17スプラート2

—- 【望み】

森を出てから何日も経っていた。とにかく遠くへ遠くへと移動し続けていた。安全な森を目指すと始まった旅だったが、どこも妖蛆によって食い荒らされた跡地ばかりで、どこにも安住できる場所などなかった。大人達は気付かない振りをしていたが、徐々に仲間の人数が減っていった。先の見えない逃避行を続けられる者が全てではなかった。

一休みしながら「あとで追いつく」と言って離れた者は、誰一人として合流してこなかった。

大母はそんな出来事にも関心を示さなくなっていた。自身もこの逃避行の無意味さを理解し始めていたからだった。それでも妖蛆から逃れる為の移動を、森の皆と続けてきた。

大母はアインの帰還に一縷の望みを掛けていた。しかし、浸食された森ばかりの荒野を彷徨う内に、次第にその考えを改めていった。

アインが宝珠を携えて戻り、妖蛆を再び封印できたところで、昏い「穴」に侵食され尽くされたこの世界には、あまりにも残っているものが少なかった。

かつてスプラート達の部族を育んできた森は、すでに遠い場所にあった。

徒労感と諦念が、部族を支配していた。

ある日、太陽が空に昇らなくなった。森を支えた天からの光が失われたのだ。鈍色の雲が隙間なく天を覆い、明るい筈の昼は常に夕闇のようで、夜の闇は一層と深くなった。その事が人々の心を更に沈ませた。「妖蛆が空まで食べ始めた」と言う者もいたが、その様子を目にした者はいなかった。

その日、妖蛆から逃れる為の移動は終わった。

妖蛆は大昔魔法使いだった、という伝説を大母が語り始めた。そして、その偉大な知性を取り戻してくれないか、といった望みを口にした。しかし今のスプラートには、そんな望みは無いと感じていた。荒野で見た、薄暗闇の中で蠢くあの巨大なものに、何か知性の一部分でもあるとはとても思えなかった。あれは死そのものだとスプラートは思っていた。

今、スプラート達のいる場所には何も無かった。荒野に点在する小さな湖の畔で休んでいた筈だったが、今そこにあるのは巨大な穴だった。周りの木立も全て枯れ果て、その茶色い腕を灰色の虚空に伸ばしていた。

スプラートは枯れ木の傍に立って思案していた。そして、いま自分達のいる世界があの悩まされ続けていた悪夢と同じものだと、はっきりわかったのだ。この老人の腕のような木も、落胆している大人達も、鈍色の空も、何度も見たものだった。そしてこれから起こる光景を思い出した。

大きな地響きが皆のいる、かつて湖畔だった場所を揺るがした。徐々に大きくなる揺れに、誰も立っていることすらできなくなった。泣く者、叫ぶ者、笑う者、黙する者、様々な人がいた。スプラートは木立に掴まり、これから起こることを見定めようとしていた。視界を大きな暗闇が覆い始めた。足下が崩れ去り、真っ黒な奈落に何もかもが落ちていった。スプラートはこれできっと目が覚めるんだ、と思い始めていた。

赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫……一つずつ、あるいは複数の色がゆっくりと変化し続けるその空間は、スプラートの目を飽きさせなかった。どちらが上でどちらが下かもわからない空間だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。体が宙に浮いて落ち着かなかったが、歩こうと思えば何も無い場所を踏みしめる事ができ、前へ進む事ができた。

この場所はあの悪夢の続きでも、帰れると信じていた故郷の森でもないことがはっきりとわかった。加えて、その空間を彷徨う内にある人物と遭遇した事が、その思いを一層強くさせた。大母の反対を押し切って妖蛆討伐に行ったまま戻ってこなかった戦士達だ。スプラートの姿を認めると、ややばつが悪そうな顔をしながら向かってきた。

「そうか、お前もここへ来たか」

そう言うと、スプラートの頭を撫でるように軽く叩いた。

「ここはどこ? わたしたちは死んじゃったの?」

スプラートの問いに唸り声を上げて腕組みをし、しばし悩んだ後に戦士は答えた。

「さあな。その質問には誰も答えられそうにないな」

突如現れた巨大な手が、戦士の一人を包み込んだ。逃げる間も無かった。それの出現はあまりに唐突だった。スプラートは声を上げるのも忘れて巨大な手を凝視していた。その手は雲でできているかのように半透明で、まるで実体を伴わないかのように思えた。

その手が開いた時、包み込まれた筈の人物が消え去っていた。やはりこの場所も安全ではなかったのだと理解した人々は、蜘蛛の子を散らすように八方へ逃げていった。

スプラートは走りだす事ができなかった。進もうと思えば進む事のできた空間なのに、何もできずに脚が空回りするだけだった。

一人、また一人と巨大な手に包み込まれ、そして消えていった。屈強な筈の戦士達も為す術がなかった。最初は気付かなかったが、ハッキリと見えた手だけではなく、うっすらとした体もそこにあった。どんなに全力で逃げても巨人は悠々と追いつき、人々を包み込んでいった。

ついに、スプラートの上に巨大な手が現れた。抵抗する気力は残っていなかった。

真っ暗になった視界と、宙に浮かんだままの感覚がスプラートを包み込んだ。

ふと耳元で声がした。青年の声だった。ただし、聞き覚えのある声ではなかった。

「何を望む?」

唐突な質問だったが、不思議と答えなければという気持ちになった。

「元に戻りたい。 アインに会いたい」

とスプラートは声を上げる。

「強く望め!」

青年の声が空間を満たした。スプラートはあの悪夢を乗り越えられるような世界を、自分を、強く思い描いた。

「新しい世界をお前にやろう」

声が聞こえると同時に、再びスプラートは意識を失った。

頬にざらざらした温かい感触があった。あの巨人としか言い様がない存在との出会いは、夢の中の出来事に過ぎないような気がしていた。今でも半信半疑だが、命が助かったという事だけは事実のようだった。

スプラートは自身の目覚まし代わりになった獣の姿をじっと見つめた。オオカミのようにも見えたが、その瞳には獣以上の知性が宿っているように感じられた。倒れていた体を起こして周囲を見渡す。妖蛆の禍々しい気配はどこにも無く、昏い『穴』も無い。共にいた筈の人々の姿も見当たらなかった。背の高い木々が立ち並ぶ綺麗な森、そこはスプラートの知らない森だった。

心地の良い木漏れ日とあまりの平和さに、これまでの疲れがどっと押し寄せてきた。目の前の光景が夢ではないことを祈りつつ、スプラートは再び瞼を閉じた。

「この子が?」

眠りについていたスプラートの前に、一人の女性が立っていた。

「そう」

女性は誰かと会話しているようだったが、周囲には彼女以外の人影は無かった。

「大丈夫、放っておいたりはしないわ。悪いけど運んでくれる?」

その声を受けた獣は、眠っているスプラートの首筋を軽く咥えると、ひょいと自身の背中に乗せた。

「―了―」