3378 【喪失】
「いい子だから、もう少し我慢してね。すぐに治してあげるから」
夜の闇の中、マルグリッドは毛布にくるまれた我が子をしっかりと抱き、早足で歩いていた。髪は乱れ、顔からは血の気が引いている。しかし、その中で目だけは異様な輝きを帯び、辺りを警戒するように絶え間なく動いていた。その姿を見る者があれば、すわ事件かと驚愕しただろう。それ程にマルグリッドの表情は鬼気迫っていた。
「もう少しだから、もう少し。いい子ね」
マルグリッドの口から繰り返し呟きが漏れる。その言葉に反応するかのように、胸に抱いた毛布の中からきゃっきゃっという声が上がっていた。
◆
マルグリッド達は無事に研究所へ辿り着いた。
「私達のことなど、誰も興味などないはず……」
自分にそう信じさせるように呟き、研究所の中に入った。そこにはマルグリッドの研究を手伝った研究員が待っていた。
「連れてきたわ。急いで始めましょう」
研究員は頷くと、子供の衣服を脱がせて「ゆりかご」へと寝かせた。そして、その体にチューブや電極を次々と取り付けていく。必要な事とはいえ、我が子の体に機器が取り付けられていく様子は、母親には直視することのできない光景だった。マルグリッドの目に涙が浮かぶ。
「……駄目よ。ここまできたのだから」
これが成功すれば助かる。親子三人、平和に、幸せに生きることができるのだ。
「準備、完了しました」
「……開始します」
「ゆりかご」の蓋を閉めると、泣き声が小さくなる。マルグリッドは表情を変えないまま、レバーを倒した。「ゆりかご」が小さく振動し、続いて、虫の羽音のような小さな音が鳴る。
「起動成功。このまま経過を観察しましょう」
◆
「ゆりかご」は順調に作動していた。このまま行けば子供の命は助かる。血の気が失せていたマルグリッドの顔にだんだんと赤みが戻ってくる。この実験の結果でどのような事態が生まれるのか、そんなことはマルグリッドには関係が無かった。彼女にとっては、自分の子供を救うことだけが全てだった。
◆
「ゆりかご」が起動してから一時間が経過した。そろそろ子供の様子を確認しなくては。マルグリッドがそう思って立ち上がった瞬間、
「そこまでだ! 全員動くな!」
扉を開けるけたたましい音と男の叫び声。
「審問官だ!」
研究員の男が叫んだ。
マルグリッドが振り返ると、銃を構えた兵士の姿が目に飛び込んで来た。その数五人。非武装の研究員に抵抗する術は無い。
「全員拘束する。そのまま床に伏せろ!」
なんということだろう。あと少しなのに。なぜ今妨害されなければならないのか。マルグリッドは審問官に逆らって作業を続けようとした。
「早く伏せろ、女。この場で射殺されたいのか」
「くっ……」
「マルグリッド……言うとおりにするんだ」
「イオースィフ!?」
マルグリッドの目が絶望と悲哀で大きく見開かれた。
「まさか、あなたが私達のことを……」
「……そうだ」
イオースィフは心底疲れた表情を浮かべながら、マルグリッドに目を合わすことなく、か細い声で答えた。
「こんな事はもうやめよう。あの子に残された時間を家族で過ごそうじゃないか?」
「……イオースィフ。それじゃ……」
マルグリッドの目から涙がこぼれ落ちる。
「もう無理なんだ。これは運命だ、マルグリッド。 一からやり直そう」
マルグリッドはようやくイオースィフを理解した。彼には己の保身と打算しかない。私にはこの子のいなくなった世界など考えられない。
「……そうはいかないわ。この子には生まれてきた意味があるの。私は絶対にこの子を殺させたりしない」
「動くな、女!」
マルグリッドは隠し持っていた短銃を引き抜いてイオースィフに向ける。だが、引き金を引く前に複数の弾丸が彼女を襲った。マルグリッドの体は弾き飛ばされ、「ゆりかご」へと激突する。倒れた体の下から、真っ赤な血がじわじわと流れ出ていた。
「私の…ク……」
「マルグリッド……馬鹿なことを」
我が子を守らなくては。マルグリッドはふらつきながら立ち上がり、「ゆりかご」の蓋を開けた。その背中に、さらに数発の弾丸が着弾した。衝撃を受け、マルグリッドの体は「ゆりかご」の中へと転がり落ちる。
「ああ……いい子ね。もう少しだから……」
この子を守らなくては。私が、私だけがこの子を守れるのだ。この世界でただ私だけが、この子を守ることができる。
マルグリッドは執念の力によって血に塗れた腕をあげ、「ゆりかご」の蓋を閉める。そして、我が子をその手に抱きしめた。
◆
「馬鹿なマネを」
突入してきた審問官の長が呟いた。射殺したマルグリッドをそのままに、資料の回収と研究員達の拘束を続けさせた。
そしてしばらくすると、傍らにいた若い審問官に命令を下した。
「おい、子供がまだ生きているかもしれない。確認しろ。それとあの男は邪魔だ、もう帰ってもらえ」
黙々と作業を続ける審問官達の間に、「ゆりかご」の前で立ち竦むイオースィフがいた。
「了解しました」
「イオースィフさん。お子さんが生きてるかもしれません。 ご一緒に家まで送らせます」
「……あ、ああ」
一人の兵士が「ゆりかご」の蓋を開けた。そこには血に塗れたマルグリッドと、安らかに眠っている子供の姿があった。
「まだお子さんは生きているようです」
そう言って子供の体に手を伸ばした時、その手を何かが、ひし、と掴んだ。
「ん……な、何だコイツはっ!?」
慌てて「ゆりかご」の中を見ると、先程までそこにいた筈のマルグリッドの姿は無く、代わりに大きな犬のような獣がいた。その獣は兵士の腕に足を乗せている。
「化け物だ! 助けてくれ!」
兵士の叫び声は途中から絶叫に変わった。腕を噛み千切られ、床を這いずって逃げる。しかし、獣がその上に躍り掛かり、兵士の喉笛を食い破った。
「戦闘態勢! 銃だ! 銃を!」
銃を構える兵士達の前に、次々と「ゆりかご」の中から獣が姿を現す。まるで生えてくるように、獣達はその数を増やしていった。
「……殺せ」
女性の呟きが聞こえた気がした。しかし次の瞬間には、兵士も研究員も、その場に立っていた全ての人間が獣達によって蹂躙された。血と肉片が飛び散った研究室の中央で、子供は安らかな寝息を立てていた。
そしてその傍には、一人無傷で残ったイオースィフの姿があった。
「―了―」