3390 【憐れみ】
「そろそろギブリンさんのところに戻ってもらうよ」
ドクターより帰還が告げられた。シェリは大きく肩を落とした。
「君の所有者は彼だからね」
シェリがここにいるのは、あくまでも修理と検査のためであった。この心地良いぬるま湯がいずれ終わるとわかってはいたが、やはりショックは大きい。
「どうも君の感情表現は豊かすぎるきらいがある」
苦笑しながらも、自身の創造物の完成度を嬉しそうに語るドクターは言葉を続ける。
「どうやら君はここを気に入ってくれたようだし、定期検査名目で時折こっちに送るよう伝えておくよ」
「ありがとうございます」
礼を言って立ち去ろうとするが、何かに躓き、バランスを崩してしまう。ロブが足下にいた事に気付かなかったようだ。
シェリはその場にしゃがむと、足を引っ掛けてしまったお詫び代わりに、ロブを優しく撫でた。
「その子も連れて行くかい?」
ロブを撫でながらドクターを見上げる。
「良いのですか?」
落ち着いて答えた筈だが、なぜか声が上擦ってしまう。
「すっかり君に懐いてしまったからね。それに、再び誰彼構わず吠える犬に戻られても困る」
事情を察したのかのように、ロブが尻尾を大きく揺らしながらシェリの周りをくるくると回り始めていた。
◆
主の元へ送られる事になった当日、シェリは前々から気に掛けていた事をドクターへ聞いた。
「あの……私も箱詰めにされて送られるのでしょうか?」
人ではないと知った後とはいえ、あの仮面を付けた人形達のように扱われるのは気分の良いものではなかった。
「勿論。その方が速いし確実だ。ギブリン翁には随分と待たせてしまったな」
そういう事ではない、と何か反論を試みようとしたが、今のシェリに出すべき言葉は何も見つからない。
「さあ、入った入った」
言い倦ねていると、梱包を進めていたドクターに輸送用の箱に入るよう促され、渋々と箱へと潜り込んだ。
「それじゃあ、到着する頃に目を覚ますようにしておこう。長旅になるけど、体感ではあっという間さ」
そう言ってドクターはシェリとロブを休眠状態に変更し、蓋を閉じ始めた。
意識を失う直前、それまで姿が見えなかったドニタが視界に入った。シェリを見下ろすその顔は、ひどく上機嫌に見えた。
◆
目を覚ますと、そこは暗闇の中だった。ドンドンと箱に何かがぶつかり続ける音が断続的にしている。
一足早く目を覚ましたロブが、箱の外に出ようと奮闘していたようだ。
もう到着したのだろうか。少なくとも移動中ではないようだった。
まずは外へ出なくては何もわからない。上蓋に手を添え、グッと力を込めると、それは拍子抜けするほど簡単に開いた。
ロブが飛び出し、シェリもゆっくりと外へ出る。そこは主が住んでいる屋敷の前だった。
何度も訪れた事のある主の屋敷だった筈だが、どこか様子がおかしい。門も玄関も鍵が掛かっていないにもかかわらず、内部に人の気配が全くしない。
シェリはロブを呼び寄せて抱きかかえた。慎重に屋敷の中へ足を踏み入れる。
声を上げて主を呼ぶも、返事は返ってこなかった。外出中なのだろうか。それでは屋敷に鍵が掛かっていない説明にはならない。
どの部屋にも誰もおらず、最後の部屋、寝室前に辿り着いた。
「シェリです。只今戻りました」
念のため、ノックをした後に名乗って扉に手を掛ける。何の抵抗もなく扉が開いた。ここにも鍵が掛かっていなかった。
冬の冷たい風が通りぬける。窓が開いたままになっていた為だ。カーテンが風ではためいていた。
そして、主は寝室にいた。いや主だったものが寝室にあった。
腹部に刺さった大剣は体とベッドを貫き、刃は床にまで達していた。真っ白だったシーツは、見る影もなく赤黒く染まっていた。
息絶えた主の姿は腐敗が進み始めており、昨日今日死んだ訳ではない事が窺い知れた。
◆
特定の勢力に肩入れせずに金銭のみで商いをしていた事が、却ってある種の不信や不安を招き、今回のような結果になってしまったのかもしれない。
シェリも仔細を把握している訳ではないが、仕事の度に反対側の勢力に与しているという事も珍しくはなかった。
主の死に驚きつつも、どこか安堵している自分に気が付いた。ドクターはシェリの事を問題無いと判断して送り返すことを決めたようだが、かつてのように仕事をこなせる確証など何処にも無かった。
ドクターはシェリのことを、主の所有物である、と言った。彼が死んでしまった今、自分は誰のものなのか。
期せずして訪れた自由。シェリはその扱いに困惑した。
◆
自由になった筈のシェリは何処にも行かなかった。何処に行けばいいのか思い付かなかった。
結果として、主であった遺体を眺め続けるという事を選んだ。
自身にはありえない、死後の姿というものが気になったのだ。
遺体のある部屋で多くの時を、それ以外はロブと過ごす日々が続いた。
何もせずに主の遺体を眺め続ける事が、自身に仕事を与え続けた事に対する復讐なのか、保護者的な存在を失い、悲しみ悼んでいるのか、シェリにはよくわからなかった。
ただゆっくりと、だが確実に崩れていく主の姿には、シェリを引きつける何かがあった。
◆
ある日、ロブが動かなくなっていた。昨日まで元気に跳ね回っていたのに、だ。外傷は見当たらない。
抱き上げても力なく伸びきっている。
いつだったかドクターは、ロブもまた死ぬことのない自身の創造物だと語っていた。
犬の姿はしているが普通の犬ではない。獣医に診せたところで解決などしないだろう。
ドクターの力が必要な事は明らかだった。
シェリは動かなくなったロブを、屋敷の中から見繕った鞄の中へ入れる。
ロブの為にも、場所はわからなくても探し当てなくていけない。シェリは旅に出る為の準備を始めた。
「―了―」