23レッドグレイヴ2

2814 【記録】

レッドグレイヴはグライバッハ邸にいた。瀟洒な家具と麗らかな日差しが当たるその部屋は、昔日の思い出と変わりが無いように思えた。大きな部屋の壁龕には、彼のたくさんの『作品』が飾られている。現実的な動物や想像上の怪物、妖精といったものを模したオートマタが、ポーズをつけられ飾られていた。それは一種、彼の作品カタログのようになっていた。

その作品群を一つずつゆっくりとレッドグレイヴは眺めた。彼の人生がそこにあった。レッドグレイヴは元来感傷的な人間ではないが、動かない人形達を見ていると、その彼女も眇々たる寂しさを感じていた。完璧に見えた自分達の人生もいつかは終わり、動かない飾られた人形達のように、そっと忘れ去れていくのだと。

部屋を進んでいくと、飾られている人形の中に奇妙な空白があることに気が付いた。大きく作られたスペースには、何かここに飾る予定のオートマタがあったようだ。おそらく彼が最後に向かい合っていた作品なのだろうと、レッドグレイヴは思った。

奥にある彼の研究室にレッドグレイヴは向かった。工作機械が並べられたその部屋は、彼の工房ともいえる場所だ。機械類が置いてあっても、彼の美意識で整えられた部屋には一種の静謐さが感じられた。

部屋に入ってすぐの右奥に、奇妙な黒い人影が見えた。照明器具から垂らされた紐にぶら下がった男の死体だった。髪は乱れ、その顔には皺が刻まれていた。近くに寄らずとも、それがグライバッハであることは理解できた。

「遺体は消してくれ」

レッドグレイヴが声を出すと、グライバッハの遺体はその空間から掻き消えた。

レッドグレイヴは治安管理局捜査課のデータにアクセスしていた。事件、事故が起こった時には、全ての証拠が治安管理局のデータベースに高精細の三次元データとして保存される。一度電子になった証拠は永遠に残り、再検証も容易だ。レッドグレイヴは、公務の合間にグライバッハが発見された時のデータを眺めていたのだった。

死体のデータを消した後、レッドグレイヴは研究室を歩き回った。どの工作機械にも工芸品のような彫刻が施されており、優美に仕上げられている。

しかし、優美な工作機械の周りに部品や作品は一つも置かれておらず、一切が整理、処分されているようだった。それはグライバッハなりの美学なのだろうと、レッドグレイヴは解釈した。

机の横にある書架に、若い頃の自分と映った古い写真プリントが飾ってあったのを見つけた。二人で芸術アカデミーが作った中央歌劇場の初日セレモニーに出席した時のものだ。プレス向けの笑顔だったが、若々しい二人はとても幸せそうに見えた。手に取ろうと腕を伸ばしかけたが、所詮データに過ぎないことを思い出し、諦めた。

「レッドグレイヴ様。 広報局とのアポイントメントの時間です」

音声が部屋に響いた。正確には、レッドグレイヴの聴覚に直接響いたのだった。

「わかった。戻る」

レッドグレイヴは治安管理局のデータから離脱し、執務室で目を覚ました。

執務室には秘書官のマリネラがいた。彼女は最近赴任してきた、若い政策担当エンジニアだ。レッドグレイヴと同じような調整が施された特別なテクノクラートであり、極めて有能だった。制服姿もまだ若々しい。

「データのアクセス権は返還しますか?」

「ああ、そうしてくれ」

レッドグレイヴは感傷を遮断し、自分の仕事へ戻った。

居室の反対側がスクリーンとなって映像が映し出され、広報局の技官達が現れた。

彼らは簡単な挨拶の後、レッドグレイヴに議題を説明した。

「これが現在の各統治セクションの潜在欲求グラフです」

広報担当の技官が地図とカラフルなグラフを画面に表示する。

「現在の潜在要求の組み合わせから起こる各地域での問題が以下の通りです。五年のシミュレーションです」

画面が切り替わり、各地域で起こり得るであろう事象が次々と現れ、消えていく。暴動、紛争といった暴力による騒乱、宗教や麻薬といった文化上の紊乱など、色分けされたものが各地域で明滅する。

「現在の施策を続けたときに起こる文化的な問題はこのような形で……」

「S-1とO-4の地域での、党派性許容係数の値を出してくれないか」

レッドグレイヴは技官の説明を中断させ、情報の切り替えを命じた。各地域は符号で呼ばれている。統治機構はあくまで数字としてしか市民を見ていない。彼らの欲求を察知し、それに合った施策を施す。不安が生じていれば治安対策や文化的な刺激を、退廃が生じれば脅威――犯罪組織や疫病、ただしコントロールされたモノ――を彼らに与えた。

レッドグレイヴの仕事はエンジニアの考える政体の神髄だった。エンジニアの考える人間の繁栄と進歩、持続可能な生活。そういったものの達成のために、たくさんの変数の組み合わせと計算を行う。それがレッドグレイヴだった。その頭脳はそれ専用の生体計算機といえた。

広報局との会議を終えて一段落すると、明日の予定の変更をマリネラに伝えた。

「明日、少し時間をもらう。 私用だ。 同行の必要は無い」

グライバッハ邸に向かうことを決めていた。まだ感傷が痼りのように残っていた。区切りを付ける必要があると思ったのだ。

「承知いたしました」

レッドグレイヴが実際にグライバッハ邸に入ると、捜査記録との違いにすぐに気が付いた。

部屋は暗く、しかも荒らされた様子があった。飾られていたオートマタ達も床に散らばり、ばらばらになっている。

廃墟のようになった場所を縫うように歩き、研究室に向かった。こちらの方がより、激しい損傷の跡が見える。携帯端末を使ってレッドグレイヴはマリネラに繋いだ。

「いまグライバッハ邸にいる。治安管理局のデータで、事件後にこの家が荒らされたかどうか確認してくれ」

「わかりました」

連絡を取りながら、レッドグレイヴはグライバッハの書架に飾ってあった写真を確認した。それは記録と同じ場所に飾られていた。レッドグレイヴはその写真を手に取り、邸を後にした。

「グライバッハ邸が荒らされたとの情報はありません。いま、捜査員がそちらに向かうそうです」

マリネラからの通信が届く。

「わかった」

レッドグレイヴは邸を出て、統治局に戻るため車に乗った。

「グライバッハ邸の件ですが、侵入者の記録は残っていません。 念のため捜査を行うそうです」

執務の合間にマリネラからの報告を受ける。

「そうか……」

レッドグレイヴにはまだ蟠りが残っていた。持ち帰った写真は自分の机の抽斗に仕舞った。

グライバッハがなぜ死んだのか、その理由が一番知りたかった。少しでも納得できることがあれば、それで構わなかった。

レッドグレイヴが知っているグライバッハは、自死を選ぶような性質は持っていない。レッドグレイヴは己の直感に対して非常に信頼を置いていた。人心を統べるために日々心に湧く疑問や違和感を子細に観察し続けていた彼女は、鋭敏な感覚を持った観察者だった。

「捜査局の者に連絡をつけて欲しい。 説明を受けたいことがある」

「はい。わかりました」

レッドグレイヴはグライバッハのセンソレコード(智覚記録)のバックアップにアクセスしようとしていた。

捜査局の話を聞いても、彼らからは有用な情報が得られなかったためだ。

高位のエンジニアであるテクノクラートは、生まれた時から全ての智覚情報――触覚・聴覚・視覚・臭覚・味覚、脳に伝わる外部信号全て――を脳に埋め込まれたチップに記録されている。

死を恐れる者の中には、クローンに毎日バックアップした情報をロードしている者もいる。

レッドグレイヴにもバックアップのクローンはいたが、それほど厳密な管理はしていない。事故死や病死など、不慮の死自体が極めて稀だからだ。

そもそも、同じ記憶と同じ遺伝的素質を持った肉体が同時に存在するのを嫌う者も多い。有り体に言えば、極めて似た他人と入れ替わるに過ぎないという事実だ。今の自分が死んで、それ以外の『似た』自分が生きることに意味を見出すことは難しい。

このセンソレコードも、グライバッハの遺言では破棄される筈のものだった。

究極のプライバシーとも言えるセンソレコードを取り出すには、それなりの理由が必要だ。そもそも自死なのだ。

エンジニア社会において自死など全く珍しくないと言えた。医療とクローニングの進んだ上級社会では、死亡原因のトップは自死だ。

ただ、何故それを選択したのか、納得できる理由を一つでも掴めればよかった。

「本当におやりになりますか? リスクは皆無ではありませんし、あまりお勧めできません。こんなことは捜査局の連中にやらせればいいことです」

マリネラはレッドグレイヴに考え直して欲しい様子だったが、レッドグレイヴにとって説明されたリスクなど、些事に過ぎなかった。

「リスクなど理解している。 自分の疑問は、捜査局の答えなどでは解決しない」

「わかりました。私にできる限りフォローさせてください」

「わかった。 頼んだぞ」

データ再生装置とレッドグレイヴが接続され、彼女の神経は現実世界から遮断された。

他人の智覚を再生して自分のものとして受け取る奇妙さは、独特のモノだ。信号の強度を間違えれば、現実感の喪失を引き起こしてしまう。

現実感のチェックを定期的に行い、テストに問題があれば、秘書官のマリネラが作業を中断させる。

現実と仮想の境目がわからなくなる『汚染』を起こせば、正気ではいられなくなる。

「キャリブレーション・シークエンス、スタートします」

ホワイトノイズが頭に響く。たくさんの色と模様が目の前に現れた。指先にちりちりとくすぐられたような感覚が走る。何か酔うような感覚が現れたが、次第に収まっていった。

五感情報、内分泌器官の違いを吸収して、智覚の『同期』を行うためのシークエンスが終了した。

「ではセイリアス・グライバッハ氏、28140903のデータを再生します」

グライバッハ最後の一日の再生が始まった。

朝の光だ。柔らかな陽光が顔に当たっているのがわかる。

グライバッハのアシスタントらしき若い女の声がする。

まるで夢の中にいるような感覚だが、智覚は完全に自分のものだ。

完全に自分自身が経験しているのだが、自分が発する意思や思いが自分の体に適応されない。まるで動く牢屋に閉じ込められたような感覚だった。

「おはようございます、マスター」

歌うような響きで、若い女が声を掛けてくる。この女は人間ではないのだろう。完璧すぎる容姿は、グライバッハのオートマタであることを証明している。

「朝食の用意ができています」

「ありがとう、ミア。 そうだ、ウォーケンに昨晩の実験結果を報告するよう言ってくれないか」

頭蓋を通したグライバッハの声は、知っている声より随分と低く響いた。

「わかりました」

ベッドから起き上がり、洗面所に向かい、顔を洗う。顔に当たる冷たい水の温度さえ完璧に再現されている。

ガウンを羽織ったまま朝食を採る。壁に映る情報端末の日付と時刻は、確かにグライバッハの死んだ日だ。

しかし、これはおかしい。こんな安定した日々の途中で、突然自死を選択するだろうか?

「マスター、どうかされましたか?」

「いや、何でもない」

ミアと呼ばれているオートマタは、奇妙な問いを発した。グライバッハは食事を進めながら何か考え事をしていたようだ。

「マスター、ウォーケンはレポート作成に一時間ぐらい欲しいと言っています」

「なら構わん。 あとで研究室に来るように言ってくれ」

「わかりました」

そう言ってミアはグライバッハの食べ終わった食器を片付け、席を離れた。間を置かず、ミアが持っていた白磁の食器が床に落ちて割れた。ミアは落とした食器の破片を拾おうともせず、ただ立ち尽くしていた。

「どうした?」

グライバッハが声を掛ける。

「マスター、本当にあなたはマスターですか?」

向こうを向いたままミアはそう言った。

「ああ、もちろん」

奇妙な会話だ。

「いいえ。あなたはマスターではない」

振り向いたミアは、飛び掛かるようにグライバッハへ襲い掛かる。藻掻いて取り払おうとするが、凄まじい力でグライバッハの首が締め上げられていく。

同調しているレッドグレイヴの意識も遠くなっていく。

薄れ行く意識の中で、ミアと呼ばれているオートマタの笑い声が聞こえたような気がした。

「―了―」