3394 【ナイフ】
朝靄が立ち込めた森には、穏やかな静けさが満ちていた。
「来たぞ」
傍らのアベルが小さな声で言った。数時間動かずにいたため、明け方の寒さが、レジメントの戦闘服を通してでも身体に凍みる。レオンは黙って頷いた。
二人は森の中にいた。レオンの片手にはライフルがある。夜明け前にレジメントを抜け出て、鹿狩に来たのだった。若い二人の、ちょっとした気晴らしだった。
森の静寂の向こう、100アルレ程離れた場所に、大きな角を持った牡鹿が見えた。
ずっと監視していた獣道で、ついに現れた獲物だ。二人は興奮した。それでも、じっと音を立てないように牡鹿の動きを見る。
レオンはそっとライフルを構え、スコープのレティクルを牡鹿の肩上に合わせた。そして呼吸を止め、引き金を引いた。弾は少し右に逸れたが、牡鹿の横腹を貫いた。銃声が森と山に反射している。スコープの向こうで、牡鹿は前足を空中でひと掻きして倒れた。
「やったな!」
アベルが肩を叩いた。二人は立ち上がって獲物の倒れた獣道に向かった。
◆
倒した牡鹿の所に辿り着くと、牡鹿の息は絶えようとしていた。
牡鹿の胴に黒く空いた穴から血が抜けていく。周りの低木にも、吹き出た血が飛び散っている。
命が刻々と零れていき、大地に吸われ、そして地上から消えていった。
晩秋の森の冷たく湿った空気が、獣道を走ってきたレオンの肺を満たす。それと同時に、重い感情が胸に湧いた。
「どうした?」
アベルが聞く。
「いや、なんでもない」と言って獲物を縛るためのロープを腰から取り出そうとした時、レオンは自分の腹に黒い穴が空いているのを見た。
いつの間にか自分が森に横たわっている。腹からは黒い血が溢れ続けている。
藻掻くように脚を動かそうとするが、力が入らない。
黒い穴を手で押さえても血は溢れ続ける。アベルを探そうとするが、目の前にはいない。黒い血でべっとりと汚れた掌を見た。寒さに耐えられなくなってくる。
目を強く閉じ、やってくる恐怖から心を閉ざした――。
◆
――レオンはベッドの上で目を覚ました。見たことのない天井だった。狭くて見窄らしい廃屋のような場所だ。
「目が覚めたか?」
傍にいたのはアーチボルトだった。
「アンタ……よくも……」
ロッソに背中から撃たれた後の記憶は、大きな街道を目指して進んでいるところまでしか無かった。どうやら行き倒れたらしい。
「すまん。 本当はもっと早くお前と合流するはずだった」
「理由、あるんだろうな? とんだ目にあったぜ」
傷の手当てがされている。それでも痛みがひどい。
「話すさ。だが、今はもう少し休んだ方がいい」
「いや、先に話を聞かないと、腹が立って眠れねえよ」
「そう言うな」
アーチボルトは薬を出してレオンに飲むように勧めた。レオンはそれを受け取って飲み干すと、もう一度眠りに戻った。
◆
二晩ほど休んでから、出発の用意を始めた。アーチボルトはレオンの傷の様子を確認する。
「行けそうか?」
「ああ、行けるさ。 こんなもの……」
レオンの強がりをアーチボルトは遮った。
「間に合わせの治療じゃどうにもならない。 なるべく早く、お前を街まで送って行く必要があるな」
二人は一つの馬に乗った。
「揺れるが、我慢してくれ」
◆
荒野の街道を進んでいると、空に小さな無数の光が瞬きはじめた。夜通し進みたいところだったが、今のレオンの体力では難しいとアーチボルトは判断した。アーチボルトはレオンを抱きかかえるようにして馬から下ろし、横たわらせた。
薪で暖を取り、二人は向かい合った。
「眠れないのか?」
「ああ……。話してくれよ。 死に切れねえぜ」
レオンは顔を歪めながら身体を捻るようにして、薪が燃えるのをじっと見つめていた。
「らしくない台詞はよせ。 確かに、話しておかなきゃならんな」
アーチボルトもまた、燃える薪を見つめながら語り始めた。
「俺はラームから声を掛けられた――」
アーチボルトは薪の燃えさしを取り出して煙草に火をつけた。
「俺には貸しがある男がいてな。 パランタインっていうインペローダの護国卿で、エンジニアの力を後ろ盾に君臨してる。 インペローダへの戦略物資を横取りできれば、奴との取引を仲介してやる、って話を持ち掛けてきた」
ラームはレジメント消滅の時、危険を冒してまでも生き残った騎士を逃がしてくれた、エンジニアの中でも特別な男だった。レオンもラームのことを疑ったことは無かった。
「その仲介手数料代わりに、パランタインの持つ情報とレオン、お前が欲しいと言ってきた。 元レジメントのお前が事を起こせば、ラームが地上に降りる理由ができると言っていた」
「黙ってラームに俺を差し出したわけか……。 全部、前もって話してくれればよかったのによ」
アーチボルトの瞳は揺れる炎を見据えたままだ。
「万が一にも、俺との間で取引があることを他のエンジニアに気付かれたくない、と言っていた」
「俺が拷問くらいで口を割るとでも思ってんのか」
レオンは吐き捨てるようにいった。
「ラームはそう思っていたのさ。 とにかく、ラームはお前がインペローダに捕まり、呼び出される必要があった」
「裏切り者の三人が蘇ってくるって、アンタは知ってたのか?」
「ラームからは聞いていない。 隊商を襲った後、俺は事の真相をパランタインから聞いた」
「ロッソ、ミリアン、もう一人は知らない女だったが、ジ・アイの向こうから帰ってきたんだぜ」
「ミリアンとはな……」
アーチボルトは煙草の火をにじり消した。
「俺はあいつらに殺されかけた。 それに、あいつらは間違いなく俺達の仲間を殺してる。 レジメント消滅の裏であいつらは……」
「俺はミリガディアに向かう。 奴らが探している人間がそこにいるからな。 何としても阻止しなきゃならん」
「あいつらもミリガディアに向かってるのか?」
「いや、ラームにはこの情報を渡してないので、それは無いだろう。 だが、いずれ見つかる」
「相手は最低三人か、俺達だけじゃ手が足りないな」
「それでも、やるしかない」
「ああ、そうだな」
レオンは目を閉じた。
◆
明け方、陽が昇る直前に、レオンはアベルへの手紙を書いていた。アーチボルトはまだ眠っている。アベルの大体の居場所はわかっていた。電信が使えれば、ミリガディアで落ち合うことができるだろう。
◆
朝になって荷物を纏めると、二人は馬に乗って出発した。
アーチボルトの後ろに乗ったレオンは、力なく掴まっているだけだ。
「大丈夫か?」
「ああ、進んでくれ」
アーチボルトは馬の速度を落として荒野を進んだ。
◆
しばらく進むと、空模様がおかしくなってきた。アーチボルトは湿った空気の感じに、ひどく落胆した。レオンは辺りが暗くなってきたことにも気付いていないようだ。
どこか休む場所が必要だと考え、アーチボルトは街道から外れることを決心した。
決心すると同時に、雨粒が空から落ちてきた。
「雨か……」
レオンは弱い声で呟いた。
「今すぐ雨が避けられる場所を探す。我慢してくれ」
開けた荒野の道から山側へと進路を変えたアーチボルトは、やっと休めそうな洞穴を見つけた。
すでに二人は随分と雨に晒されていた。
◆
季節外れの嵐に会い、二人は山腹の洞穴に足止めされるような形となった。
「つくづく運がねえな。俺は」
横たえたレオンの前では、アーチボルトが湿った薪を相手に火を熾そうと努めていた。雨に濡れたレオンは急速に体力を失っている。
「いま火を熾す。 身体さえ温めれば……」
アーチボルトは集めた薪に種火を移そうとしている。
「もういいよ、アーチボルト」
「もうすぐ火が付く。黙ってろ」
「……いいんだ、もう置いていってくれ。 俺はここでいい。あんた一人なら、もっと先に進める」
「つまらんことを言うな。 もとは俺のせいだ。見捨てることなどできるか!」
アーチボルトは、彼にしては珍しく、苛立ちを隠さずに言った。
「アベルへの手紙を書いておいた。 あとは二人でやってくれ。時間が無いんだろ?」
レオンはポケットから出した手紙をアーチボルトの方に放った。手紙は力なく地面に落ちる。
アーチボルトは黙って薪と向かい合っていた。
レオンの状況がよくないことは、瞭然であった。
「あんたも出身はストームライダーだろ?」
「生まれはな」
「荒野に生まれた二人がいて、嵐に巻き込まれるとはな。 笑い話だ、これじゃ。 こんな終わり方はねえよな」
「もう喋るな」
アーチボルトはレオンを制止する。
「アベルに会えたらさ、これを渡しほしい。 あいつに持ってて欲しいんだ」
レオンは、鞘に収まったままのナイフをアーチボルトに差し出した。
「そんなもの受け取れるか。 渡したいんだったら、自分で渡せ」
「もういいんだ。 もう、覚悟はついたんだ」
生気のないレオンの声に、アーチボルトはレオンの瞳を瞬ぎもせずに見つめた。そして、そのナイフを黙って受け取った。
レオンの手から力が抜けていく。
「アーチ、あんたが気に病む必要はねえ。 あんたに鍛えられなきゃ、俺はレジメントで死んでた」
顔を上に向け、レオンは目を閉じた。
「レジメント……懐かしい。 とても昔に思えるよ」
「ああ」
「俺達には使命があった。 仲間がいた」
「今だっているさ」
「みんなもう、向こうさ。 俺もこっちは疲れたぜ……」
◆
アーチボルトはレオンを看取ると、狭い洞穴にレオンの亡骸を横たえたまま、別れの言葉も無く嵐の中を出発した。
「―了―」