3393 【陽炎】
ダービッド一家に対してたった一人で報復を果たしたジェッドは、スラム街で俄に注目される存在となっていた。
他の勢力が頭領達とダービッド一家の縄張りを手に入れるには、ジェッドは適役だった。
「最近調子がいいボウズってのは、お前さんか?」
その日もジェッドの元を訪れるゴロツキの姿があった。
「腕は良いと聞いていたが、腕っ節まであるとは知らなかった」
あれ以来、相手は変われど幾度も繰り返された内容の会話。
「どうだ、うちらの傘下に入るつもりはねぇか」
「……いやだね」
無気力な、虚空を見つめるような表情のまま、呟くようにジェッドは答えた。
袖にされ、相手から笑顔が消える。手元に置けないとなれば、下手に実力も知名度もあるジェッドは邪魔な存在でしかない。
「人が下手に出てりゃいい気になりやがって。 少し痛い目にあわなきゃ、現状が理解できねぇようだな」
ジェッドの心は黒い虚しさでいっぱいだった。この現実世界の醜さや残酷さに対して、感情がうまく働かなくなっていた。
◆
ただ独りでいたいだけだった。それなのに多くの者が訪れ、誘いを断ると少なからぬ数が剣を向けてきた。だがジェッドが負けることはなかった。盗賊集団や傭兵団、様々な人々の誘いを受け、そして断り続けた。
その事はダービッド一家への報復以上に、ジェッドの存在感を大きくしていった。
◆
いつしか、その事にあやかろうとした者達がジェッドの傍に集まり始めた。
ジェッドを誘い、断られ、力でねじ伏せようとするも返り討ちにあったゴロツキ達に虐げられてきていた者達だ。
力はあれど、それを利用して他者を支配しようとしないジェッドは、そんな弱き者達の拠り所となり始めた。
中には勝手に「ジェッド一家」を名乗る者、ジェッドを「スラムの王」と呼び、崇め始める者まで現れていた。周囲にいる人数は以前とは比べものにならないほど増えていた。
ジェッドは「王」と呼んでくる者達を、その冷たくぼやけた視線で見つめるだけだった。
◆
音の無い世界。そこが夢の中であるとジェッドは気付いていた。
夢の中でジェッドは戦場の真っ只中にいた。二つの勢力が争っている戦場だ。
片方は同じような服装と武器を携えた正規軍らしき勢力。もう一つの勢力はバラバラの服装と武器を携えた非正規軍らしき勢力。
戦況はほぼ互角に見えるが、士気と数が上回っているのは後者のようだった。
両軍の兵士、剣、銃弾はジェッドの体をすり抜け、誰もジェッドの存在に気付かない。
両軍とも旗を掲げていた。どちらも長く使われているようで、薄汚れた旗だった。その旗にはどこか見覚えがあったが、思い出すことはできなかった。
逃げ遅れた兵士を間近で見ることもできた。傷の痛みに苦悶の表情を浮かべる兵士達の姿を横目に、気の赴くまま歩き続ける。
「…………つ………」
音が無いと思っていた世界で聴こえた最初の音。今にも消え入りそうな何かの声だ。
耳を澄まし、声の方向を探る。
「や…………け……」
やはり聞こえる。空耳ではないようだった。
(こっちか)
声を出したつもりが、そうはならなかった。ジェッド自身の音さえ消してしまうようだ。
自身の独り言が驚くほど頭の中で響く。
声のした方向に向かって歩き続ける。
「見つ……わ」
ややはっきりと声が聞こえだした。声の主の姿は依然見えないままだった。
ジェッドの周囲では依然、音の無い争いが続いているが、今はそれはどうでもよかった。声の主だけが気になっていた。
方向を変えずに歩き続ける。ジェッドが土を踏む音と謎の声だけが、その世界にある音だった。
そこには何かがいた。陽炎のようなものが漂っており、ジェッドにゆっくりと近づいてきた。
「…々の探……………た」
声の主は女のようだった。
「スー…………ト……………者」
目を凝らすと、声の主である陽炎はヒト型のようでもあった。
「こん………ろに…………た…ね」
ゆっくりと、それはジェッドの元へ近付いてきた。ただ、距離が詰まっても、それの発する言葉が鮮明になる事はなかった。
聞きとる事のできないまま音量があがり、陽炎が広がってジェッドを包み込む。
激しい耳鳴りに襲われ頭を押さえるが、何の役にも立たない。
それは次第に頭の割れるような頭痛へと変わっていった。
◆
「……!」
跳ね上がるように起きて辺りを見渡す。居場所は紛れも無い自宅のベッドの上。もう夢の中ではなかった。
しかし、奇妙な感覚がジェッドには残っていた。現実の生々しさとは違う、別の感覚だった。
いま自分が生きている現実の方がずっと夢のように感じる。そんな気分にジェッドはしばらくなっていた。
ジェッドの目の淀みには、かすかな光が差していた。
「―了―」