29アスラ1

3386 【掟】

ルビオナ連合王国の東、バラク王国の外れにその集落はあった。

そこは文明の中心地からは遠く離れていたが、渦の惨禍から逃れることはできなかった。だがこの地に住む者達――ハイデンの民と呼ばれていた――は独特の適応を行った。文明世界が城塞に閉じこもる形で命脈を保ったのに対して、この地では自然の力と自民族の心身の強化によってそれに対応した。峻烈な精神をもってこの過酷な時代に適応したのだった。常に定住せず、谷や森を巡り、常に警戒を怠らず、老若問わずに苛烈な修養を行うことによって、その民族は漆黒の時代を生き抜いてきた。

いつしか彼らは、伝説的な民族として語られるようになった。

そのハイデンの集落にアスラという名の青年がいた。若くして『術』の天才と言われた男だった。どんな危険も恐れず、その目は毒を持つと恐れられた。彼は特に体術に飛び抜けて優れ、大人の術士でも彼に敵う者は数える程しかいなかった。

そのアスラが十六になったばかりの頃、彼は『成人の儀』に参加することを決めた。

『成人の儀』とはハイデンに古くからある伝統であり、その年に成人する者は村の外から渦の獣の首を持ってこなければならない、という通過儀礼だった。この試練は厳格であり、この試練に失敗すれば命は無く、例え帰ってきたとしても、獣の首が無ければ二度と村に入ることを許されず、時には射殺される事もあるというものだった。

ただ、その峻烈さ故、なかなか若人達が参加しないのが問題となっていた。

「十八人か。今年は随分と多いな」

成人の儀を取り仕切る最長老が呟いた。それに答えるのは実質的な指導者で、頭と呼ばれるマルガだ。顔一面に疵のある、精悍で威厳をもった壮年の戦士だ。

「アスラが参加を決めた所為かと。 あの男が参加するならばと、他の者達も腹を決めたようで」

「成る程な、若者らしい打算という訳か」

「奴の腕ならば、獣の一匹や二匹、殺して持って帰ることなど造作もないでしょう。しかし、それを当てにするのは感心できぬ話」

「確かにそうじゃ。 されど、生き残ることこそ強さの証。 打算もまた悪いことではない」

長老は長く伸びた顎髭を撫でながらマルガにそう答えた。

「アスラ、本当に成人の儀に出るの?」

武具を整えるアスラに、カマナという幼馴染みの少女が声を掛けた。

アスラは幼い頃に両親を亡くし、一人で暮らしていた。移動式の天幕には仕切りなど無く、入り口がすぐ居間であり寝室だった。そして、アスラの天幕は集落の標準と比べても質素で小さかった。

「ああ」

顔も上げずにアスラは答えた。

「なんか、みんな今年参加するみたいなんだ。 メイガもスナジも参加するんだって。知ってた? あと、キドウも行くみたい」

皆、同世代の若者達だ。だがアスラとの付き合いは殆ど無かった。黙々と己が術を鍛える彼に、友人と呼べる人間は一人もいなかった。両親を失った後に自分の面倒をみてくれたカマナの家族ぐらいしか、村の者と普段関わることをしなかった。

「知らないな。 興味が無いから」

アスラは武具の手入れを続けていた。小さなクナイと呼ばれる短刀を研いでいる。

「あたしも参加しようかな。 だって、みんなで行った方が成功しやすいじゃない。 あのキドウでさえ行くんだもの。 あたしだってさ」

キドウというのは足萎えの青年だ。とても成人の儀を達成できるとは思われていない男だ。

「やめておけ。 お前はまだその強さにない」

「そう? あたしだって結構やるのよ、こう見えても」

からからと笑いながら少女は気安く答える。カマナは、アスラはただ不器用なだけで、感情を表に出さないだけだと理解していた。だから今までずっと、努めて明るく彼に接してきた。

「忠告したぞ」

「おお怖い。 アスラ、あたしも成人の儀に出るからね。 決めた」

そう言ってアスラの天幕からカマナは出て行った。結局、アスラは一度も顔を上げることはなかった。

成人の儀が行われる日、参加する若者達とそれを見送る親族が村の入り口の前に集まった。随分な人数になっている。十八人の参加者の中には女も五人いた。恋人同士で参加している者が殆どだ。女に成人の儀の義務は無かったが、成人できていなければ村での地位は低いままだ。男の場合は二十歳を過ぎるまでに成人の儀を達成できなければ、集落から追放となった。

「お前達が持って帰る『獣』の首はなんでもよい。 ただし、一人に一つだ。 これはお前達が真にハイデンの強き民として相応しいのかを試す試練だ。 自分の全力を用いて事に当たるがよい。わかったな」

頭の言葉に「はい」と若者達が答える。

ぞろぞろと若者達は村を出て行った。若者達を見送る親達の中には涙を浮かべている者もいる。そこにカマナの両親もいた。

「カマナ、必ず帰ってくるんだぞ」

「心配しないで、アスラもいるんだから」

笑いながらカマナは両親にそう言った。

若者達が村を出て二晩が経った。初めはちょっとした旅行気分だった彼らの心にも、少しずつ不安が広がり始めていた。リーダー格のメイガと呼ばれる体格のいい男が、皆を集めて話しを始めた。

「明日には獣の出没する境界に近付くことになる。 皆で協力し合って試練を達成するんだ」

「でも、どこに行けば獣を見つけられるんだ? 手頃な獣がどこにいるかなんて知らねえぞ」

「それは皆で協力して……」

メイガの話に反発の声が上がる。

「そんな悠長な話でいいのかよ」

焚き火の周りに集まった若者達は、不安と興奮から好き勝手な意見を述べ始める。

「ねえ、アスラ! ここら辺まで来たことある? どっちに行けば獣がいるの?」

何も発言しないアスラに、カマナから話を振った。その一言が発せられると、一斉に皆がアスラを探した。しかしアスラは見当たらない。皆、近付き難いが村一番の使い手であるアスラに期待していた。奇妙な静寂が辺りを包む。

「東だ。 このまま東に行けば、何度か獣を見かけた場所に着く」

アスラの声だけが響いた。おそらく気配を消して木の上で休んでいるのだろう。

彼は成人の儀など関係なく、何度も獣と戦っていた。本来、成人前の子供が村の外に出ることは許されていない。ただ、卓越した術の使い手であるアスラは、特別に咎められることもなく村と外を行き来していた。

「だってさ。 東に行ってみない?」

カマナが提案する。

「どんな獣に遭ったんだ? 十角獣? それとも火吐鳥?」

他の者からも質問の声が上がる。どちらもよく知られた獣だ。中型で、油断しなければ大した脅威ではない。

「どちらもいた。 ただ、気を付けた方がいい」

アスラの姿はまだ見えない。声だけが低く響く。

「よし、ならば決まった。 明日、東に向かうぞ。 なるべく早く出よう。 危険な場所で夜を迎えるのは避けたいからな」

騒然とした一夜の集まりは、こうして終わった。

次の日、若者達は東へ進んだ。アスラの姿は見えない。少し集団から離れて進んでいるようだ。

しばらくすると、キドウが集団から遅れ始めた。ここまでは何とか集団に付いてきていたが、そろそろ無理が出てきたようだった。

「キドウ、諦めて帰ったらどうだ? お前には無理だ」

森に笑い声が響いた。

「泣いて謝れば、きっと長老様も許してくれるぞ」

また笑い声が湧く。キドウは笑い声を無視して、不自由な足を引き摺って付いていく。「俺は諦めない」と、誰にも聞こえないくらいの声で呟きながら。

しばらくすると、前方の森の茂みが大きく揺れた。誰かが叫んだ。

「十角だ!」

子牛くらいの大さで、十の角を持つ四足獣がこちらに顔を見せた。

「そら、追い立てろ」

集団が色めき立った。こんなに早く適当な獲物が見つかったのは幸運だった。

「俺が一番乗りだ」

興奮した様子の若い男が十角を追って走り出す。次々と争うように四、五人が隊列から離れて、回り込もうと森に散った。

すると森の中から悲鳴が上がった。集団に戦慄が走る。

「まさか、十角なんかにやられたのか?」

彼らも、アスラ程ではなくとも術は心得ていた。それぞれ自分専用の武具を持った、若くとも鍛えられた戦士であった。

「まさか」

残った者達がしばらく動けないでいると、血生臭い匂いが周りに立ち込めはじめた。

「くそ、何が起きたんだ!?」

回り込んだ集団を助けようと、二人がまた森に消えた。

「なに? どうしたのみんな! ねえ、返事して!!」

残った集団は女の方が多い。 不安で震えている者もいる。

「ねえアスラ、どこ? 助けて!」

カマナが叫んだ。

「俺はここにいる」

アスラの声がする。

「十角を追っていったみんなから、返事がないの」

カマナの声は泣き声に近い。

「忠告したはずだ。気を付けろと」

アスラの声に感情は籠もっていなかった。

「冗談はやめて出てきて! 向こうに何がいるの? お願い、私達と一緒にいてよ」

返事は無い。

何かが森を高速に走る音が静寂を破った。残った集団の前の森が、勝手に開けたかのように木々を倒していった。

その向こうに巨大な『獣』がいた。それは漆黒の巨大な蜘蛛だった。何もかもを切り裂く鋭い脚とその色から『黒曜蜘蛛』と呼ばれている獣だった。その脚から真っ赤な鮮血が滴り落ちている。蜘蛛は何体もいた。待ち伏せしていたのだ。集団は蜘蛛に囲まれていた。

狼狽した一部の者を除き、若者達は剣を構えて蜘蛛と対峙した。

しかし次の瞬間、一斉に蜘蛛の脚に切り裂かれる。蜘蛛のたった一振りで、三人の首が宙を舞った。

「アスラ!!」

カマナの悲痛な声が響く。だがその声を上げたまま、彼女は蜘蛛の餌食となった。振り下ろされた爪は肩から胸に至るまで彼女を引き裂いた。遠ざかる意識の中でアスラの声が聞こえる。

「俺は言った。 やめておけとな」

冷徹な言葉が、蜘蛛達が餌食を屠る音に混じって森の中に響いた。

陰惨な宴が終わった後の森に、再び静寂が広がった。気配を消していたアスラが地上に降り立つ。

「弱いからこうなる」

一人呟いた。だがその時、何かの気配を背後に感じた。そこにいたのはキドウだった。その手には十角の首がある。

「うまくやったようだな」

「アスラ、こいつらを見殺しにしたのか?」

「いいや、弱いから勝手に死んだだけだ」

「そうだな、弱いから死んだんだな」

キドウの顔に笑みが浮かぶ。

「先に行く」

アスラは足下に置いた黒曜蜘蛛の首を抱えて去っていった。若者達を襲った蜘蛛は全てアスラの手に掛かり、首を失っていた。

アスラの帰還に村は騒然となった。成人の儀に参加した若者の親達が、アスラの元に集まっている。

「本当に、本当に皆やられたの?」

「黒曜蜘蛛の待ち伏せに遭った。 俺が追い付いた時には、皆死んでいた」

「なぜなの、アスラ。 あなたが付いていながら!」

カマナの両親がアスラを責める。

「悲しむな。 弱い者は生まれてこなかったのと同じ。 それがこの村の掟じゃ」

長老が間に入ってそう両親を諫めた。残酷な掟を長老は繰り返し述べる。その場にいた親達は泣き伏せった。

「よくやったな、アスラ」

頭のマルガが首を受け取りに来る。

「これでお前はハイデンの民、ハイデンの男となった」

アスラは無表情に頷き、巨大な蜘蛛の頭をマルガに渡した。

騒ぎを後にして天幕に戻ると、静かに横になった。同世代の仲間を見殺しにした。しかし、後悔は全く無かった。

「弱いから死ぬんだ。いや、弱い者は死ななきゃならない」

そう呟いた。

そして天幕の天井を見ながら、母親の最後を思い出していた。

アスラが幼い時に母親は病に侵され、徐々に痩せ細っていった。父親はもっと前に獣に殺され、その思い出はアスラの記憶に無かった。母親はたった一人で彼を育てていた。しかし病はひどくなるばかりで、伏せっている日々が続いた。

十年前、六歳の時、村の移動の日が近付いてきた。村は三年に一度移動をする。その時、付いていけない者は置いて行かれるのだ。

これはこの部族が生き残るために行ってきた手段だった。一族から弱者を廃する意味もあった。母親は悲しむ素振りも見せずに、アスラの手を握って何度も言った。「しかたない」と。今は母親の顔も思い出せなくなっているが、その細く白い指先の感触は、今でもはっきりと覚えている。

とうとう出発の日が訪れ、母親との別れの時がきた。しかし、アスラは全く涙を流さなかった。母親は最後の別れ際に言った。「強く、強く生きなさい」と。

天幕も無く、雨晒しの地面に粗末な藁を敷いた上に母は寝ていた。他の家族と共に村から離れる時、アスラは何度も振り向いた。母親は半身を起こして、ずっとこちらに手を振っていた。

それが最後の姿だった。母親の最後の言葉だけが、何度もアスラの心に響いていた。

『成人の儀』の事件があった後、しばらくの間はアスラに感情的な敵意を向ける者達がいた。ただ、そんなアスラを庇ったのが、同じ成人の儀に参加してアスラ以外にただ一人帰還したキドウだった。

「アスラは皆を必死に助けようとしていた。 声高にそれを説明しないのは、彼の誠実さだ」と言い、「足萎えの自分が帰ってきたのが、その証拠だ」と皆に説明した。その内に、仲間を見殺しにしたのではないか、という疑義は忘れ去られた。

そうして『成人の儀』から三年も経つと、アスラは副頭目候補に挙げられる程になっていた。

感情を表に出さない、冷厳な性格で知られていたが、このハイデンの社会では強さこそが全ての尺度の中心であった。

「では、一族の新たな副頭目にアスラを任命する」

アスラはついに、頭から副頭目の証である鉢巻を受け取った。

証を身に付けて長老と頭、他の副頭目の前に出たアスラの瞳には、より一層冷たい光が宿っていた。

「―了―」