3397 【檻】
この季節にしては冷たい風が、深い青を湛えた湖の表面を揺らす。森に籠もった木々の匂いが湖岸に届き、少女は貝を採る手を休めて顔を上げた。
「珍しいね、こんな時期に。もしかしたら夜は嵐になるのかな、シルフ」
濡れた手を振りながら、傍らに佇む大きな獣に話し掛ける。狼によく似たその獣はじっとパルモの顔を見つめると、何度か瞬いた。
「そうだね。それじゃ早めに帰ろうか。もう少しで今日の分が採り終わるから」
少女はにっこりと微笑むと、再び腰を屈めて貝を採り始めた。
少女の名はパルモ。コルガー王国辺境の村に住む部族の一員だ。
コルガーは豊かな自然と天然の要害を持ち、採取と狩猟を中心とした自給自足の生活を送っている。また、殆どの国民が部族単位で暮らしており、国家に対する帰属意識が薄いのが特徴だ。パルモの部族も例に漏れず、木と水に囲まれた、質素だが幸せな生活を送っていた。
◆
「ただいまー」
パルモが笊を抱えて家に戻ると、家には誰もいなかった。普段ならば母親が夕食の準備をしている時間だ。この時間に両親とも出掛けることは少なくなかったが、パルモの胸には何故かチクリと嫌な予感が走った。
「……すぐに帰ってくるよね」
外では、パルモの不安を掻き立てるように風が強くなっている。空には真っ黒な雲が広がり、気温も下がり始めた。
「……グルル」
パルモの不安を感じたのか、傍らの獣がパルモの脚に頭を擦りつける。
「うん、大丈夫。ありがとうね、シルフ」
パルモはシルフの鼻面を撫でながら、明るい声を出した。
「それじゃ、先にスープでも作っちゃおうかな。貝もたくさん採れたしね。もちろん、シルフの分もあるよー」
パルモは笑いながら抱えている笊を振った。中で貝がジャラジャラと音を立てる。シルフは安心したように頷いて、家の入り口のところで丸くなった。
◆
パルモがスープを作り終わり、太陽が全て隠れても、まだ両親は戻らなかった。さすがに心配になり、探しに行こうか迷っていたところで、ようやく入り口の扉が開いた。暗かったパルモの顔がぱっと明るい表情に変わる。
「お帰り、お父さん! お母さん。 あのね……」
だが、その言葉は途中で止まってしまった。両親の後ろに見知らぬ男が立っていたからだ。
「ただいま、パルモ」
「おかえりなさい」
小さく呟くパルモを、男はじっと見つめる。男は細身の体に黒い装束を着け、冷たい目をしていた。その禍々しさにパルモは身震いした。
「お父さん、ご飯は……」
「すまん、これからちょっとこの人と話があるんだ。村長さんもすぐに来る。だからパルモは上に行ってなさい」
父親が疲れたような調子でパルモに語り掛ける。母親は今にも泣き出しそうだ。
「パンを持ってお行き。終わったら、ちゃんとご飯にするからね」
「……うん。わかった」
今わたしが何か言っても、お父さんとお母さんを苦しめるだけだ。聡明なパルモには、それがわかってしまった。
「おいで、シルフ。上に行こう」
パルモはシルフを呼ぶと、一緒に二階に上がっていった。
◆
ベッドの上でパンを囓りながら、パルモはじっと下の様子に耳を傾けていた。全部が聞こえるわけではないが、父の怒鳴り声や母のすすり泣く声、それに村長さんの押し殺した唸りなどが聞こえてくる。どう考えても楽しい話題には思えない。そして、その中に自分の名前が出てきたことに、パルモは気付いてしまった。
「……わたしのことを話しているんだ」
何か失敗しちゃったのかな。それとも、お父さんとお母さんはわたしをどこかへやっちゃうつもりなのかな。そんな考えが頭に浮かび、パルモの目は潤んでしまう。パルモは慌てて枕に顔を埋めて涙を拭った。
「……だって、まだ子どもなのに……」
「…………村がどうなっても……」
「……だからといって、パルモひとりに……」
何も見えない状態だと、下の声が良く聞こえる。どうやら、あの黒い男がわたしに何かをさせようとしていて、お父さんとお母さんが反対しているようだ。
「わたしが行かなかったら、村に何かする気なんだ」
だったら、わたしが行くしかない。話を理解すると、パルモはすぐに決断した。立ち上がったパルモを引き留めるように、シルフが唸り声を上げる。
「ごめんね、お前も危ないところに行くかもしれないのに。でも、お父さんとお母さんを困らせたくない」
シルフはじっとパルモの目を見つめると、仕方がないといった風情で溜息をついた。
「ありがとう、シルフ」
パルモはシルフの頭を撫でると、決意の表情で部屋を出た。
◆
居間に入ると、ちょうど父親の怒鳴り声が聞こえてきた。
「だから何度も言っているでしょう! パルモを戦に出すなんて……」
「お父さん! わたし……行くよ」
「パルモ……上に行ってなさい。これは大人の問題だ」
険しい顔でパルモを睨む父親。こんなに怖い顔は、パルモが大事な水瓶を割ってしまった時にだって見たことがない。だがパルモのその言葉を聞いた黒い男は、ニヤリと唇を歪めた。
「さすがはコルガーの聖獣を操るお嬢さんだ。勇敢な上に、物わかりが良いと来ている」
「パルモ!?」
母親が悲鳴をあげた。父親はじっと男を睨んでいる。その向こうで、村長はどこかホッとしたような表情を浮かべていた。
「わたしがどこかに行けば良いんでしょう?」
「その通りだよ、パルモ。そこの大きな狼も一緒にね」
「この子は狼じゃありません。シルフです」
「そうか。それじゃ、シルフも一緒に」
「………………」
それを聞いて、母親は泣き崩れてしまった。震える背中を父親がゆっくりと撫でる。そして何か言おうとしたが、男に遮られた。
「わたしの名はアスラだ。 明日、君はルビオナ王都へ旅立つことになる。 準備をしておくように」
それだけを告げると、アスラは立ち上がって音もなく出て行った。残された四人は、ただ黙ってそれを見送った。
◆
次の日。泣いて引き留める母親と、血が出るほど唇を噛み締めた父親を背に、パルモは森を出た。空は昨日の嵐が嘘のように晴れ渡っている。
「ねえ、アスラさん。 わたしはどこへ行くの?」
森を抜けながらパルモは尋ねた。アスラは顔を前に向けたまま、ぶっきらぼうに答える。
「戦場だ」
「でもわたし、なにもできないよ」
「お前自身に何かしろとは言っていない。その獣にさせるのだ。お前が」
「シルフに?」
「そう、伝説の力を国のために役立ててもらう」
その言葉にシルフが唸り声を上げる。だがアスラは素知らぬ顔だ。
「決して老いず、決して死なぬコルガーの聖獣。その力は万軍に値するが、誰にも傅かぬ」
アスラは詞を詠むかのように言った。
「だが、ついにその力を使役できる人物が現れたと聞いた。 それがお前だ」
「そんな……。 シルフはただわたしを守ってくれているだけ……」
「よく考えろ。 国が滅びればお前らも滅びるのだ。 帝國がここまでくれば、お前の一族など間を置かずに踏み潰される」
「……戦いなんて、したことないのに」
「やらねばならぬ。 家族のため、国のためにな」
パルモはうな垂れる。アスラの表情を横から眺めるが、冷たいその相貌に何かの感情を読み取ることはできなかった。
パルモは溜息をついて、アスラに置いて行かれないように足を速めた。
◆
森を抜け、此処コルガーから連合王国の首都へ続く列車が通る街に辿り着いた。
「ここからは列車だ。それと、獣は檻に入ってもらう」
街の外に、大きな台車に載った檻が用意されていた。
「獣を街に入れるわけにはいかん。 それに、姿を見られるのも問題がある」
アスラは冷淡に言った。
「こんなところにシルフを入れられない。 歩いて行くわ」
「そんな悠長な真似はできん。 黙って乗せろ」
シルフが地響きのような唸り声を上げた。だが、アスラは表情一つ変えない。
「やめて、シルフ。 わかったわ。わたしも檻に入る」
「好きにしろ」
アスラはそう言って檻を開けさせた。パルモはシルフを連れて檻の中に入る。何か他の獣を入れていた物らしく、そこは汚れがひどく、きつい臭いが充満していた。
「シルフ、我慢しよう。 村のためだもの」
殆ど光の入らない揺れる檻の中で、パルモはシルフに寄り掛かるようにしてそう呟いた。
しばらくすると檻が列車に乗せられ、移動を始めたのがわかった。貨物室に入れられた檻の中は暗闇となった。
真っ暗な中、パルモは不安に押し潰されそうになるのを必死で堪えていた。そしてあの美しい村を、故郷の景色を思い出しながら眠りについた。
「―了―」