30ブロウニング1

2837 【ケース】

物語が語られることには必然がある。だが、今の俺には何も無い。同じ事が繰り返される平凡な日常。依頼人にとっては重要な事も、自分にとっては類型的な作業に過ぎない。

「で、彼女の本心を確かめたいと?」

幸せの形は一つだが不幸の形は人それぞれ、と昔の人は言ったらしいが、俺にとってはそうでもない。

「ええ、僕としては彼女の気持ちを尊重したいだけなんだ。 もし僕のことが嫌いで誰か他の……」

端末の向こうで、依頼人になる予定の男が何かを訴え始めた。不信、不義、不満がない交ぜになった独白だ。

俺はお定まりの浮気調査に飽き飽きしていた。

「では指定の額を振り込んでいただいたのを確認してから、調査を開始します」

相手の気持ちが落ち着いて話が途切れたのを見計らい、定型の言葉で通信を切った。

俺はデヴィッド・ブロウニング。このローゼンブルグ第十階層の冴えないビルの一室で探偵業を営んでいる。

そうは言っても今の時代、昔のパルプ小説のような気取った依頼などありはしない。

巨大な虚栄の都市ローゼンブルグであっても、持ち込まれる依頼といえば浮気調査にせいぜいペット捜索――この時代、生身のペットは流行の贅沢だ――、全て統治機構の警察機関が無視するような他愛もないトラブルばかりだ。

そもそも、この巨大都市の第十階層の社会情勢は安定している。人間とオートマタの構成比率は1対1.2を超える。つまり一人につき一体の完璧な奴隷がいるのだ。人々の暮らしに憂いなど無い。ただ、その憂い無き世界でも、いや、その憂いの無い世界だからこその濁った空気がある。同じ日常、皮相的な流行を追うだけの日々。ただ感情を弄び、死までの時間の暇潰しに充てているだけだ。

俺はこの世界を気に入っていない――世界の方も俺を必要とはしていないだろうが――。それでも、これ以上階層を降りる度胸は無かった。所謂支配階級の人間達が住む、一桁台の階層からの支配に逆らう気力も無い。ただ、見かけだけでも、こうして何か自由であるかのように振る舞い続けていたいだけだ。結局、社会からのアウトローを気取っても、自分のやってることなどままごとみたいなものだ。そういう役割を世界から許されているに過ぎない。誰かに取り替えられても問題のない人生、世界の書き割りみたいなものだ。それでも日々の生活は続いていく。

依頼人との約束の時間からは三十分程過ぎていた。階層の西の端、古くさい時代を模した街角にある、昔の映画に出てくるようなダイナーで依頼人と会う約束をしていた。

「すこしふっかけてやるかな」

時間は夜の九時を回ったところだった。

コーヒーのお代わりをオートマタのウェイターに頼み、趣味のパルプ小説を取り出して続きを読むことにした。物語の中で主人公は美しい女クライアントと微妙な距離感の会話をしていた。

しばらく本に夢中になっていると、外が騒がしいことに気が付いた。表通りを警察車両がサイレンと共に走り抜けていった。

チップと料金をカウンターに置いて、パルプ小説をコートのポケットに仕舞い外に出た。オートマタにチップが必要とは思えないが、ここではそういう習慣になっていた。

すでに野次馬達が通りに溢れている。目の前の通りを警察官達が封鎖し始めていた。

「武装した危険な強盗犯が逃げています」

「路上に出ている人は封鎖した地区に入らないように。危険です。 建物の中に戻ってください!」

拡声器で警察官ががなり立てている。サイレンの音は鳴り響いたままだ。

武装強盗とは、この階層では珍しい出来事だ。騒ぎに引き付けられた人々がどんどん増えている。

少し思案し、このままだと時間を取られそうだったので事務所に戻ることにした。どうせ依頼人も来そうにない。

大通りから少し離れたパーキングに人気は無かった。非常線が張られた騒ぎに人が集められたせいか、遠くに響くサイレンの音以外は、やけに静かだった。

俺がドアを開けようとすると、何かが車に当たる音がした。

音がした方を見やると、怪我をした若い男がしゃがみ込んでいた。

「どうした、大丈夫か?」

十七、八の明るい髪色の、整った顔立ちの青年だ。駐車場の壁と車の間で、身を潜めるように座っていた。

「ブロウニングさんですよね……」

「ああ、そうだが。 怪我してるよな」

その青年に見覚えは無かった。立ち上がった彼の手には、不釣り合いなトランクケースがあった。

「平気です。 これをあなたに預けに来ました」

「届け物はいいが、物騒だな。 話は車で聞こう。 医者が必要なようだ」

青年の着ている小綺麗なスーツの前面には、黒い血がべっとりと付いていた。俺はドアを開けて、彼を助手席に乗せようとした。

「これを届けてください。サーカスに。頼みます」

青年はトランクを助手席に置くと、後退りしながらそう言って、裏通りを走り出した。

「おい、ちょっと待て!」

車のドアを閉めて彼を追いかけた。

青年は怪我をしているとは思えない程の速度で走っている。角を次々と回りながら、まるで追跡者を撒くように逃げていく。体力に自信がある自分でも驚くような早さだった。

二つ三つ角を曲がると、結構な距離を離されてしまった。

声を上げて彼を止めようとするが、息が上がって大声が出せない。ビルの壁に手をあてて息を整えていると、手前の路地から銃を構えた警官隊が飛び出してきた。咄嗟に頭を屈めた。あいつらの追っている武装強盗とやらに間違われて撃たれる訳にはいかない。

「いたぞ!」

「止まれ。止まるんだ!」

警官隊の叫び声が聞こえると、すぐにおびただしい銃声が聞こえた。

そっと壁から離れながら、銃声と青年が逃げていった方向を見た。警官の足の間から倒れた青年が見える。警官達が追っていたのはあの青年だった。

彼の手には何も無い。丸腰の青年を警官達は撃ち殺したのだ。何かおかしい。この場から離れなければと判断して、俺はまた車に戻った。

助手席には、あの青年が俺に渡したトランクがあった。警官に追われた青年、残された謎のトランク、巻き込まれた私立探偵。プロットは陳腐なフィクションだが、この状況は俺にとってシリアスだ。

一瞬、トランクを窓から放り出してそのまま走り出そうかと迷ったが、真剣な青年の眼差しを思い出し、やめた。

事務所はいつも通り誰もいない。俺はソファーに腰掛け、天井を仰ぎ、大きく息をついた。

気持ちを落ち着けたつもりで座り直し、煙草を出して火をつける。だが、その手は小刻みに震えていた。小説の主人公の様にはいかない。ただ、そんな自分におかしみを感じて苦笑した。

誰かに相談すべきだろうか?

真っ先に浮かんだのは義父のマークだ。死んだ父親の代わりに母親と結婚した男だ。

俺の父親は捜査官だった。つまらない仕事上のミスを悔やんで自殺した。とりあえず、そういうことになってる。

そして父親の同僚だったマークが母親と再婚した。俺が十一歳の時の話だ。マークとは特に悪い関係じゃない。

説教がましいところはあったが、誠実な態度で接してくれた。

捜査官としても理想的な男だ。ドラマに出てくるグッドコップそのままの男。

ただ、どこかで距離があった。

俺は何度も捜査局に誘われたが、その都度断った。どこかにあったその距離、わだかまりのせいだ。

まあ、そんなことはどうでもいい。それより、マークは面倒ごとを楽しむタイプじゃない。この事も仕事として、捜査官として処理してくれるだろう。

ローテーブルの上に置いたトランクをしげしげと眺める。トランクの作りはいい。金具も、張られた革も安物ではない。

開けるべきか開けないべきか、俺は思案していた。

トランクを開けずにマークに渡し、起きたことも全部正直に話して、あの死んだ青年のことを忘れる。

トランクを開けて中身を確認し、死んだ青年の謎を調査する。

パルプ小説の主人公だったらどちらにするかは、考えるまでもない。

トランクを前にしたまま俺はソファーに横になった。そして煙草の脂で茶色に変色した壁紙の花を眺めた。

印刷された壁紙の花は繰り返されている。ずっと見詰めていると、すぐにどこを見ているかわからなくなる。

同じことの繰り返し、変哲のない人生、書き割りの人生。繋ぎ合わせられ、適当な場所で断ち切られる人生。

俺は起き上がり、トランクの蓋に手を掛けた。少し血が付いているが、それ以外は大きな傷もへこみも見当たらない。

手前にはダイアル式の鍵が付いている。壊して開けてもいいが、なんとなく躊躇した。

ちまちまと数字を合わせていく。

こんなシーンはパルプ小説で何度も見た筈だが、主人公達がどうやって開けたかは思い出せなかった。

上着を脱ぎ、一時間程鍵と格闘すると、鍵が577でカチリという音と共に外れた。

思わず、小さくよしっと呟いてしまう。

トランクの扉をゆっくりと開けていった。そこにあったのは、灰色のリールに収まった二本のフィルムだった。

フィルムを目にするのは初めてだったが、どんなものかは知識としては知っていた。時代小説に出てくる巨大な海賊船と同じ程度だが。

アナクロ趣味の自分にぴったりのアイテムといえた。まるで仕組まれているかのように。

トランクに収まったフィルムを手に取ろうとした時、事務所の扉を誰かがノックした。

「―了―」