3393 【故郷】
ブレイズはベッドに横たわる男に向かって、抑揚の無い声で言った。
「お久しぶりです、ヤントさん」
みすぼらしい安宿の部屋には、ブレイズと男の二人しかいない。
ヤントと呼ばれた男は、ゆっくりと声のした方向に顔を動かす。
「ブレイズか……。生きていたのか」
土気色の顔と掠れきったその声は、男の健康状態が芳しくないと判断するのに充分なものだった。
「同窓会の誘いというなら、悪いが断るよ。ご覧の通り自由に動き回れる状態じゃないんでね」
「……」
男の軽口にブレイズは何も答えない。代わりに腰の剣に手を伸ばす。
「お前は昔から冗談の通じない奴だったな。その出で立ち……私も知らない訳ではない」
溜息をつきながら、男はゆっくりと起きあがる。
「場所を変えないか。部屋を汚してしまっては、宿の主人に申し訳ないんでね」
鞄を一つ取り、のろのろと支度を終える。
「ついてきな」
男の歩みは老人のように遅かった。これから起こる事を少しでも先延ばしにしようとしているかにも感じられた。
しかし、逃げ出そうという気配や殺気は感じられない。その場で切り捨てる事もできたが、無用な騒ぎを起こす事はブレイズとて本意ではない。レジメントでは先輩だった男への敬意もあった。ブレイズは黙って男の後ろを歩いた。
宿を出て、市街地を離れ、城壁を越え、辿り着いた先は人気の無い河原だった。陽は既に傾き始めていた。
「ここらでいいだろう」
男は持っていた鞄を開くと、セプターを取り出した。俄にブレイズの緊張が高まるが、それは杞憂だった。
「私のセプターだ。素人に使われても困るからな。そっちで処理しておいてくれ」
ひょい、とブレイズの元へ放り投げると、川べりに座り込んだ。
「私で何人目だ?」
審問官としての、そして裏切り者としての責を問いているのであろうか。
ブレイズは押し黙る。
「前にお前以外の審問官と会ったことがある。同じレジメント出身でね」
男は瞑目している。
「お前が一人目ではないってことだ」
ブレイズの表情が一瞬曇る。
「ブレイズ、覚悟と準備はしておくといい」
エンジニア達が信用しきれない事などわかっている。ただ、メリアの命を繋ぐ為に、他の選択肢が無かったというだけだ。
「他に何か言い残す言葉は?」
「無いね」
剣が振り下ろされ、男の頭部とそれ以外が切り離される。頭部は川の中へ飛び込むように入っていき、やや遅れて、バランスを失ったそれ以外の肉体も川の中へ倒れこむ。それらが川の色を変化させていく。
「覚悟と準備、か」
今なおメリアの命が握られた状態で何ができるというのか。ブレイズは陰鬱な気持ちで帰路に就いた。
◆
「本当!?」
明るく弾んだ少女の声が病室に響く。ついにメリアの一時退院が決まったのだ。
「ええ。ただし一泊だけですよ。それと何か異常があった場合はすぐに戻ってくる事。いいですね?」
無邪気に喜ぶメリアの姿を、ブレイズは素直に喜んだ。
◆
一時退院日当日、ブレイズはクリッパーとも呼ばれている小型の飛行艇を起動させ、メリアの待つ病院へ向かった。
任務以外での使用は原則禁止とされているが、パンデモニウム周辺を少しばかり飛び回るだけだ。大きな問題にはならないだろう。
ここパンデモニウムが宙に浮く都市であるという事を口頭では説明していたが、病院に籠もりきりだったため、今までは見る機会がなかった。
都市の端や展望台から見るだけでは面白さに欠ける。そう考えたブレイズは、飛行艇を使った遊覧飛行を思いついたのだ。
快復傾向にあるとはいえ、次がいつになるかはわからない。メリアにはできる限りの事をしてやりたかった。
飛行艇で出迎えに来たブレイズに、メリアだけでなく医師達も驚かされていた。
「我々は何も見なかった事にしますが、くれぐれも無茶はなさらぬように」
「承知しています」
医師達に別れを告げると、ブレイズはメリアと共に病院から飛び立った。
◆
「すごい! 本当に飛んでるのね! あの街も! 私も!」
ブレイズははしゃぐメリアを横目で確認しながら、パンデモニウム周辺の遊覧飛行をゆったりと続ける。
そろそろ戻るぞ、と言おうとした時だった。
「このまま私達の家にも行けたらな……」
行けない訳ではない。しかし、ある程度の遠出になる事に加え、パンデモニウムへの背信行為である事に違いない。今後の事を考えると、妹の頼みと言えど、それの実現は憚られた。
過ぎた願いを口走ってしまった事に気付いたのか、俯いて悔いているメリアの姿を見て、考えを改めた。
「何かあったら直ぐに引き返すからな」
「ありがとう!」
メリアの顔に笑顔が戻る。せっかくの一時退院だ。メリアの暗い顔をしている時間は一秒でも減らしてやりたい。今はそれだけがブレイズの願いだった。
◆
生家に到着するや否や料理を作り始めたメリアの後ろ姿を、ブレイズは眺めていた。
何も今でなくてよいという制止には全く聞く耳を持たず、何かに取り憑かれたかのように黙々と調理を進めていた。
やがて完成した料理がテーブルの上に運ばれ、そっとフォークをのばす。
「どう?」
口に入る前から感想を聞いてくるせっかちなメリアに半ば呆れつつ、料理を味わう。
「旨いよ。母さん以上だ」
◆
夜が更けた頃、ブレイズは独り家を出た。メリアは自分の部屋で深い眠りについている。昼間の疲れが出たのだろう。
冷えた空気が心を落ち着かせる。見慣れた小道を回り、懐かしい風景を楽しんだ。不思議な感覚だった。まるでパンデモニウムでの日々が夢だったかのようだ。何も変わっていない日々が明日もずっとここで続くのではないか、そんな錯覚を覚えた。
ここから見る夜空もパンデモニウムで見る夜空も変わりはない。しかし、いま自分達の頭上のどこかにパンデモニウムはいるのだ。地上を超空から睥睨し、支配する都市。自分もその軛から逃れる事はできない。
改めてこれからの事を考えた。もしメリアが完治するのであれば、彼女の身を守る必要がある。自分が例え「処理」される事になったとしても、どこか地上の親族に預けるか、パンデモニウムの市民権を得られるように取引をするか。どちらにしろ、今の身一つではどうにもならない現実だった。自分が今持っているものは「力」だけだ。できる限りメリアの傍にいなければならない。生きて守らなければ未来は無い。改めてそうブレイズは考えた。
◆
朝が来た。今日中にはパンデモニウムへ戻らなくてはならない。
「メリア、今日の午後にはここを発つぞ」
小声で言ったつもりはなかったが、部屋にいるメリアからの返事は無い。
メリアはベッドに顔を伏して泣いていた。
「ずっとここにいたいな。 もう身体は悪くないよ」
ここに来たのは間違いだったかもしれない、とブレイズは思った。
「何があるかわからない、一度戻ろう。完治すれば戻ってこれるさ」
「もう平気だよ。 病院には戻りたくない」
思い詰めたメリアの表情を見て、ブレイズは考えを変えた。
「わかった、もう少しだけここにいよう。ただし、何か異常があればすぐに戻るからな」
「ありがとう。兄さん」
メリアはブレイズに抱きついた。
◆
「審問官《インクジター》が一人、許可証無しでパンデモニウムから離脱して一週間が経過していますが、帰還していません」
ある技官が高官に報告をする。
「ふうむ、与えた飴がすこし甘すぎたようだ」
報告を受けた高官は何かの資料に目を通す作業を中断し、顔を上げた。
「マックスを向かわせましょうか」
顎に手をやり、技官の提案に対して束の間の思案を行う。
「いいえ、その必要はありません。彼はまだ失うに惜しい人材です」
「ではどうしますか?」
「まずは例のドクターを呼んでください」
高官はそう言うと、すぐに次の資料に目を移した。
「―了―」