06クレーニヒ4

3394 【因果】

父が死んだ。

協会《アカデミー》からの知らせには、ローゼンブルグへ向かう飛行艇ごと行方不明になったと記されていた。が、そうではないことをクレーニヒは知っていた。

父がいなくなることを、ボクが望んでいた?

クレーニヒに自覚は無かった。しかし父がいなくなって、心の中で重荷に感じていた何かが無くなった様な、そんな開放感があるのもまた事実だった。

あれ以来、幻獣は口を開こうとしなかった。普段はどこにも見えないのだが、ふと姿を探そうと視線を動かせば、その先にはクレーニヒをじっとみつめる幻獣が必ずいた。まるで忠実で有能な執事であるかのように。

父親がいなくなってもクレーニヒの生活は変わらなかった。家の中では自動機械《オートマタ》が殆どのことをやってくれる。遙か昔の黄金時代とは比べられないのかもしれないが、それでも、ほぼ無尽蔵に生み出されるエネルギーによって、市民の生活は一定水準が保証されていた。全ては工学師《エンジニア》達の導都パンデモニウムが、何世代にも渡って秘匿し続けてきた技術のおかげだ。

ただ一点、クレーニヒ自身の幻覚症状がますます激しくなってきたことは問題だった。何となく目を開いているだけの時でさえ、まるで異世界がそこにあるかのような幻が迫ってきた。一時は目を潰そうとすら本気で思い悩んだが、幸運にもその蛮勇が発揮される前に対処法を見つけることができた。

クレーニヒ自身が何かに集中していれば、幻覚を見る頻度が下がることに気が付いたのだ。

色々と試した結果、最も有効だと思えたのは本だった。文字を追い、文章を読み、頭の中でその内容を考えていれば、幻を見ることは少ない。

それ以来、クレーニヒはいつも何らかの本を持ち歩くようになった。

いつものように、クレーニヒが読み終えた本を本棚に戻そうとすると、ある書類ケースが目に留まった。それは幻獣と初めて出会った図書館で見つけたものだった。あの時は無我夢中だったため、そのまま持って帰ってしまった。

「そういえば、何かの研究レポートだったな」

改めて手に取ると、表紙には「異端研究報告書 No.983」と書かれ、「機密」の赤文字が躍っていた。

「……倫理規定違反……ケイオシウム管理法違反……特定研究禁止事項違反」

次のページには研究の停止に至る理由が列挙されており、ページの最後に「3378年抹消」と書かれていた。だが、それが逆にクレーニヒの好奇心を刺激した。

「ケイオシウムと人間との親和性について……?」

読み進めていくと、異端研究の主題がそう記されていた。

――ケイオシウム。

莫大なエネルギーを生み出す一方で、暴走することによって多くの命を奪う危険性がある諸刃の剣。公的な記録は既に失われているものの、渦《プロフォンド》をもたらし、全世界を荒廃させたのもまた、ケイオシウムが原因であると言われていた。導都パンデモニウムが保持する技術の中でも、かなり重要なものであることに間違いはない。そもそもパンデモニウムが半永久的に浮遊していられるのも、ケイオシウムの生み出す無限のエネルギーのおかげだった。

この報告書は抹消された異端研究の概要と成果についての記録であり、パンデモニウムの統治機構内で機密として扱われたものらしかった。

資料としてかなりの量、実際の研究で使われたデータと知見が添付されている。

「ケイオシウムの持つ確率と因果律の変動係数……なんだこれ、なんて読むんだろ……が、現在を表す……また読めない……に影響を及ぼすことにより……?」

研究の前提理論からしてクレーニヒにはさっぱりわからなかったが、どうやらケイオシウムを上手く使えば、過去や未来すら変えられる可能性があるらしい。もし本当ならすごいことだとは思うが、この十年でそんな成果が上がったという話題は耳にしたことがない。それに、この研究自体が中止されているものだ。

「つまり、ケイオシウムを使って人間の過去や未来に影響を与えようとしたのか?」

難しい理論は読み飛ばし、パラパラとページを捲っていくと、最後に付記されたあるリストが目についた。

主研究者と被検体が列挙されていた。

主研究者のところには、母の名と「抹消」の文字。

そしてリストの最後には、まるでそれが些細なことであるかのように、小さく記載された被検体の名があった。

「被検体名、クレー……ニヒ……?」

音もなくクレーニヒを見つめる幻獣の目が、微かに嗤っていた。

幼い頃に、母親について聞いてみたことがある。

「お前の母さんは、心の病気にかかって亡くなってしまったんだ」

普段あまり感情を表に出さない父が、ひどく辛そうな顔をしていたのを覚えている。それ以来、クレーニヒは母親のことを尋ねることはしなかった。母が精神を病んだのは事実らしい。

そしてその心の病にかかるまでは、父と同様に上級工学師《テクノクラート》として様々な功績を上げていた、という噂を聞いたこともある。

クレーニヒはその母の、最後の研究報告書を手にしていた。

自分の子をケイオシウムの実験に使い、統治機構から異端者として排除されたのだった。

「父さんがあんな態度をするのも、頷けるってもんだよな……ははっ」

可笑しかった。本当に滑稽だった。

「ああ、そうか……最初から……狂わされていたんだ……」

ようやく得心がいった。クレーニヒはそんな表情で顔を上げた。

いつの間に外に出たのだろう。

始まったばかりの曙光の時代《ドーンライト・エイジ》において、導都パンデモニウムは唯一とも言っていい平和な街だった。今はもう失われつつある技術を使って築かれた浮遊都市。工学師《エンジニア》達の楽園。ケイオシウムによってもたらされる無限のエネルギーは、人々の生活を豊かに彩っていた。

幸福を絵に描いたような桃源郷。その光はクレーニヒには眩しすぎた。

突如、6アルレ(9メートル)ほど先を歩いていた女性が甲高い悲鳴を上げて倒れた。首筋から、まるで冗談のように血飛沫を上げてゆっくりと崩れ落ちる。刹那の時間を置かずに、近くを歩いていた家族連れの首が消え、先の女性と同様に血潮を噴き出して、折り重なるように倒れ伏した。道路の中央では、馬車を引いていた機械馬が別の馬車に全速力で突っ込んだ。どちらの馬車も御者の男性が頭から地面に叩きつけられ、すぐに動かなくなった。本来なら機械馬同士のセーフティが働くため、絶対にありえない筈の事故だった。街灯が明滅を繰り返し、あちこちから悲鳴と叫び声が上がっていた。

立ち尽くすクレーニヒの目の前には、先程の平和な街の面影は一片たりとも残されていなかった。

『どうだ? これでいいか?』

声が聞こえたのと同時に、目の前に幻獣が現れていた。

――オマエの望みを叶える。

幻獣はそう言った。

「まさか、これはお前がやったのか……」

『違うな。オマエが望んだのさ』

どこかで火の手が上がっていた。

「嘘だ! ボクはこんなこと望んじゃいない! こんな、こんな……」

『羨ましかっただろう? 妬ましかっただろう? 無くなればいいと思っただろう?』

「思ってない! 思ってない! 思ってない!」

まるで駄々をこねる子供のようにクレーニヒは首を振る。耳を塞いでも、幻獣の声が容赦なく彼の頭に届いた。

『オマエが望めばこそ、オレは力を振るうことができる。さあ願え。次はどんな殺戮と破壊を繰り広げようか?』

「やめろ!」

クレーニヒは幻獣の目から逃れるように走り出した。道路に飛び出したその目前に馬車が迫っていた。

「!?」

御者台の男が慌てて機械馬を静止させようとするが間に合わない。クレーニヒは思わず目を閉じ、衝撃に身体を竦めた。

ズシャッ。そんな音が響いた。

クレーニヒは跳ね飛ばされていなかった。恐る恐る目を開けると、確かに馬車は停止していた。しかし、クレーニヒに衝突する筈だった機械馬は、まるでクレーニヒのいる空間自体に切り裂かれたかのように、正面から真っ二つに分断されていた。

「いやあああ!」

歩道の女性が悲鳴を上げた。彼女はクレーニヒの目の前に停止している馬車の御者台を指差していた。

そこには機械馬と同様、真っ二つに切り裂かれた御者の身体があった。

『さあ、望みを思い描け。オレはオマエの望みを叶える力を与えよう』

その身体を鮮血に染めて、灰色の幻獣がクレーニヒに言った。

「―了―」