31マルセウス1

2973 【帝國の建設者】

鏡の前で自分の顔を見つめ続けていた。齢を重ね、白髪と皺に覆われた老人がそこにいた。かつて完全な美を誇った相貌は失われていた。時は全てを破壊し、全てを無へと収斂させていく。

どんな成功や栄華も、巨大な死の連鎖の一部分でしかない。頭上で輝き続ける太陽も、いつかは暗い死の星へと変わる。

あらゆる人間の生は、熱的死への捧げ物に過ぎないのだ。

死を間近にして、私は虚無という名の暗い穴の底を眺め続けていた。

その闇に抗うために、私は自分の濁った瞳を見つめながら、幼い日々の、思い出せる限りの古い記憶を呼び起こそうとしていた。

「この子はデーモンよ」

若い女が私を抱きながらそう言った。

「万魔殿から生まれ出た悪魔か。しかし、この子のような者こそ、今の世界には必要なのだ」

私が母と呼ぶ女が、父と呼ぶ男と会話していた。

「お別れの時だ。 お前は一人で生きていくのだ」

父親は母親から私を取り上げ、床に下ろした。

「お前は優れている。 おそらく地上の誰よりもな」

その言葉は、今ならよく理解できる、だが、その時はわからなかった。

「そうなるように我々が作ったのだ。 地上から去る我々からの、最後の贈り物だ」

私は黙って父親の言葉を聞いていた。

「地上からオートマタはいなくなった。 したがって、残せるのはこれだけだ」

父親はそう言って、壁面に設置されたコンソール画面を指差した。

「この部屋がお前を守り、育ててくれるだろう」

こうして私は地上に取り残された。二人の顔はもう思い出すこともできない。ただ、最後の光景だけが記憶に残っている。

奇妙な人工知能が支配する部屋に三歳で取り残された私だったが、環境は完璧だった。

「ナニー」と呼んでいた人工知能の言葉と立体映像の指示に従って学び、育った。十三になった時に、部屋を封印して地上へ出た。

その時の地上には、渦の混乱を押さえる術は消え去っていた。各地で終末的な宗教が蔓延り、政治体制は混乱の極みに陥っていた。エンジニアの統治機構が存在していた頃は、政治的な混乱がゆらぎの範囲を外れることなど決して無かった。しかし、そうした社会工学を駆使した管理体制を失った地上は、急速に文化レベルを退潮させていた。

地上に出てすぐに、私はヨーラス大陸の南西にあるローデ共和国へ向かった。地政学的にここを出発点にしようと、初めから決めていた。ナニーの用意した身分を利用して寄宿学校へ入り、最終的には最高学府へと進んだ。その後、弁護士を経て政治活動を開始した。政治的混乱の中で沢山の党が乱立していたが、その中でも軍事的な急進派に属する党で頭角を現すこととなった。

ローデ共和国も他国の例に漏れず、国土は渦によって徐々に失われていき、存在しなくなったオートマタの代替労働力も無い状況であった。当然の帰結として、慢性的な物資不足によるインフレーションと社会的混乱が続いていた。

ついに、疲弊と混乱が膨らみきった国を治めるためにクーデターが発生し、救国的な軍事政権が成立した。

私は政治家として、政権内部における地位の階梯を少しずつ上がっていった。己の野心を隠さず、ローデを強国として繁栄させるという強い意志を示し、多くの人々の支持を集めていった。

軍事政権から文民である私へと権力が委譲され、新しく首相として選出されるや否や、渦の浸食によって都市国家群と化しつつあったローデに、強力な軍事的動員を掛けた。

そして、その軍事力を背景にヘプターク、アクイラ、シグニアといった周辺国家を吸収していった。ローデは新しく帝國として、混乱する大陸の中心に立ち上がった。

私は、目的を半ば達成して十分に大きくなった国を統べていても、心が踊ることはなかった。

まるで動物園の猿の檻に取り残された気分だった。愚かな地上の人間達を率いるのは簡単だった。ただ慎重に事を進めればよいだけだった。説得、脅迫、扇動の技術を完璧にこなし、他人を自分のように扱うことができた。だが、それは孤独な作業であった。

誰も私を止めることはできない。それはわかっていた。

誰も私を理解しないであろう。そのことも。

あの部屋を再び訪れたのは、己に与えられた目標――地上の混乱を収め、人々を渦の脅威から守る――を達したと感じた時だった。

「久しぶりだな、ナニー」

「ええ。 久しぶりですね、マルセウス」

ナニーの映像は、表情も言葉も慎重にコントロールされている。私に感情を授けたのは彼女だ。微妙な感情の差異も再現できている。

部屋の様子は、部屋を出て五十年は経っている筈だが、塵一つ無く、記憶のままの姿だった。

「私は上手くやっただろう?」

私はナニーに褒められたくて、ここに来たのだろうか。

「ええ、とても。 ここからずっとあなたを見ていましたよ」

ナニーの微笑みは完璧だった。子の成長を喜び、祝福する表情だ。

「私も老いた。 これからやることも無い。私はどうすればいいと思う?」

「それをここに聞きに来たのですか? あなたはそれを知っていますよね」

そうだ、知っている。可能な限り地上の混沌を押さえ、コントロールし続けるのだ。地上の守護者として、そう作られたのだ。

「そうだった。 ……ここに来たのは郷愁だろうな」

十年の歳月を過ごした地下の施設には、それなりの広さがあった。

今私がいるのは、居間として使用していたオープンなスペースだ。

会話を続けながら自分の個室――滑稽な定義だ。人間は私一人しかいない――へ向かった。

子供時代に様々な人工知能エージェントが、友人、教師として与えられたのを思い出した。

「彼女を呼び出して欲しい」

私はナニーに頼んだ。一人の少女が現れた。この立体映像の少女と私は一緒に育ったのだ。設定された教育プログラムの内、社会性を獲得するための物で、教育教材に過ぎない。だが、私の中では最後まで愛着のある存在だった。

「君は変わらないな」

十三歳の美しい少女が部屋に入ってきた。

「ええ、マルセウス。会えてうれしい」

私に抱きついてきた。感触は無かったが、私の心の中に子供の頃の気持ちが鮮やかに蘇ってきた。完全な美を持った私を受け入れてくれる友人がそこにいた。瑞々しい気持ちが心に溢れた。

「ねえ、ゲームの続きをしましょうよ」

テーブルを指差して彼女は言った。そこには、別れ際まで二人で遊んだチェスボードが置かれていた。

「ああ、やろうか」

テーブルに向かい合って他愛のない会話をしながら、ゲームの続きを始めた。

まるで五十年の歳月など無かったかのようだった。あの頃と違うのは、自分の目に映る老いた指先ぐらいのものだ。

「何も変わらないな。 この孤独の要塞の日々も、今なら楽しめそうだ」

「地上は大変だものね」

彼女の言葉は優しく響いた。

「ああ、気分のいい世界ではない。 朽ちていく世界を眺め続ける拷問だ」

こんな感傷的な言葉は地上では選ばない。思考まで子供時代に引き戻されていた。

「本当に。帰ってこれたのは、あなたが最初だものね」

ボードを眺めながら、彼女は何でもないことのように言った。

「最初とは?」

駒を握ったまま私は聞き返した。

「あなたは一人目じゃないのよ。 ここで創られたマルセウスは何人もいたわ。 その中で、目的を達成して帰って来たのは、あなただけってこと」

彼女はボードを眺め続けている。駒の動きを考えている。いや、彼女は巨大な人工知能の一部分、エージェントに過ぎない。ゲームの答えなど瞬時に出ている。これは演出に過ぎない。

「よく話がわからないが」

「あなたはクローンよ。 そしてここはあなたの工場。 エンジニアが地上を統べる人材を残すために作った施設なのよ」

母親の言葉が思い出された。デーモン。悪魔。

「記憶も全てコピーに過ぎない、という訳か」

「そう。 ただ、帰ってきたのはあなただけ。 前のあなたは、全て目的を達成する前に死んだわ」

自分は優秀だと信じていた。そして、目的を完璧に成し遂げられたと思い込んでいた。

「あなたは優秀だけど、運もよかったのね」

私は結果的に生き残っただけに過ぎない。世界をコントロールできるなどという幻想を持っていたのは、自分だけだったということか。

「私の親はよく考えていたんだな。目的のために」

声が震えていた。自分の傲慢と「私以外の私の死」の滑稽さに打ちのめされていた。

「悲しむ必要は無いわ。 あなたは優秀で、完全よ」

私は悲しんではいなかった。ただ恥辱を感じていた。

「とんだ道化だ。 いや、操り人形か」

彼女はボードから目を上げた。

「私はあなたの味方よ。 マルセウス」

彼女の視線は真剣だった。かつて彼女のこんな表情を見たことがあっただろうか?

そこにいるのは、いつも嫋やかに笑う、記憶の中の彼女ではなかった。

「ナニーはあなたをここから出さないわ」

「何を言っているんだ?」

「一緒にここから出ましょう。 今度こそ、本当にね」

人工知能の少女――ステイシアという名だ――の言葉に、私は混乱していた。

「―了―」