06クレーニヒ5

3394 【煉獄】

また悲鳴が遠くから聴こえる。燃え盛る炎の中でクレーニヒは呆然と立ち尽くしていた。

近くで何かが爆発し、吹き上がった炎がクレーニヒの頬を掠める。長い栗色の髪の先端がじっ、と焦げた。定まらぬ視線のままクレーニヒは歩き出した。が、数歩もいかない内に何かに躓いてよろける。ふと見ると、それは子供の死体だった。生命の抜けたその子供の顔は恐怖に歪み、半ば焼け焦げた頬には乾ききった涙の跡が残っていた。

空虚な目で「それ」を見つめていたクレーニヒは、突如、苛立ちと共に焼け焦げた地面を殴りつけた。

「あああああああッ!」

言葉にならないその叫び声を聞く生者はいない。

まさに地獄だった。

考えまいとすればする程、クレーニヒの心の奥底に昏い炎が灯り、自らの感情を闇色に染め上げていった。

こんな破壊をボクは望んでいたのか――。

こんな虐殺をボクは望んでいたのか――。

問い掛ける声に応えるものがあった。

『そうとも。これはオマエの望んだ世界だ』

灰色の薄闇が炎の中に顕現する。三対の目がクレーニヒを捉えていた。

「おい、きみ! 無事か!?」

少し離れた場所から声が聞こえた。クレーニヒが声のした方を見ると、炎の向こうに数人の人影があるのがわかった。防火服に身を包んだその服装からすると、おそらく救助隊員か何かだろう。

「すぐそっちに行くから、じっとしているんだぞ。 大丈夫だからな!」

炎を避けながら救助隊員達が近付いてくる。その様子を幻獣がまじろぎもせず見つめていた。

「だめだ! 来ちゃだめ! 戻ってください!」

ハッとなってクレーニヒが声を掛ける。

「大丈夫だ、安心しろ。 必ず助けるから諦めるんじゃないぞ!」

「違うんです! お願いだから戻って!」

1アルレまで近付いた隊員がクレーニヒに手を伸ばした。

「さあ、もう大丈夫だ。 こっちに!」

「来ないでって言ってるのに……」

クレーニヒは真下を向いて、力なく呟いた。

「ボクのことは……放っておいてください」

瞬刻、クレーニヒに伸ばされた隊員の腕が宙を舞い、飛び散った血が炎に焼かれてじゅうと焦げる。

そこに灰色の幻獣が立ち塞がっていた。

「ぎゃああああああっ!」

腕を失って倒れ込んだ仲間を支えながら、別の隊員が「ば、化け物だ……」と呟いたのが聞こえた。

「に、逃げろ!」

別の隊員が叫び声を上げながらその場を逃げ出そうとする。が、その声は途中で途切れた。叫ぶべき頭部が幻獣の鋭い爪によって切断されていた。

「だから言ったのに……。近寄らないで、って」

炎の中、クレーニヒの昏い眼差しが不思議な光を放っていた。

咽ぶような血臭の中、クレーニヒは重い足を引き摺って歩いていた。周囲に人影は無い。正確に言えば、生きている者はいない。

血に塗れたこんな自分を見てほしくない。そう思っただけで、幻獣は“目撃者”を片端から物言わぬ死体に変えていった。

クレーニヒを助けようとした救助隊員の内、生き残った誰かが通報したのだろう。いつの間にか治安維持のために配備された部隊がじりじりと彼を包囲していた。「敵」の威嚇射撃を躱しながら、クレーニヒは狭い路地を通り抜けていく。

追い込まれているのはわかっていた。だが、正面から戦って治安部隊を壊滅させる程の力が幻獣にあるのだろうか。仮にあったとして、その後どうすればいい。

「ははは、パンデモニウムを相手に戦争を始めればいいのか!?」

考えがまとまらない。思考が定まらない。足元がふらつく。

ふと、手をついた壁がぐにゃりと歪んだ。生暖かく、固めのゼリーのような質感の壁は、この世のものではなかった。

そこだけが、現実の中に幻覚として存在していた。

壁だった筈の空間に発生した幻の中から手を引き抜くと、どろりとした液体が纏わり付いていた。その不快な液体からは酷い臭いがした。

ふと見渡せば、周囲の空間に様々な幻覚の世界が見えていた。

いや、それは果たして幻覚と呼べるのだろうか。

クレーニヒは、試しに別の幻覚に触れてみることにした。

見たことのない草を千切ってみる。

空中に浮く奇怪な岩に爪を立ててみる。

幻の中に吹く風に手を当ててみる。

『そうとも。オマエが今まで幻だと思っていた全ては、実在しているのだ。ただし、オマエ達の世界とは時間や空間を超越したところにあるものだがな』

不意に、幻獣の声が聞こえた。

『ふふ、どこを見ている。オレは“コッチ”だ』

空中に浮かんだ幻の世界。いつか見た黒白の海の中から、幻獣がじっとこちらを見ていた。

『もうわかっただろう。オマエの幻覚が何なのか。オマエにどんな力があるのか』

「全てはケイオシウムの……あの実験のせいなのか?」

『さあな。オレはきっかけは知らない。だが、オレはその力を持つオマエに呼ばれたからやって来たのさ。オマエの願いを叶えるために、な』

その時、路地の先に治安部隊の姿がちらりと掠めた。

「っ!」

反射的に脇道に飛び込んだクレーニヒだったが、目の前には銃を構えた隊員が待ち伏せしていた。

「あっ……!?」

――撃たれる!

そう思った瞬間、クレーニヒの意識が弾けた。

即座に手をかざし、目の前の空間に“幻覚を出現させていた”。

放たれた銃弾はその“幻覚”に吸い込まれ、瞬時に塵と化した。

「なんだ? 何が起こった!?」

事態を把握できない隊員が狼狽した隙に、クレーニヒは別の幻覚から「何か」を呼び出していた。

ゲル状に見えるその物体は、隊員の身体に貼り付くと、じゅうじゅうと嫌な音を立てながら精気を喰らってゆく。まるで枯れ枝のように変わり果てた隊員の姿は、もはや人間の絞り滓でしかなかった。

「い、今のは……」

急激な脱力感と共に、クレーニヒの中に現実が戻ってきた。血液はマグマのように熱く、肺はその熱を冷まそうとするかの如く空気を欲している。

『ふふふ。やればできるじゃないか。それが異界の力……いや、オマエの力だ』

クレーニヒは愕然と自分の手を見つめた。嫌な臭いのする液体は跡形もなく消えていた。「敵」を死に追いやったゲル状の謎の物体も同様だった。

しかし、枯れ枝のような人の死体は、紛れもなく眼前に残っていた。

「ボクが……ボクが殺したのか」

昏い色の瞳から、涙が一筋流れた。

はぁっはぁっはぁっ――。

息が上がっていた。

心臓が壊れそうな程に痛い。耳の後ろがどくどくと脈打っている。

背後からは武装した治安部隊が物音も立てずに迫ってきていた。姿こそ見えはしないが、クレーニヒにはその気配が手に取るようにわかった。

頭の中にざわざわとした違和感がこびり付いている。「敵の臭い」が漂ってきているのだ。

「これも異界の力なのか?」

空間を異世界へ繋ぐ――これは、まるで渦だ。

世界を混乱させたあの厄災、クレーニヒも知識としてその概要を理解していた。

クレーニヒは自分自身の中からその渦が生じ、世界にあの混乱を再びまき散らすのではないかと想像した。

『その望みを叶えるには、少し時間が掛かりそうだな』

「ち、違う! 望んでなんかいない!」

『おや? 違うのか。残念な話だ』

幻獣はニヤリと厭らしい嗤いを浮かべた。

『おっと、声を上げたせいでヤツラが動き始めたぞ』

その事はクレーニヒも既にわかっていた。それでも、目的地はすぐそこに迫っている。

厳重に施錠された出入り口を幻獣の力で破壊し、クレーニヒが入り込んだのは、飛行艇のフライトデッキだった。

高高度に浮かぶパンデモニウムと外界との接点。そしてパンデモニウムの外縁部に最も近い場所。

『……!?』

クレーニヒの思考を読み取った幻獣が、僅かな戸惑いを見せた。

幻獣の戸惑いに気付きながらも、クレーニヒはそれを無視してデッキの先端部まで歩を進めた。轟々と唸る風が、華奢なその身体を吹き飛ばそうとする。

「ボクが死んだら、お前は消えるのかい?」

吹き荒ぶ風の中、クレーニヒは幻獣を顧みた。煽られる長髪を片手で押さえつけ、幻獣の歪な瞳をじっと見据えていた。

『……どうだろうな。叶えるべき望みが無くなれば、オレは消えるしかないのかもしれない』

「今までなんでもお見通しって感じだったのに、自分自身のことはわからないんだ」

『……』

幻獣の表情からは何も読み取れなかった。或いは本当に戸惑っているのかもしれない。

その時、遠くでパン、と乾いた音が響いた。音と同時にクレーニヒは異界と空間を繋ぎ、飛来してきた銃弾を葬り去った。

遠距離射撃用の長銃を構えていた特殊部隊の隊員には、クレーニヒの姿が蜃気楼のように掻き消え、刹那の後、再び同じ場所に現れたように見えた。しかし次の瞬間、身を起こして確認しようとした隊員が見た光景は、眼前に迫る幻獣の顎だった。

クレーニヒに銃弾を防ぐつもりはなかった。反射のように身体が勝手に反応していたのだ。

「……もう時間がない」

これ以上、自分自身を抑え込む自信が無かった。

心の奥底にある力への渇望が理性を上回った瞬間、クレーニヒの世界は変わってしまうだろう。もうこちら側には戻ってこられない。

ならば、今しかないのだ。

『それがオマエの真の望みなら、オレは止めはしない』

一歩。クレーニヒが踏み出した。

「ああ、さよならだ」

一歩。そこは生まれて初めて歩く、パンデモニウムの外の世界。

大きく勢いをつけてクレーニヒは飛翔した。

両腕を翼のように広げ、全身で冷たい風を感じる。大気に翻弄されるように身体がぐるぐると回転する。

パンデモニウムのフライトデッキから、クレーニヒを追っていた人々が見下ろしていた。もう彼らの表情も気配も読み取れない。

と、たった今決別したその世界から、灰色の闇が迫ってくるのが見えた。

なんで、来た――声は一瞬で遙か上空に置き去りになり、相手にまでは届かない。

『オマエの望みを叶えよう』

クレーニヒの隣に並んだ幻獣から、そんな声が響いた。

ボクは助けてほしいなんて思ってない。それは本心だった。それともこの獣は、自身が消えるのが惜しくなったのだろうか。

瞬間、幻獣が苦笑したように見えた。それは果たしてクレーニヒの気の所為だったのか。

頭の中に、幻獣の声が響いた。

『オマエはこう思っただろう』

――やっぱり、ひとりは寂しい――と。

青い、どこまでも蒼い世界をひとりと一匹が泳いでゆく。

そこは、彼らの最期の理想郷だった。

「―了―」