3398 【決着】
皇妃の居城である尖塔からは、巨大な街並みが一望できた。この塔は帝國の首都ファイドゥで最も高い。
もう夜半が過ぎていたが、街は小さな宝石を散りばめたかの様に輝いていた。
エヴァリストが襲撃されてから三ヶ月余が経っていた。エヴァリストはすでに公務に復帰していたが、復帰早々多忙な日々を過ごしており、こうして皇妃と二人きりになれたのは、襲撃後初めてだった。
◆
「もう入りましょう。夜風が随分と冷たい」
バルコニーの手摺りにもたれて夜景を眺める皇妃アリステリアの横顔には、いつもと変わらない美しさが宿っている。
「もう少し見ていたいのです」
アリステリアは夜景から目を逸らさずに答えた。
二人に夜風が当たる。
アリステリアの肩にコートを掛けたエヴァリストは、そのまま彼女の金色の髪を撫でながら、優しく口づけをした。
「陛下、貴女ですね? 情報を渡したのは」
襲撃の日、エヴァリストの動向を知っている人物はごく僅かだった。そしてあの日は、アリステリアがセッティングした、旧統制派要人との密会の日であった。
アリステリアは何も答えない。
「貴女は私に助けを求めていた筈。 それとも、全て私を陥れるための行動ですか?」
エヴァリストの口調は詰問するというものではなかった。ただ、囁くようにその言葉を口にした。
「選択肢など、私には初めから無かったのです。 生まれ落ちてから、そして死ぬまで」
アリステリアは俯いた。その目には涙が湛えられていた。
「私ならその軛から逃してあげられると申し上げた。それは奢った気持ちからではありません」
エヴァリストの声色は、それでも落ち着いている。
「もう遅いのです……」
アリステリアがそう言い淀んだ瞬間、衝撃と爆音が響き渡り、尖塔全体が大きく揺れた。眼下を望むと赤い光が照り返している。
「ここは危険です。 さあ、こちらへ」
エヴァリストはアリステリアを抱えて部屋の中へ戻ろうとした。しかし、アリステリアはその手を払った。
「陛下、私の誠心に変わりはありません。 ご事情は後で伺います」
「もうよいのです……もう終わりです」
アリステリアは目を閉じて頭を振った。
「皇妃が正しい。終わりだ、エヴァリスト」
突然の声に振り返ると、一人の男がバルコニーの入り口に立っていた。紅衣を纏った協定審問官――インクジター――、ブレイズがそこにいた。
◆
エヴァリストはアリステリアを庇うように立ち位置を変え、剣を抜いた。彼は特別に皇宮内での帯剣が許されている。
「貴様が塔に火を放ったのか?」
「それはどうでもいい話だ。 それよりも、お前は皇妃を守れるのかな?」
ブレイズの視線はアリステリアに向けられている。エヴァリストも視界にアリステリアを捉えようと横を向く。
そこには、バルコニーの欄干に立っているアリステリアがいた。
「陛下、おやめください!」
エヴァリストはブレイズの動きを牽制しながらも、アリステリアを引き留めようと片腕を伸ばした。
「さようなら、エヴァリスト」
アリステリアはそう言うと、欄干から身を投げた。
エヴァリストは落ちかけるアリステリアを掴むこともできたが、そうはしなかった。エヴァリストに向けられたブレイズの殺気が弱まっていなかったからだ。
少しの間が空いた後、鈍く湿った衝撃音がバルコニーに届いた。
◆
「ほう、やはり皇妃を見捨てたか」
世界を救うためにレジメントで共に戦った聖騎士。しかし時が経ち、二人の立場は全く違うものになっていた。
インクジターがレジメントの生き残りを始末して回っている事は、エヴァリストの耳にも入っていた。
「貴様がそうさせたのだろう」
「それはどうかな。それはお前の都合のいい解釈だ。私は何もせずに、お前が皇妃を助けるのを眺めていたかもしれない。決めたのはお前だ」
「何が言いたい?」
エヴァリストの言葉には、珍しく怒気が籠もった響きがあった。
「お前は無慈悲な男だ、エヴァリスト。お前には心が無い。そして、それを自分でもよくわかっている」
「だから何だ。誰かが私の代わりに生きてくれるのか?」
「打算に生きるお前らしい死が待っているぞ」
ブレイズは不敵な構えを崩していない。
「惰弱な貴様に、私が負けるとでも?」
エヴァリストはそう言うと、ブレイズに鋭い一撃を加えた。ブレイズは冷静にその一撃を薙いで間合いを取る。二人とも部屋の中に入った。
表情にこそ出さなかったが、エヴァリストはブレイズの挑発に痛憤を持っていた。普段なら決して機先を制するような戦いはしない。
「なぜアリステリアが死ぬ必要があった。これは私と貴様らとの問題だろう」
室内で剣戟の音が何度も響く。
「用済みだからだ。皇帝は自ら目覚めることを決めた。私は今、皇帝の命でここにいる」
ブレイズは軽やかにエヴァリストの剣を受け流す。
「エンジニアの次は皇帝か。小物らしい振る舞いだ」
再び、飛び退くようにして二人は間合いを取った。皇妃の住む豪奢な居室では戦うスペースに事欠かない。互いに己に有利な立ち位置を確保するように移動していく。
「不死皇帝やパンデモニウムにとって、お前など瑣事に過ぎんのだ」
エヴァリストはブレイズの傲岸な挑発に乗る形になっている。
「その瑣事に苦戦する貴様は何だ?」
二の撃、三の撃と、エヴァリストの剣がブレイズを襲う。が、ブレイズはそれら全てを受け流す。
「ふっ、それは思い上がりだ。 お前は弱くなった。 そして、私は強くなった」
ブレイズが特殊な構えから一撃を放ち、その剣先がエヴァリストの肩口を捉えた。痺れがエヴァリストの身体を襲う。堪らず膝を折ってしまう。
「お前はテロリストによって皇妃と共に殺されたことになる。 そして失意の国民は、復活した不死皇帝を熱狂の内に迎えるだろう。なかなかの筋書きだ」
ブレイズはそう語りながら、再び攻撃の構えを見せる。
「そんな茶番、認めるものか」
エヴァリストは膝を折ったままだ。
「お前にとっては、過ぎた役どころだと思え」
近付いてきたブレイズに対し、エヴァリストは立ち上がると同時に迎撃を加えた。『茨』と称された剣技だ。
「そんな技に、私が掛かると思うか!」
ブレイズの姿が幻のように消え失せ、エヴァリストの反撃は空を切った。
『茨』の終わり際にブレイズの突きが襲ってきた。エヴァリストは右胸を射貫かれる。ブレイズが剣を引き抜くと、エヴァリストはどうと倒れた。
仰向けに倒れたエヴァリストに止めを刺すために、ブレイズがゆっくりと近付いてくる。
「これも情けだ。 楽にしてやる」
そう言うブレイズだったが、彼の喉元にも血が滲んでいた。避けた筈の『茨』はブレイズの首を捉えかけていた。ブレイズは血を拭い、深い傷ではないことを確かめる。
エヴァリストの肺が血で満たされていく。大きく胸が動く。落ちた剣を探すように手を動かしている。
ブレイズは剣を逆手に持ち、止めの一撃を加えようと振りかぶった。
その時、熱風と共にドアが開き、二発の銃弾がブレイズを襲った。ブレイズは素早く飛び退いて銃弾を躱す。
ドアから現れたのはアイザックだった。
◆
扉の向こうは既に煙が回っている。下から登る火の手は、すぐそこにまで来ているようだ。
アイザックは間髪入れずに、飛び退いたブレイズに両手の拳銃から連射を加えた。
ブレイズは素早い剣裁きで弾丸をはたき落とす。だが、避けきれなかった数発がブレイズの身体を捉えた。しかし鎧の防御もあり、致命傷にはなっていない。
「これは面倒が省けた。 忠犬のお出ましか」
「ブレイズ、少し見ないうちに偉くなったみたいだな。格好だけは立派なもんだ」
アイザックは弾切れになった拳銃を投げ捨て、剣を抜いた。その姿は火災の中を潜り抜けてきたせいか、酷く汚れている。よく見ると所々出血もしている。
「マックスを振り切るとはな」
「あんな仮面野郎、相手にならねえよ」
「にしては、随分と手傷を負っているようだが?」
ブレイズは一気に間合いを詰めた。この状況での長期戦に利は無い。それにアイザックは見たところ相当疲労している。身体を一回転させて薙ぐように剣を回し、アイザックの横腹に鋭い一撃を見舞う。
アイザックはその太刀を受けたが、受けきれなかった剣先が腹にめり込んだ。
「相変わらず威勢だけのようだな」
「……ふん、効いちゃいねえよ」
アイザックは足下を一瞬ふらつかせたが、その剣の気魄に変わりは無かった。ブレイズは間合いを再び取った。
「しぶとい男だ」
「いちいちうるせえぞ……」
アイザックの息は上がっており、すぐに反撃するまでの力は無い。やはりマックスとの戦いで力を尽くしているのだと、ブレイズは判断した。
ブレイズは剣を下段に構え、じりじりと間合いを計る。今度はアイザックの焦りが手に取るようにわかった。この男は瀕死のエヴァリストを助けたいのだ。
アイザックが裂帛の気合いと共に剣を振り上げ、ブレイズに斬り掛かった。ブレイズはその切っ先を際どいところで躱すと、すぐさまアイザックと体を入れ替えるように移動し、体当たりのような形でアイザックを突き飛ばす。
アイザックがバランスを崩して床に転がった。ブレイズは躍り掛かるようにしてアイザックに止めの一撃を食らわせようとする。
が、身体を反転させたアイザックがブレイズの臍下を蹴り上げた。その重心を捉えた衝撃によってブレイズの身体は宙に舞った。
ブレイズが体勢を立て直そうと身体を捻って着地したその瞬刻、アイザックの剣がブレイズの首を捉えた。ブレイズはその剣を受け流そうとするが、アイザックの気魄の籠もった一撃に圧倒されてしまう。
アイザックの剣はブレイズの頸椎に刺さるように止まった。
血飛沫がブレイズの動脈から飛び散り、辺りに赤い霧が立ちこめる。
アイザックは剣を落としてふらふらと動くブレイズを見た。ブレイズは飛び散る血を押さえようと手を当てているが、吹き出す血は床へ流れ落ちるだけだった。
ブレイズは何かを口に出そうとする様子を見せたが、そのまま目を閉じ、自分の血溜まりの上に崩れ落ちた。
アイザックはその血溜まりの上で足を滑らせつつも、急いでエヴァリストの傍に走った。
◆
エヴァリストもまた、自らの血に溺れていた。
辛うじて息はあるが、口元からも、胸の傷からも血が流れ続けていた。
アイザックはエヴァリストの手を両手で強く握った。
「必ず助ける。心配するな」
「……もういい」
血で溢れた口で、必死に呟くように発された言葉だった。
「馬鹿言うな! こんなのたいしたことじゃねえよ! またやり直せばいいんだ!」
エヴァリストはゆっくりと、少しだけ首を左右に振った。
「らしくないぜ、エヴァ……」
エヴァリストの閉じた目から涙が落ちるのが見えた。アイザックが初めて見るエヴァリストの涙だった。幼い頃からずっと共に過ごしてきたが、彼の涙を見たことは一度も無かった。
どんな時でも冷徹で、そして落ち着いて周りを導く。それが、アイザックの知るエヴァリストという男だった。
「やめろよ……」
アイザックは狼狽していた。もうエヴァリストが助からないことも、エヴァリストの中に覚悟があることもわかっていた。
しかし、わかってはいても、納得できるようなことではなかった。
◆
エヴァリストはもう一度目を開け、アイザックに握られた手を自分の胸に引き付けるように力を込めた。
そして、少し口元を微笑ませたかと思うと、そのまま絶え果てた。
「―了―」