3393 【人形】
「ねえ、買い物に行ってもいい?」
妹のメリアが、ねだるようにブレイズに言った。
「無理するな。 街に出るのはまだ早いだろう」
ブレイズはパンデモニウムから離れてずっと、戻るべきかそれとも二人で逃げるか逡巡していた。
「そんなことない、今日で十日目よ。 病院にいるよりずっと調子がいいわ」
日々の小さな幸せが、却ってブレイズを迷わせた。
「代わりに私が行こう。何が欲しいんだ?」
「兄さんの好きな物をつくってみたいの。母さんがよくつくってくれたスープよ」
楽しそうにしているメリアを見ていると、まるでパンデモニウムでの日々が幻のように感じる。
レジメントから帰還して家族として暮らした、短かったが幸せだった日々が帰ってきたかのようだった。
◆
食事を終えてしばらくすると、ノックの音が響いた。しかし、誰にも自分達がここに帰ってきたことを知らせていない。
メリアに寝室に行くよう合図を送り、ブレイズは戸口へ向かった。
「誰だ」
「私です。ブレイズ」
誰何に答えた声は、協定監視局の技官だった。
「心配はありません、一人です。 入ってもいいかな?」
ブレイズはドアを開け、上司である技官を招き入れた。
「なかなか良いところですね。地上にしては清潔で」
帽子を脱ぎ、技官は部屋を眺めて言った。
「妹さんは元気なようですね」
「ずっと監視していたのか?」
「あなたは我々にとって重要な人材ですから」
慇懃な態度は変わっていない。
「いつ戻るのですか? 仕事がかなり溜まっていましてね」
「必ず戻る。 もう少し休ませてくれないか」
ブレイズの言葉を聞いて、技官は口元に薄ら笑いを浮かべた。ブレイズは怒りを感じていたが、ここでその怒りをぶつけても、何も解決しないことも理解していた。
「ふうむ。しかし口約束だけというのもよくありません。そうだ、妹さんと話をさせてもらえませんか?」
「妹は関係ない」
ブレイズの語気が強くなる。
「いや、大いに関係があるのです。力尽くであなたを働かせるのは難しい、というのはよくわかっていますから。話し合いをしたいだけです」
「妹に手を出すというのなら、私はお前達を生かしておかない」
「誤解しないでいただきたい。誰があなたの妹さんを治療したのですか?」
技官は薄ら笑いをまだ浮かべている。
「まあいいでしょう。では、妹さんを見てきた方がいい。私を近付けたくない気持ちはわかります。ですが、もしもがあるといけない」
ブレイズは技官の態度の不遜さに嫌悪と脅威を感じ、メリアのいる部屋に急いだ。
「兄さん、苦しい」
メリアはベッドの上で苦しんでいた。激しく胸を押さえ、のたうつように身を捻って苦しんでいる。
「どうした!」
ブレイズはメリアの手を握り、落ち着かせようとする。
「……助けて、兄さん……」
そう言って、メリアの手から力が抜けた。
「メリア!」
抱きかかえるようにしてブレイズはメリアに声を掛けるが、メリアはもう反応しなかった。意識を失い、人形のように力なく横になっているだけだった。
「もしもがあると言ったでしょう。 病状が安定していないのです」
「何をした、貴様!」
ブレイズはメリアをベッドに降ろすと、技官に掴み掛かった。壁に押しつけて締め上げる形になった。
「私を殺せば、あなたの妹さんは永遠に戻ってこない。 子供でもわかる道理です」
「とっとと戻すんだ」
ブレイズの手に力が籠もる。壁との間に挟まれた技官の顔が紅潮する。
「話し合いに来たと言ったでしょう。 手を離しなさい。 妹さんの意識が永遠に戻らなくなりますよ」
技官の首からブレイズは手を離した。怒りを感じていたが、同時に無力さも感じていた。メリアはまだ相手の手中にあるのだ。
「我々としては、あなたに義務を果たしてもらいたいだけなのです」
首をさすりながら技官は言った。
「私はいい。だが、妹をおもちゃにするな」
「あなたが逃げなければ、こんなことにはならなかった。よく考えてみるのです」
「俺が戻れば、妹を自由にするか?」
「あなたの働き次第だ」
「汚い奴らだ」
「逃げずに働けばいいのです。そうすれば、いつかここで再び暮らせるようになる」
技官の口元には、あの薄ら笑いが戻っていた。
◆
ブレイズとメリアはパンデモニウムに戻った。メリアは再び病院に収容された。しかし、まだ意識は戻っていなかった。
◆
「ドクター、手間を取らせました」
眠るメリアの傍らで、技官はドクターと呼ばれる男に何か小さな装置を返した。
「つまらん道具だ。この精巧な作品に瑕疵をつけるようなものだ」
受け取った装置をしまい、呟くようにドクターは言った。
「しかし、あなたの作品は素晴らしい。家族が一緒に暮らしていても気付かれないのだから」
「オリジナルの状態が良ければ問題無い。マックスを経たおかげで、格段に精緻になった」
「さすがだ。まったく、この技術は驚異ですよ」
技官の感心は世辞ではなかった。
「しかし、なぜ今になって動かしたのだ?」
ドクターは眠る少女を眺めながら、技官に質問した。死んだ少女の代理となる自動人形の作成を頼まれて以降、実際に動かすまで随分と間があったのだ。
「人間に詳しいドクターにこんなことを言うのは、失礼に当たるかもしれませんがね。人の心は一定ではない。一つところには留まってはいられないのですよ」
技官の語りは、己の陰謀に満足している風でもあった。
「希望を与えなければ、あの男も役に立たなくなる。 操り人形の糸は、きちんと緊張していなければならないのです」
ドクターは男の感想には関心を示さず、自分の作品たる自動人形の頬を指先で撫でると、その場から立ち去った。
「―了―」