16ドニタ3

3378 【誘惑】

遺跡の探索を終えたドニタは、正体不明の男と対峙していた。

ドニタを待ち伏せするように声を掛けてきた男。

この男は信用できない。

ドニタの理性は警告を発していた。

本来ならば、こんな奴についていくなんて考えられないのに。

(どうしてワタシはこの男と歩いているのだろう?)

この男に声を掛けられたとき、ドニタは一度無視しようと考えた。

それなのにこうしてついてきてしまったのは、「暗闇からの救済」という言葉があったからだろう。

自分の中にある暗闇への恐怖、そこから逃れる術があるなら、それにすがりたかった。

「いったい、どこに連れて行こうというの?」

ドニタは傍らに並んで歩く男に声を掛けた。

「もう少しだ」

男はそう言うと、むっつりと口を結んだ。

「あなた、名前は? 聞いてなかったわ」

「サルガドだ」

「どこにこれから行くの? 何があるの?」

「ついてくればわかる」

「答えないならワタシはここで帰るわ。無駄なことに費やす時間は無いの」

「永遠に暗闇から這い上がれなくても、か?」

サルガドは蔑んだような目でドニタを見る。

まるで人形か何かを見るような目つきだ。

そう、ドニタがプロトタイプを見るときのような。

「いやな目だわ。 ついて行けない」

ドニタは足を止め、強い口調で言った。

サルガドも立ち止まる。

「ワタシ、帰る」

ドニタとサルガドはしばらく睨み合っていたが、やがてサルガドが根負けしたように口を開いた。

「面倒な娘だ。 いいだろう。 我々はここからパンデモニウムに向かう」

「あのエンジニア達が住んでいる、天空に浮かぶ街?」

「そうだ。 あとは向こうに着けばわかる」

パンデモニウム、エンジニアによって管理され、地上の混乱から隔絶された、旧時代の繁栄を保つ都市。

「納得したか」

「……わかった。 もう少しだけ付き合ってみるわ」

エンジニアの技術の粋が集まる導都パンデモニウム。そこになら自分を救ってくれる何かがあるかもしれない。

ドニタの表情が明るくなった。

そして、その様子を見ているサルガドの頬にも、僅かな笑みが浮かんでいた。

暫くすると二人は、崩れた建物が点在するゴーストタウンに辿り着いた。

サルガドはまっすぐ、ぼろぼろになったとりわけ高い建物へと入っていった。廃墟となったその建物の階段を、二人は時間を掛けて上った。

錆び付いたドアを開けて屋上に出ると、そこには銀色の奇妙な乗り物があった。中空にあった太陽は沈みかかり、西日がその銀色の機械を朱く照らしていた。

「これで導都へ行く。 乗れ」

飛行挺のハッチを開け、ドニタを呼び込んだ。

「これ飛ぶの?」

乗り込みながら、前で計器を操作するサルガドに声を掛けた。

「そうだ。 揺れるぞ、掴まっていろ」

サルガドはスロットルを開け、飛行艇は廃墟のビルから飛び立った。そして一気に朱く染まった夕暮れの空に舞い上がった。

ドニタはどんどん小さくなる地上を眺めて、子供のように興奮していた。ただ、それをサルガドに悟られぬよう素知らぬ顔で窓を見ていた。

雲の上を進む飛行艇の前に、奇妙な光の錯乱が現れた。それは人の目ではわからなかったかもしれないが、ドニタの目には明らかに何か奇妙な屈折を起こしているのが見て取れた。同時に、サルガドは何かと交信をしていた。ドニタの耳にも交信の内容は聞こえたが、奇妙な符牒を組み合わせたその会話は、意味を汲み取ることができなかった。

交信が終わると、飛行艇は奇妙な屈折に向かって進んでいった。すると突然、視界の中に巨大な空に浮かぶ街が広がった。

「これがパンデモニウム……」

思わずドニタは呟いてしまった。廃墟と研究所を行き来する生活の中で見てきた光景とは、全く違う世界だった。本の挿絵でしか見たことのない、生きている都市。それも地上のどこよりも進歩した、黄金時代の建物が居並ぶその風景に、ドニタは釘付けになっていた。

パンデモニウムを旋回する飛行艇は、輝くアーチを掲げた建物に着陸した。陽はほぼ落ちていたが、パンデモニウムの建物は紫色に変わった空を鏡のように反射していた。

飛行艇を降りたドニタとサルガドは、建物内の長い廊下を歩いていた。

そこはドクターの研究所によく似た雰囲気を持っていた。しかし、その技術レベルの高さは、テクノロジー自体に詳しい訳でないドニタでも、一目でわかるほど際立っていた。

やがて二人は大きな扉の前に辿り着いた。

「連れて参りました」

サルガドが扉に向かって声を掛けると、向こうから女性が返事をした。

「ようやく来たか。遅いぞ、サルガド」

「申し訳ありません」

「後で呼ぶまで下がってよい」

「わかりました」

サルガドは扉に向かって一礼すると、

「さあ、入れ。レッドグレイヴ様がお待ちだ」

とドニタの背中を押した。

扉の中に入ると、部屋の中央に設置されている巨大な水槽が目に入った。

水槽の中には人間の脳が浮かんでおり、その周囲にまるで呼吸をしているかの様に、大きな泡がボコリボコリと不気味な音を立てていた。

「よく来たな、ドニタとやら」

ドニタがその異様な光景に目を奪われていると、頭上から声がした。

反射的に上を見るが、そこには幾本もの太いパイプがあるだけで、人の姿はない。

「何者だ! どこに隠れている!!」

ドニタはいつでも戦闘態勢になれるよう身構え、叫んだ。

「どこを見ている。余はここにいるではないか」

またしても声は上から聞こえる。

しかし、いくら目を凝らしても、口の開いたパイプがあるだけで他には何も無い。

だが、声がする以上はどこかにいる筈……。

「……ま、まさか!?」

そんな筈はない。

まさか、アレが生きているなんて。

そんな思いを抱きながら、ドニタは恐る恐る水槽の方を振り返る。

「そうだ。余はここにいる。残念ながら、人の姿ではないがな」

頭上から聞こえる声に合わせて、脳の周囲に泡が発生する。

その有様は、これまでどんなものに対しても恐怖を抱かなかったドニタにさえ、怖気を感じさせる光景だった。

「どうした? この姿が怖いか。そなたも本を正せばただのガラクタであろうに」

「怖くなどない。ただ、そのような姿で、まさか……」

「まさか生きているとは思わなかった、か。それもしかり。余自身でさえ、この姿で生き存えていることに疑問を感じ始めたところだ」

ボコリ

ボコリ

レッドグレイヴと名乗る脳は、楽しげとさえ聞こえる口調で語る。

「余はレッドグレイヴ。このパンデモニウムから世界の監視を務めとしている」

ボコリ

その声は、まるで幼い少女のように高く、澄んでいた。

その声を聞いているうちにドニタの動揺も収まり、代わりに疑問が次から次へと湧き上がってきた。

「お前が、あの男の主人なのか」

「まあ、そうなるであろうな」

「お前はいったい何者だ! ワタシを暗闇から救う、とは何だ。そしてワタシに手伝えと言うのは……」

「落ち着け、人形。一度に聞かれても、余の口は一つしかない。いや……一つもないか。くっくっく」

そう言って、自らの冗談でくすくすと笑う。

「ふざけるな! きちんと答えろ!」

「落ち着けと言っておろうに。一つずつ答えてやろう」

「………………」

「まず、余が何者か、という質問だ。先にも言ったように、余は監視者である。人間が再び愚行にて世界を破壊しないよう、監視をしている」

「世界を、破壊……?」

「そうだ。まあ、生まれて間もないそなたに言っても、わからないだろうがな」

「ワタシに手伝えというのは、その監視とやらなのか?」

「いや、そうではない」

レッドグレイヴはそう言って、わずかな溜息をついた。もちろんそれは音声を伝えるパイプから聞こえて初めてわかったことだが。

「一見してわかるとおり、余はこのような姿である。この部屋に備え付けられた多くの機械で生命を保っている状態だ」

「今のところ生命に別状はないが、この姿では歩くことも外界を見ることも叶わぬ。世界には喫緊に解決すべき問題が生じている。外界へ出る手段が必要なのだ」

「体が必要なわけね。 それがワタシになんの関係があるの?」

「余の体を作り出すためには、そなたの父たるドクターが持っているコデックスが必要だ。そなたの体を生み出したようにな」

「ドクターの……つまりワタシは、ドクターへコデックスを貸してくれ、と言えばいいのだな」

しかし、レッドグレイヴは小さく否定した。体があれば肩を竦めていたところだろう。

「ドクター……今はウォーケンと名乗っているそうだが、彼奴とは古い知り合いなのだ」

「しかし、こちらの正体をドクターに知られるわけにはいかん。根深い事情があってな」

「回りくどい話ね。 で、実際にどうしろというの?」

ゴボリ

レッドグレイヴの周囲に一際大きな泡が立つ。

「ドニタ。そなたに頼みたいのは、コデックスの強奪だ」

「強奪?」

「そうだ。そなたであれば、ドクター・ウォーケンからそれを奪うのも容易であろう」

「そ、そんな……そんなことはできない!」

ドニタは大きく首を振った。それは、紛れもないドクターへの裏切り行為だ。

「……それでそなたが救われるとしたら?」

ハッ、とドニタの顔が上がる。

「どういう、ことだ?」

「そなたの恐れる闇、余は克服しておる」

乳白色の脳はぴくりとも動かない。本当にこの物体が今、語っているのだろうか。

「余が力を貸せば、夜も、闇も、眠りも、もう恐れるようなことではなくなる」

ポコリ。また、ポンプが送り出す水泡の音が響く。

「迷っているな。闇への恐怖はだれにでもある。それは死への恐怖だ。誰もが皆、闇から生まれ闇に帰って行く。しかし、余は永遠の光明の中にいる者だ」

「古い叡智によって余は遙か過去からここにいる。その叡智の一部をそなたに分け与えよう」

「お前が本当にずっと生き続けているという証拠は? いま見ている水槽の物体も、声も、茶番でないと証明できるの?」

「ふふふ、信じないのは自由だ。ただ、そなたを救えるのは余だけだ」

「……」

ドニタの心は、まさに二つに割れようとしていた。

そんなドニタの様子を見て、レッドグレイヴは面白そうに笑った。

「まあ、今すぐに決めなくともよい。そなたも余も、まだ時間はたくさんある」

「………………」

「一度、ドクターの元に帰るがよい。そして、もし余の要求を呑むというのなら、また余の元へ来い」

「で、でも、そのときはどうしたら……」

「心配しなくともよい。その時が来たら、余の方から迎えに行く」

「………………」

「それでは、な。よい返事を期待しているぞ」

「―了―」