3398 【偶像】
敵の多さは十分自覚していた。内地にいても油断はしていなかった。
公的な地位と皇妃の後ろ盾で傍からは盤石に見えた権勢は、その実、危ういものでもあることを忘れていたつもりはなかった。
◆
ある人物との密会の帰路、人気の少ない街角を進むエヴァリストの馬車が、不意に動きを止めた。しばらく間が空いたにもかかわらず、御者から何の合図も無い。訝しんだ護衛が馬車を降りると、乾いた射撃音と共に崩れ落ちた。
襲撃が明らかになっても、エヴァリストに動揺は無かった。むしろ護衛がいなくなったおかげで「力」を存分に使える。そう考えていた。
護衛への着弾と銃声の僅かなずれから、襲撃者との距離と方角を見定めた。
襲撃者が何人いるかわからない状況で馬車を降りるのは得策でないと考え、しばらく様子を窺った。外の反応は無い。
手の込んだ警告か、または次の手を考えているのか。
どちらにせよ、今の状況を打開するしかない。撃たれた護衛が出たのと反対のドアを開け、馬車を降りた。視界に動きは無い。
銃を抜き、向かいの建物まで走り抜ける。
建物へ渡るまでの刹那、衝撃がエヴァリストを襲った。腕に銃弾が当たり、バランスを崩しながらも物陰に飛び込んだ。
手練れがいる。そして脅しではなく、相手は確実に自分を仕留めようとしている。この事をエヴァリストは悟った。
エヴァリストは自分の油断に自嘲的な笑みを浮かべた。しかし時間は無い。こちらの姿を確認した相手は、今度は距離を詰めてくる。何としても退路を見つけ出さなければならない。
飛び込んだ物陰は雑然とした路地へと繋がっていた。腕の銃創を押さえながら、その路地を走った。
◆
エヴァリストは赤く染まった傷口を抑えながら、夜の帝都を走っていた。他に人影はなかった。
路地に入り、壁に背を預け、耳を澄ます。追手の気配は無い。軍服と白地の手袋は赤く染まっていた。
一呼吸置いて、路地から空を眺めた。いつもの変わらない夜空だった。視線を落とすと、眼前の壁に自身が描かれたポスターがあった。
『全ては帝國の為に』
勇ましく描かれたエヴァリストの姿が、その紙の中にあった。
帝國貴族や政治家の家系でないにもかかわらず現在の地位まで上り詰めたエヴァリストは、一部の若者達にとって羨望の的であった。そこを広報部に見出されたのだった。民衆の間に厭戦気分が漂い始めた頃の起用だった。
「……ふっ」
傷の痛みを堪え、姿を見せない敵の気配を探っている現在の姿は、ポスターに描かれた姿とは対照的な、惨めなものだった。その落差に思わず苦笑してしまう。
これからどうするべきか、エヴァリストは思考した。
密会の帰路だった為、部下や仲間達が異常に気付くには時間が掛かる。こちらから呼べる状況でもない。このまま身を潜めて夜が明けるまで待つべきだろうか。否。そのような幸運を期待するのは、戦いでは無意味だ。
自らの力で打開する。それがエヴァリストの導き出した答えだった。
統制派か、敵国か、あるいは把握していると思っていた拡大派か。どの勢力かはわからないが、今夜のような機会を逃す筈はない。
追手の気配はまだ感じられない。息を整え終えると、再び走り出した。
◆
しばらく進むと、数少ない街灯の下に男の姿が現れた。その動きに気配は無かった。
特徴的な赤い外套は闇夜でもよく目立った。襲撃者は統制派でも、拡大派でも、戦争中の敵国でもなかった。仮面を付けた協定審問官《インクジター》だった。
「エンジニアの走狗か……」
インクジターの来襲が意味することを、レジメントの生き残りであるエヴァリストは理解していた。
「……ずいぶんと来るのが遅かったな」
腕の痛みは増していた。止血も十分に行えていなかった。
「……」
仮面の男は、返事の代わりに武器を構えた。
「悪いが、過去の亡霊に囚われている暇は無い」
エヴァリストはそう言うと、男に銃弾を叩き込んだ。しかし、相手はその全てを両手の仕込み剣ではたき落とした。常人の技ではない。一気に間合いを詰めた仮面の男は、エヴァリストの首に向かって剣を振りかざした。エヴァリストはその太刀筋をすんでの所でかわし、銃を捨てて剣に持ち替えた。男の剣は一撃一撃が速く、重い。金属と金属のぶつかり合う音が夜の町に響く。辛うじて防げてはいるが、攻勢に出る切っ掛けが掴めない。その間にも、先に受けた傷口からの出血量が着実に増えていった。
苦戦はエヴァリストが負傷している所為だけではなかった。エヴァリストは、この地上でレジメントと同等に戦えるのは同じレジメントしかいない、ということを、はっきりと思い出していた。
突如、仮面の男の攻勢が止んだ。仮面の奥で大きく深呼吸をする音がした。明らかに雰囲気が変わっていた。
エヴァリストは次の攻撃で何が起こったのかを理解した。先程までとは段違いに一撃が重くなっていた。何度も剣を受けて腕の痺れが極限まで達したために、エヴァリストは距離を取った。
「お前の太刀筋、レジメントで学んだ物だな。 なぜ奴らの走狗になった」
仮面の男は答えない。心理的な挑発など聞こえていないかのように、再び間合いを詰めてきた。
エヴァリストはこの短い時間で、この男の太刀筋のパターンを分析していた。一見、奇矯な太刀筋だったが、組み立てに規則性があった。間合いを詰めてきた次、その攻撃はエヴァリストが予想した通りのものだった。エヴァリストの剣が男の仮面をはっきりと捉えた。かつて『茨』と恐れられた、エヴァリスト必殺の一太刀だった。
男は一撃を受けて、がくりと膝をついた。
「終わりだ、過去へと戻れ」
エヴァリストが止めの一撃のために剣を振り上げた時、腹部に衝撃が走った。
剣を振り上げたまま、エヴァリストは自分に刺さった剣を見つめた。仮面の男が腕から放った剣だった。
「くっ」
一気に力を失ってエヴァリストは倒れた。しかし、意識は保っていた。
「まだ、まだだ……」
立ち上がろうと、地面を掻き毟るようにエヴァリストは藻掻いた。
寝転がったまま落とした剣を手に取り、構えようとする。その剣を、仮面の男はエヴァリストの手ごと踏みつけた。
ここで死ぬ訳にはいかなかった。今、この過去の亡霊に取り殺されれば、自分はこの世界に何も残せずに死ぬことになる。
何故ここまで自分が生き残ってきたのか。それが全て無になってしまう。
押さえられた手を傷ついた腕で必死に退けようとした。どんなに無様であっても自分は死ねない。その思いがエヴァリストを足掻かせた。
「くそっ、まだだ……」
地面にエヴァリストの血が広がっていった。足掻けば足掻くほど、そのスピードは増していた。仮面の男の表情はわからない。エヴァリストの最後の瞬間を目に焼き付けようとしているのか、止めを逡巡しているかのように思えた。
その時、大きな銃声が轟いた。仮面の男がエヴァリストの側から飛び退く。
「よう」
エヴァリストは朦朧とする意識の中で、声の主に気付く。その不躾な声、聞き間違える筈もない。アイザックだった。構えたライフルは仮面の男を捉えている。
「まだやるかい」
アイザックが合図をすると、背後からエヴァリストを信望する兵士達が現れた。間もなく夜が明けようとしていた。
仮面の男はしばし逡巡すると、武器を下ろしてアイザック達とは反対の方向へ去って行った。
「よろしいのですか?」
兵士の一人が当然の疑問を口にする。
「今はこっちが先だ。早く医療班を」
倒れているエヴァリストを示した。
「はっ!」
◆
アイザックは傷ついたエヴァリストの横に座り、止血のための布を腹に当て、その頭に手を添えた。
「死ぬなエヴァ、これで終わる訳にはいかねえんだろ」
「―了―」