3395 【跳躍】
ジェッドは暗い部屋の中で、膝を抱えて横になっていた。そのまま虚空を見つめながら、夢で起きたことを反芻していた。
夢を見るようになってから随分と時が経っていた。今では、あの生々しい向こう側の世界に耽溺するようになっていた。
それが、仲間を失い、自分を見失ったジェッドにとって癒しとなっていた。そこではジェッドの思うままに世界を操ることができた。
『向こう側』では様々な場所を訪れた。だが、どの世界にも常に争いがあった。ジェッドは気まぐれに敗北した側を助けてみたり、また逆に無造作に滅ぼしたりしてみた。しかし何をしたとしても、どこの世界でも人々は無残に死んでいくだけだった。その混乱に触れ、弄り回しているうちに、ジェッドの中にある種の諦観が生まれた。生も死の儚さも、いずれも世界と分けることのできないものなのだと。
◆
夢への旅路を終えると、久しぶりにベッドから抜け出して食事に出掛けた。陽の光といつもの雑然としたスラムの空気を感じることで、現実の世界の感触を確かめる。
とぼとぼと歩くジェッドの元に老婆が駆け寄ってくる。彼の悄然とした姿に気が付かない程、何かを思い詰めているようだ。
「この子をあなたのお力で助けてください。 私にはこの子しかいないのです。 奇跡をお願いします!」
老婆の腕の中に痩せ細った赤子がいた。顔は紅くなっていて、せわしない呼吸を繰り返している。何かの病に罹っているのだろうか。
ジェッドは赤子の額に手を置いた。熱が伝わってくる。そして、この子が健やかな寝顔を見せている姿を想像した。すると赤子の顔色がジェッドが想像したのと同じように良くなり、落ち着いた呼吸をし始めた。
「ああ、ありがとうございます。 ジェッド様」
夢の世界と同じだった。思ったことが形となった。
ジェッドは自分の手を見つめた。
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『虚無の世界』と名付けた夢の世界を行き来することで、ジェッドは自分の力の本質を理解した。
どうやれば物事の原因と結果、つまり『因果』へ干渉することができるのかがわかったのだ。
物事の結果には常に原因がある。そしてその原因と結果の間には、可能性の数だけ異なる未来がある。それを想像によって選択するのだ。
ジェッドはこの力に絶対の自信を得た。今までのように訳もなく感情の流れによって偶発的に力を起こすのではなく、自分の意志でその力を制御できるようになった。
そして、夢へ耽溺するのをやめた。
自分のこの力を頼ってくる者がいる、ならばそれに応えよう、と考えていた。
スラムで賤民の王として生きることに迷いは無くなった。二度と仲間を失いはしない、と誓った。
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ジェッドはスラムの賤民にとって、崇拝の対象ともいえる地位にいた。
彼を胡散臭く思う人間も大勢いたが、ジェッドはそんな人間は無視した。あくまで自分を頼ってくる弱い者達のためだけに力を使った。ただ、相変わらずの泥棒稼業はやめていなかった。結局、ジェッドにはとってはそれしか生き方が無かったのだ。
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そんな時だった。アベルという男と会ったのは。スラムのチンピラとは全く違う、経験を積んだ戦士だった。スラムの外の世界にいる人間に興味を持ったのは初めてだった。
だが、二人を巻き込んだ戦いが始まった。自分を頼ってきた弱い者を、彼らは虐殺した。
ジェッドは猛烈な怒りに突き動かされていた。
◆
ジェッドの前に女が立っていた。アベルは眼鏡の男と対峙している。ジェッドが二人の戦いに気を取られているうちに、音もなく女はそこにいた。
「こんにちは、ジェッド。 私はマルグリッド。 はじめましてかしら? ここでは」
恭しい笑みを浮かべて女は言った。まるで道端で見知らぬ子供に優しく話し掛けるかの様な笑顔だ。
「お前がやったのか!」
ジェッドは一歩下がりながら女に問うた。女の笑顔の向こうに、はっきりとした脅威を感じた。
「ええ、手っ取り早くやらせてもらったわ。 早くあなたに会いたかったから」
「ボクに何の用だ」
因果を歪めるには相手の力を利用するのが一番良いことを、ジェッドは知っている。この女が自分に何かすれば、その因果に干渉して打ちのめす。そうジェッドは考えていた。
「そうね、ちょっと力を貸して欲しいの。 あなたのその力があれば、何だって可能でしょ?」
「なぜ知っている? ボクの力を」
ジェッドはその言葉に身構えた。
「説明が難しいわね。 そう、簡単に言えば私もあなたと同じで、向こう側に渡れるのよ」
「向こう側?」
「可能性の世界。 因果の地平の彼方。 そこでは何だって起こるし、何だって起こせるの」
「……あの奇妙な夢の世界のことか」
マルグリッドが示唆する言葉に、ジェッドは思い当たるところがあった。
「あなたはあれを夢だと思ったのね。 たしかに夢に似ているわ。 あそこにはね、選ばれた者しか行けないの。私やあなたのような」
「お前の話が事実だとしたって、ボクはお前を倒す。 仲間のかたきは取らせてもらう」
「面白い話ね。 力比べも悪くないと思うわ」
ジェッドは傍らの石壁に手をついた。そしてこの壁が倒れてくるのを想像した。利用できる『可能性』はどこにだってある。ジェッドが身に付けた力の使い方だった。
「じゃあ、とっとと死ね」
壁が崩れると同時にジェッドは飛び退いた。古い石壁は二人が立っていた場所に覆い被さるように倒れてきた。マルグリッドは微動だにせず、そこに飲み込まれた。
「ざまあみろ」
ジェッドは粉塵の舞う中でそう呟いた。マルグリッドの死を確信し、すぐにアベル達の様子を確認するために周りを見渡した。
「あら、それだけ?」
真後ろでマルグリッドの声がする。背中から衝撃を受けて前のめりに吹き飛ばされる。呻き声も上げられずに、ジェッドは地面に叩き付けられた。
ジェッドは必死で立ち上がろうと足掻いた。その目の前にマルグリッドの足が見えた。
マルグリッドは無傷で立っていた。
「残念。 私はここよ」
◆
ジェッドは体勢を立て直そうと藻掻き、マルグリッドの足を掴もうとする。しかしその手は空を切った。
「あら、自分で立たないと駄目よ。 もう大人の手を借りなくてもよい歳でしょう?」
次の瞬間、マルグリッドは別の場所に立っている。
「お前ごときに!」
ふらふらとジェッドは立ち上がる。
「さあ、もっと見せて。あなたの力を」
そう言うと、マルグリッドの傍らにあったボールのような浮遊物から光が放たれた。
ジェッドは『光を避けた未来』を選択した。ジェッドの後ろから衝撃音が響く。
「さすがね。 この距離で避けるなんて」
ジェッドはナイフを抜いてマルグリッドに切り掛かった。今度は確かにマルグリッドの身体を捉えた。しかしマルグリッドに変化はない。
「幻?!」
「気付くのが遅いわ」
マルグリッドのドローンが強く光ると、マルグリッドの足下から黒く不気味な気体が吹き出してくる。
「ここからが本番よ」
その声と同時に、黒い霧の中から何か蠢くものが姿を現した。その姿にジェッドは戦慄した。
「そんな虚仮威しにかかるか!」
怒りが恐怖を乗り越えた。ナイフを構えたまま化け物の大口に突進する。
次の瞬間、ジェッドの半身は化け物に捕らえられていた。幾重にも鋭く生えた牙がミリミリと背中と腹に食い込んでくる。ジェッドがいくら藻掻いても、化け物には何の痛痒も与えることができない。どんどんと牙の力は強くなっていく。
化け物は実体としてジェッドの前に存在していた。
「言ったでしょ。 本番だ、って」
そんなマルグリッドの囁き声が聞こえたような気がした。
痛みに気が遠くなる。そして、バキンという骨の砕ける音が身体の内部から響きわった。
ジェッドは絶命した。
◆
マルグリッドの足下にジェッドはしゃがみ込んでいた。
相手の足を掴みたい衝動を感じる。しかしすぐにこの相手は幻だということを思い出し、自分の足だけで体勢を立て直してマルグリッドに向かい合った。
「すばらしい。いまのが『跳躍』ね」
「……お前、わかるのか?」
時を巻き戻したときに、それに気付く者など今までいる筈もなかった。
「見せてもらったわ。 すばらしい力よ。 本当の力。 現実を改変する力だもの」
「ならわかったろ……お前はボクには絶対に勝てないんだ」
ジェッドは口元の血を拭った。
「ふふ、そうかしらね」
マルグリッドの微笑みと余裕は、ジェッドの姿と対照的だった。
ジェッドは初めて戦いに不安を感じた。だが、こいつらから逃げる訳にはいかない。
◆
「遊びはそれくらいにしたらどうだ」
マルグリッドの立つ瓦礫の麓に男が立っていた。隻腕の偉丈夫で、巨大な斧を担いでいる。
「子供とはたっぷり遊んであげないといけないものよ」
マルグリッドは冗談めかして答えた。
「その子供が例のスーパーノートか」
「そう。 『跳躍』を行うことができる、ただ一人の子」
男はマルグリッドの仲間のようだ。普段ならば何も恐れることなく立ち向かうジェッドだが、この男がマルグリッドと同じように不気味な技を使うとなれば、一度、体勢を立て直す時間が必要だと考えた。
向かい合う二人に、ジェッドはナイフを素早く投げつける。確実に眉間を貫く姿を想像しながら。しかし、本当に相手を傷付けられるとまでは思っていない。奴らとの間合いを取るための陽動だった。
ナイフを投げ終わると同時に踵を返して、二人の視界から消えようとする。
「逃がさないで」
マルグリッドの命令に、男は黙って瞑目した。虚空に黒い穴が広がり、ジェッドのナイフが二本ともそこに吸い込まれていく。
そしてその黒い穴は急激に膨らむと、ジェッドの影を捉えた。
ジェッドは猛烈に引き摺られるように穴に吸い込まれる。力なく吸い込まれると、再びマルグリッドと男の前に転がされた。今度は立ち上がる気力も出なかった。
「どうする?」
「殺しなさい。 もっと長大な『跳躍』を呼び起こすために」
言葉を受けた隻腕の男は、斧を大きく振りかぶった。
「さあ、今度こそもっと遠くに飛んでごらんなさい」
マルグリッドは笑みを浮かべながらジェッドを見つめている。
男の斧がジェッドの首へ達しようとした刹那、二発の銃声が響いた。
マルグリッドの周りを飛ぶドローンが火花を散らし、煙を上げた。
男の斧を持つ手の甲に、銃弾が掠めた痕が残っている。男は間一髪で直撃を避けたが、そのせいでジェッドの首はつながったままだ。
「しばらく会わないうちに悪趣味になったな、ミリアン」
帽子を目深に被った無精髭の男が、銃口を向けたままそう言った。
「邪魔をさせないで。 面倒になる」
マルグリッドから笑みが消える。
「馴染みの相手だ。 任せてもらおう」
「坊や、少しそこで待ってなさい。 邪魔者がいなくなってから続きをしましょう」
ちらちらと明滅を繰り返すマルグリッドの姿、それが、ジェッドが意識を失う前に見た最後の景色だった。
「―了―」