないか。タイミングよく長期の仕事から帰宅した父親に、思い切って相談を持ちかけたのが昨夜のことだ。

ここ数年、父親とはまともに会話をした記憶がなかった。一緒にいるだけでも緊張し、何を喋っていいのかわからなくなる。クレーニヒは部屋を飛び出し、あてもなく街を彷徨っていた。

父親の言う精神科の医師を訪ねてみようか。そんな考えもちらりと頭をかすめるが、軽く頭を振ってすぐに否定する。

ふと足を止めると、すぐ目の前には劇場があった。

悪夢や幻覚に悩まされると、クレーニヒはよくこの劇場に足を運んだ。映画や芝居自体にはあまり興味はなかったが、虚構の上に成り立っている物語を見ていると、どこか安らぎのようなものが感じられた。

幻覚に取り込まれ、現実が消えてしまいそうな恐怖。そんなものを体験したあとでは、元々存在しない筈の物語の世界の方が、よほど強固なものとして感じられたのだ。今では劇場という空間は、クレーニヒにとって現実回帰への一つの道標になっていた。

意識するまでもなく、彼は劇場へと足を踏み入れていた。

劇場内に客はクレーニヒ一人きりだった。

時間的に芝居は行われていなかったため、映画が上映されているホールに入り、適当な座席に腰を落ち着ける。

上映されている映画のタイトルすら見ていなかったクレーニヒは、ぼんやりとスクリーンを眺めていた。

不意に気配を感じた――。

急激に感覚という感覚が曖昧になり、世界から現実感が失われる。

「逃れられないのか……」

クレーニヒにとって、この劇場は唯一安らげる場所だった。

安らげる場所の筈だった。

スクリーンの世界が歪み、現実が曖昧になる。

どこが現実でどこが幻覚か。

どれが虚構でどれが真実なのか。

物事の輪郭線は失われ、すべての色が滲み始める。

そして、そいつが姿を現した。

そいつをクレーニヒは幻獣と呼んでいた。

あの日、上級工学師の図書館で初めて出会った異形の化け物。

そいつはのっぺりとした顔の中心部に生気のない三対の目を有し、ゾロリと牙の生え揃った巨大な口を歪めるように動かしていた。

両生類に近いシルエットだが、どの生物とも異なる姿。まさしくこの世ならざる獣、幻獣と呼ぶに相応しい姿だった。

幻獣はあれからも度々クレーニヒの前に姿を現した。

しかし、その外見に反して、そいつはクレーニヒに襲い掛かってくるようなことはなく、ただじっと彼を凝視するだけだった。

「どうしたら消えてくれる?」

幻獣の方を見ようともせず、曖昧な世界の中で、それでもクレーニヒはスクリーンを、虚構の世界を見つめ続けた。その場所こそが憧れ続けた理想郷なのだとでも言うように。

「消えてくれだって? いて欲しいと言ったのはオマエだろう?」

クレーニヒは戦慄した。

幻獣が意思を持ち、あまつさえ会話が成立するなどと思っていなかったのだ。

「誰にも相手にされない。 必要とされてない。 だからいてくれって思ったんだろう」

「違う! なんの話をしているんだ!」

反射的に叫んでしまう。だが、

「そう苛つくなよ」

幻獣は禍々しい三対の目を一斉に細める。どうやら嗤ったようだった。

現実は歪んだままだった。虚構はこの世に染み出し続けていた。虚と実が混ざり合う世界で、幻獣は思いもよらない提案をクレーニヒに持ちかけた。

「どうだ、この世界をオマエの望む世界に創り変えてみないか?」

「―了―」