3371 【最下層】
パンデモニウム。科学の粋を集めて作られた、宙に浮かぶ巨大な都市である。そこには人類最高の叡智と技術が詰まっている――筈だった。だが、《渦》の発生がその計画を狂わせた。現在のパンデモニウムは、《渦》から逃れた数少ないエンジニア達の子孫が乗る「方舟」でしかない。
◆
「分類の誤りを早急に正さなければ、今後に禍根が残ります」
サルガドが所属するのは、パンデモニウム下層に納められた資料を整理・調査する、通称『ライブラリアン』と呼ばれる部署である。サルガドはその下級の調査技官であった。
「なるほどな。しかし、今その作業に割り当て可能な人員はいないのだよ。私の判断ではね」
清潔で、決められたことが機能的に過ぎていく世界。理想世界としてのパンデモニウム。その美を愛してはいたが、今の状況に満足はできていなかった。
「納得できません」
「君は常に正しいな。だがな、正しさが常に善とは限らないのだ」
上司である上級ライブラリアン、ラーキンは、嘲りの調子を含めて言った。
「無能に合わせろと」
軽蔑の感情を隠さずに言った。
「言葉には気をつけたほうがいい」
ラーキンは話を打ち切った。
「お前の仕事は判断することじゃない。言った通りに働けばよい」
端的に言えば、その才能に見合った場所ではなかった。パンデモニウムでは、与えられる役割も階級も、全てが遺伝子的なスクリーニングを経て決定される。出自の芳しくないサルガドにとって、それは壁として存在していた。
「あと、老いぼれのモロクと付き合うのはやめておけ。奴こそ、今現在の我々にとって禍根になっている」
立ち上がったラーキンはサルガドの肩に手をやり、わざと皮肉めかして言った。
「わかりました」
ラーキンは自分の席に戻って書類の確認を始めた。まるでサルガドなどいないかのように。
サルガドはラーキンの執務室を黙って退室した。
◆
「ラーキンに意見したそうだな」
モロクはサルガドに話し掛けた。モロクはサルガドよりだいぶ年かさのライブラリアンで、ラーキンよりも長くこの部署にいる。パンデモニウムの下層から次々と新しい遺物を発見するも昇級せず、いつまでも下級技官と共に地下を彷徨い歩いていた。
「せっかく新しい発見があったのに。あの男、なにも理解していない」
サルガドはモロクを敬愛していた。しかしそれは、その変わった能力と情熱に対してであって、彼の様にいつまでもパンデモニウムの下層を這いずり回るつもりはなかった。
二人は下層での調査に出ていた。昇降装置を動かし、調査官以外立ち入り禁止の最下層に向かっていた。
「新しい発見。正しくは再発見だがね。このパンデモニウムには、急造された時代に様々なものが運び込まれた。あくまで我々はそれを再発見しているに過ぎないのだよ」
「わかっている。だからこそ失われた世界を取り戻すために、私達は正しく遺物を復元しなければならない。なのに、あの男は……」
昇降装置は駆動音を響かせながら、暗闇をゆっくりと下っていく。
「時間が我々を退化させたのだよ。パンデモニウムの官僚機構も、それを動かしている人間の能力をもな」
「いつかあの無能どもを駆逐して、私がライブラリアンを変えてみせる」
「心掛けは素晴らしいな。だが、一度はびこった悪貨を駆逐するのは、容易ではないぞ」
「あなたはなぜ、昇級しなかった?」
変わり者で、上層部から疎まれてはいたが、実際にパンデモニウムの下層を誰よりも理解しているのはモロクだった。
「まだ、捜し物がみつかっていないからだよ」
モロクは不敵に笑った。
昇降装置が最下層に着き、二人は暗闇の中へと進んでいった。
◆
二人は作業手順に定められた区域に辿り着き、与えられた調査を終えた。
その帰り道に、モロクはサルガドに提案をした。
「私の『捜し物』を見てみたいか? サルガド」
「ああ、もちろん」
サルガドは好奇心のために危険を冒すタイプではない。しかし、モロクがこの奇妙な生活を続ける理由を知りたかった。それに、この最下層で調査技官として生きてきた職業人としての意識もあった。
モロクは調査予定の区域を離れ、手元のライトだけを頼りに、入り組んだ最下層を進んでいった。
サルガドもまだ入ったことのない迷路のような道を、モロクは何の迷いもなく進んでいく。
「この辺りは経路の資料すら無いのに……」
「長い間を掛けて、頭の中に入れたのだよ。時間はたっぷりあった」
そう言って、また沈黙と暗闇が支配する下層を二人は進んでいった。
しばらくすると、小さな明かりが漏れる部屋が見えてきた。
「あそこだ」
モロクは少し歩みを早める。まるで、子供が楽しい遊び場に着くのが待ちきれないといった様子だ。
何やらかをパネルに打ち込むと、扉が開いた。
部屋は光に溢れていた。暗闇に目が慣れていたサルガドは、一瞬目を細めた。
部屋の中は配管が入り乱れ、壁にはスイッチや電光パネルが見える。
「見ろ、ここには独立した動力があるのだ。ここの扉の意味を知るのに五年、開けるのに三年、動力を復活させるのに十年かかったのだよ」
サルガドが今まで見たこともない程、モロクは高揚していた。
「この地下を土竜のように這いずり回っていた中で、この部屋だけが特別な構造を持っていることを知ったのだ。ちょうどお前くらいの歳にな」
うろうろと部屋を歩き回りながら、モロクは興奮した様子でサルガドに語り続ける。
「どうしてもこの扉の中をのぞきたい。隠された部屋の意味を知りたい。その欲求をかなえるために、ずっとここに残ったのだ。わざとこの区域の報告をせずにね」
「なぜ、そんなことを?」
「お前もわかっているだろう。ライブラリアンという官僚機構、いや、パンデモニウム自体がすでに死に体だということを。地上の混乱から逃れた我々の祖は、エンジニアの本分である新しい真実の追究と進化を捨ててしまったのだよ。未来への方舟の筈なのに、ここは保身に走った凡夫どもの住む、光差さぬ洞窟となってしまったのだよ」
「だから、この秘密の部屋を黙っていた?」
「あいつらには、この部屋の価値などわからん。理解も調査もせずに封印するだけだ。それが奴らの言う『ライブラリアンの仕事』なのだから」
サルガドは辺りをもう一度見回してみた。普段目にする動かなくなったオートマタや山積みの記録媒体とは違う、生きたテクノロジーがここにはあった。
「サルガド、お前は見込みのある男だ。エンジニアの本分を理解している。そしてこの部屋の意味も理解してくれるだろう」
モロクの興奮は絶頂に達していた。
「この部屋は『脳』として機能するのだ。パンデモニウム自体のな」
「脳?」
「見ろ!」
モロクが壁際のスイッチに触れると、何も無かった正面の壁が開き、大きなガラス窓が現れた。
そのガラス窓の向こうには、大量のケーブルに繋がれた大脳が浮かんでいた。
「これは標本……いや、生きているのか!」
「そう、生きているのだ。そしてこの部屋の動力と通信は、パンデモニウムの中央統括局へ続いているのだ」
「この脳がパンデモニウム自体を動かすことができると?」
「ああ。今は眠っているこの部屋を起動させられれば、パンデモニウムを乗っ取ることができる。そして惰眠を貪る凡夫どもに鉄槌を下すのだ」
モロクの目は血走り、息は上がっている。
「ただな、まだ起動させることはできんのだ。たくさんの手順が必要なのだ。そのための情報をまだまだ探し続けなければならん」
「なぜ、これを私に見せたのだ?」
「協力者が必要なのだ」
モロクはさっきとは打って変わって、落ち着いた調子で言った。
「なるべく早くに起動させたいのだ、この部屋を。だが、おそらく私には時間が無い……」
◆
二人は再び、昇降装置の前に来た。
モロクは昇降装置にサルガドだけを乗せた。
「戻らないのか?」
「まだ、今日中に調査したいことがあるのでな。良い返事を待っているぞ」
モロクは足早に最下層の暗闇に消えていった。
昇降装置はサルガドだけを乗せて、上層へと上っていった。
◆
数日経ってもモロクは戻ってこなかった。モロクの場合、下層で連絡が途絶することは何度もあったが、こんなに長い間連絡が取れないことは初めてだった。
返事もできないまま、サルガドは回収した資料の閲覧と分類の作業を続けていた。
そんな時、サルガドはラーキンに呼び出された。
執務室で向き合ったラーキンの顔にはいつもの嫌みな笑みが無く、はっきりと緊張した様子が窺えた。サルガドは、この男にもそんな表情ができるのかと、少しおかしみを覚えた。
「お前に聞きたいことがある、モロクのことだ」
サルガドは真っ先にあの部屋のことを思い出していた。
「―了―」