17スプラート1

—- 【昏い穴】

アインを送り出した後、妖蛆の働きが段々と活発になっていった。

地鳴りや大空を揺るがす奇妙な咆吼が、しばしば聞こえるようになっていた。

その度に森は揺れ、鳥や小さな動物達がざわめいた。それを聞くスプラートの心に、どんどんと不安が広がっていった。

やがて、妖蛆らしきものを森の端で見た、と言う者が出てきた。

それが本当に妖蛆なのかはわからなかったが、もしそうならば、この森が彼らの餌食になるのにそう時間は掛からない筈だった。

そんな中、『黒い夜』で受けた傷が癒えきらぬ戦士と若い戦士の一部が大母の反対を押し切り、妖蛆が現れたという場所へ向かおうとしていた。

「馬鹿な真似はよさぬか。 妖蛆は人が敵《かな》う相手ではない。 余計な刺激をせぬことじゃ」

大母はゆっくりと諭すように語った。

「だからといって、座して死を待つのですか?」

大母を囲んだ戦士達の中で、リーダー格の男が言う。

「お前は嵐が来るのを止められるのか? 雷に撃たれて耐えられるのか? 今は待つのじゃ。静かにな」

「俺達はただ死ぬのはごめんなんだ。 誇りある戦士として死にたい」

『黒い夜』に敗れた戦士達の表情には、悲壮な決意があった。

「今は待て」

「わかりました。 もう、大母様にお伺いは立てません」

大母の決定は絶対の筈だったが、戦士達が囚われている焦燥を留めることはできなかった。

スプラートは戦士達の後を追った。自分もただ待つことには耐えられなかった。何より自分の中にある、あの大きな不安の根源をこの目で見てみたかったのだ。

距離を置いてこっそりと尾けていたつもりだったが、戦士達に隠し通せる筈がなかった。

「おい、こそこそと何をしている」

突然背後から声を掛けられ、飛び上がりそうになる。『黒い夜』で怪我を負った戦士の一人だった。

「何のつもりか知らないが、俺達が行こうとしている場所は子供の遊び場じゃない。早く帰りな」

「何も邪魔をしないよ。 ただ見たいの。 怪物を」

スプラートは正直に望みを口にした。

「やれやれ。 そのうち飽きて帰ると思って、放っておいたのが失敗だったか」

怪我を負った戦士は、頭を掻きながらスプラートの処遇を思案した。

「おーい、イセン! スウェルト!」

大きな声で二つの名前を呼んだ。呼ばれた二人がすぐさまスプラートの前に現れる。若い戦士だった。

「この嬢ちゃんを村まで送れ」

若い戦士達は露骨に嫌な顔をした。スプラートはその中の一人に見覚えがあった。

「これは命令だ。わかったら早く行け」

「ですが、妖蛆は」

「あんなもの、俺達だけで充分さ」

妖蛆討伐へ向かう戦士達の背中を見届けると、若い戦士は渋々と体の向きを村のある方角へ変え、スプラートを睨みつける。

「お前……いつもアインにくっついていた奴か。お前等には邪魔されてばかりだ」

三人の獣人が並んで森の中を歩く。『黒い夜』や妖蛆の事がなければ、遊び回っている筈の年頃だった。

「みんな大丈夫かな。もし本当に大母様の言うように傷も付けられないような化け物だったら……」

その呟きに答える者はいなかった。

スプラート達が村へ戻ってから三日目の朝、一人の戦士が戻ってきた。

眼の光は失われ、他の獣人達に状況を聞かれても震えているだけで、何らかの情報さえも得られる状態ではなかった。だが、戦士達がどうなったのかを知るには、それで充分だった。

戻ってきた戦士はその一人だけだった。

ある日の夕方、大きな地響きが森を襲った。今までにない強さだった。森の端の集落近くに、人がちょうど入れるぐらいの穴が開いた。それから奇怪な光景が始まった。無数の大小の蛆がうねりながら、そして地上に吹き上がるように出現した。いよいよ妖蛆の姿が森の民の前に現れたのだった。

妖蛆にとって森は餌にしか過ぎない。森の小鳥が木の実を啄むように、人が動物を食すように、妖蛆は森にある全てを食い尽くす。

森の端に現れたそれは、あっという間にその地を大きな昏い『穴』に変えた。

妖蛆は夜になると、そっと昏い穴へと戻っていった。

その穴を見た森の住人達は恐怖した。何処までも続く昏い『穴』に、自分達の未来が飲み込まれる事を知ったのだった。

大母と大叔母達は昼夜を問わずに祈祷を続けた。それが彼らのできる最後の手段とも言えた。しかし、妖蛆によって集落が飲み込まれたことを知ると、大母達は祈祷をやめた。

新たな決断が必要だった。

「ここから、別の森に移る」

大母は夜に皆を集めて言った。それは無謀な賭けだった。宝珠の加護無しで荒野を移動するには、他の森は遠すぎる。しかし、大母の決断に皆が頷いた。まずはあの妖蛆から逃げなければならない。部族が消えるか、あるいは妖蛆の活動が止まるその日まで。

明後日の夜に出発することに決まった。

襲われた集落の反対方角から村を出て、できるだけ近い森を目指す、とだけ伝えられた。

大母の言葉が伝えられた夜の集会で、スプラートはアインや自分の親達の顔を見た。彼らは不安を押し隠して、スプラートに笑顔で話し掛けてくれた。

「心配ない」

「きっと大丈夫さ」

そんな言葉が嘘なのはわかっていた。

スプラートの不安は全て現実になっていた。

いま立っている世界が無くなる恐怖、どこにも逃げ出すことができない無力さに、全ての大人達が囚われていた。

集会が終わって皆が寝静まった頃、スプラートは家を抜け出して『穴』が現れた集落跡に向かった。

どうしても自分の不安をその目で確かめたかったのだ。幼い心ながら、例え自分の存在がこの世界から消えるとしても、その理由を知りたかったのだ。

随分と歩いたが、子供の足では森の端に届くことができなかった。

ついに朝になってしまったが、スプラートは歩き続けた。しばらくすると疲れて、木陰で休むことにした。人影の無い森には、昔と変わらない静けさがあった。

木の根元に座り、頭を抱えるように目を瞑った。すぐに眠りに落ちた。

夢の中でスプラートはアインを見た。優しかったお姉ちゃんの姿。どこかの森を歩いているようだった。

アインがこの世界を離れた後、彼女を引き留められなかった事を悔やみ、悲しんでいた時もあった。今は違う。アインがこの世界にいないことが嬉しかった。彼女だけは助かったのだから。

「―了―」