3394 【初陣】
「また敗北か……」
会議室に大きな溜息が漏れた。居並ぶ武官達は所在なさげに目を伏せ、文官達は忌々しげに報告書を机に置いた。
ルビオナ連合王国との戦争が始まって二年目の年。これまで連戦連勝だった帝國の勢いが、ここに来て翳り始めていた。王国随一の堅牢さを誇るトレイド永久要塞の戦いにおいて第三軍の半分を失うという大敗を喫し、名のある将官を数人も失ったのだ。王国装甲猟兵の勝ち鬨がこだまする中、帝國軍は無様に敗走した。
その後、帝國は幾度となくトレイド永久要塞に攻め寄せた。だが、この堅牢な要塞を破ることができず、逆に敵の猟兵に駆り立てられて犠牲を増やすばかりであった。連勝時には温和しかった文官達も、連敗を喫したことにより、声高に停戦を主張し始めた。その急先鋒が、帝國切っての策謀家と言われるカンドゥン長官だった。
「今ならばまだ、こちらが有利な条件で和睦できるだろう。この先も敗戦を続ければ、それだけ相手に足下を見られることになる」
「そうだ! 民は疲弊している。これ以上無益な戦争は止めるべきだ」
カンドゥン長官が述べたのに続いて統制派が声を上げた。それに対して武官達が反対意見を述べるが、自分達が敗れた、という引け目からか、その声は統制派のものよりも小さくなっていた。室内が統制派の声で溢れようとした時、突如、野太い声が響いた。
「何を言うか。ここでやめては帝國の威光、いや、皇帝陛下の御威光に傷が付く。一度や二度の敗戦で引き下がるなど、あり得ぬ」
うるさかった会議室が一瞬で静まった。立ち上がった人物を見て、カンドゥン長官は舌打ちをした。声を発したのはシドール将軍。帝國随一の武闘派で、今回のトレイド永久要塞の戦いにおいて総指揮を執っている人物である。
「シドール将軍、あなたはそう仰るが、現にこの東部戦線は負け続きではないか。王国軍相手に敗北を喫することこそ、陛下の御威光に傷を付けることになるのでは?」
言い募るカンドゥン長官に、シドール将軍は眉を顰めた。
「百戦して百勝できる。などと言うのは、戦場に出ない者の理屈だ。高々数度負けた程度で膝を屈すれば、今後諸国が帝國に対してどのような態度を取るか、わかりきっておるだろう」
「ならば、将軍にはトレイド永久要塞を落とせる見込みがあるというのか。幾度やっても落とせぬあの砦を」
「ガレオンを使えば、あんな砦など落とすのは容易いことだ」
「ガレオン? 動くことすらままならない、前世紀の遺物となったあの船か? シドール将軍も冗談がお上手になられた」
カンドゥン長官が声高に笑い、周りの文官達もそれに追従するように笑い声を上げた。しかし、シドール将軍の表情には余裕が窺えた。
「ガレオンはすでに実戦投入できる段階にある。次の戦いでは、ガレオンを核とした新たな部隊が戦果を上げるであろう」
それを聞いたカンドゥン長官の顔に驚きの表情が浮かんだ。
「なっ!? そんな勝手なことが許されるとでも……」
「すでに陛下のご内意も頂いている。まずはトレイド永久要塞ではなく、ノーザン川の渡河作戦に投入する予定だ」
「ば、馬鹿な……陛下の……」
呆然とするカンドゥン長官を尻目に、シドール将軍は重々しく閉会を告げた。
◆
閉会後騒がしくなった会議室の外に、物憂げな表情を浮かべた一人の女性が壁に寄りかかっていた。腰まで伸びた長い髪に人差し指をくるくると絡めている。その姿はまるで恋人を待っている少女のようで、無骨な石造りの前線基地には全く不似合いだった。
やがて、会議室から出てきたシドール将軍が彼女に近付き、声を掛けた。
「待たせたな、ベリンダ。思ったよりも雑音がうるさくてな」
「いいえ。そんなに待っていませんわ」
ベリンダと呼ばれたその女性は穏やかな笑みを浮かべた。
「それで、皆さんは私のことをお認めになりましたの?」
「認めるも何もない。陛下のご内意を頂いている、と言えば、それに逆らう者などおりはせん」
それを聞いたベリンダは、玩具を買ってもらった子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「では、私は無事に戦場へ出られるのですね」
「無論だ」
「ありがとうございます、シドール将軍」
「礼など必要無い。必要なのは戦での勝利。ただそれだけだ」
「わかっておりますわ。あのガレオンと私の力を、まずは初陣でとくとご覧に入れます」
「期待しているぞ、ベリンダ将軍」
シドール将軍はそう言うと、ベリンダに背を向けて歩き出した。
ベリンダ。そのたおやかな外見とは裏腹に、帝國軍の新設部隊であるガレオン急襲部隊の指揮官を務める将軍である。
去っていくシドール将軍の背に一礼すると、ベリンダは反対の方向に歩き出した。
「戦場、音高く響く剣戟、そして血と埃の臭い。ああ……」
笑みを浮かべたベリンダの美しい唇から漏れ出たその呟きは、誰の耳に届くこともなく灰色の石壁に吸い込まれていった。
◆
一週間後。今日はガレオン急襲部隊の初陣の日だ。ベリンダはノーザン川の上空に浮かぶガレオンの甲板に出て、軍の指揮を執っていた。
舞台はトレイド永久要塞と並んで苦戦を強いられてきた渡河作戦。しかし、その戦闘は誰もが予想していなかった一方的なものとなった。
ゴォォォン
ガレオンの砲台から轟音が響く度、地上に爆発が生まれ、王国軍の兵士が吹き飛んだ。そこに帝國軍が突進して残った王国軍兵士を打ち倒した。空中を進むガレオンの下、王国軍は為す術もなく敗走した。
「そうそう、このままゆっくりと前進しなさい。敵の軍勢を擂り潰すのです。一粒たりとも残さないように」
ベリンダの美しい声が戦場に響くと、帝國兵がそれに応えて吠えた。戦闘開始から僅かに一時間程度。これまで苦戦していたのが嘘のような快勝であった。
その様子を見ていたベリンダの顔は穏やかで、笑みが浮かんでいた。一見すると戦闘の勝利を喜んでいるようだが、彼女の呟きを聞いた者がいたとしたら、何事かと眉を顰めただろう。
「……ああ、私は今、無数の死に囲まれている。死がこんなにも心地良いなんて。もっと、もっと私に死をちょうだい。あなた達の死を!」
ベリンダは両手を広げ、水浴びをするかのような姿で天を仰いだ。そのガラス玉のように輝く目に、微かに狂気の色が浮かんでいた。
ウォォォォォ
敗戦続きで小さくなっていた拡大派の声も、ベリンダの勝利によって再び力を取り戻した。美しい英雄の誕生も後押しし、帝國内の世論は再び戦争推進へと傾き始めていた。
一方、苦汁を飲まされる格好となったのがカンドゥン長官率いる統制派だった。一度は和平に傾きかけた流れを覆され、彼らは小さくなっているしかなかった。
◆
凱旋を飾ったシドール将軍とベリンダは、戦勝報告を終えて宮殿のバルコニーに立っていた。
「よくやってくれたな。ベリンダ」
「いいえ。これもガレオンの力のおかげですわ」
シドール将軍は酒杯を片手に機嫌良く笑う。
「次はいよいよトレイド永久要塞の攻略だ。ここを落とせば、敵は一気に崩れるだろう」
「心得ております」
「頼んだぞ」
「はい」
小さく応えたベリンダの長い髪を、冬の訪れを感じさせる風が静かに揺らした。その瞳には、戦場で見られた狂気の色は浮かんでいなかった。
「―了―」