35ヴォランド1

3373 【正義】

月明かりのない細い裏道を、小さな人影が音もなく走っている。微かな街灯の明かりが、その人影が少年であることを浮き彫りにしていた。

少年は裏路地に放置された木箱や鉄製のフェンスを軽やかに飛び越え、古ぼけた屋敷の屋根へと飛び乗った。屋敷の天窓からは明かりが漏れており、その下では怪しい風体の男達が酒を飲みながら下品に笑い声を上げている様子が見て取れた。

「さあ、行くよ、セレスシャル」

少年の言葉に無機質な双眸が淡く点滅した。継ぎ目のある堅い金属質の装甲を持つ巨体が、屋敷の天窓を勢いよく破壊しながら床へ降り立った。その立ち姿はまるで、名のある芸術家が作った鉄の彫像のようだった。

「野郎ども! 侵入者だ!!」

宴の最中、突如として天井から現れた巨体の侵入者に、男達は騒然となった。一斉に大振りのナイフや携行している拳銃を構える。しかし荒事には慣れている男達でも、その異様な侵入者の姿に怯みを見せていた。

「てめえ、何モンだ!?」

「悪党に名乗る名前はない。 黙っておとなしくするんだ」

その少年は確かにセレスシャルの傍に立っているのだが、姿は見えず、声だけが聞こえる状態だ。男達にしてみれば、金属質の巨体からは想像できぬ程に幼い少年の声がしていることになる。その異様ともいえる事態に、男達は目を剥いた。

「くだらねえこけおどしだ! おい、やるぞてめえら!」

リーダー格の号令で、男達は一斉にセレスシャルに銃を放った。銃弾は金属質の装甲に兆弾し、本棚やガラス窓を破壊した。セレスシャルは銃弾をものともせず、薙ぎ払うように腕を振るい、銃を持った男達を吹き飛ばしていった。

「てめえ、な、何モンなんだ!」

行動不能となった男達を見回して、リーダー格の男は恐怖した。そして、恐怖に駆られた衝動のまま、銃を闇雲に撃ち続けた。金属と金属がぶつかって弾かれる音が響き渡る。男の目には、壊れた金属の破片と、その金属の隙間から流れ出る大量の血液が見えていた。肩で息をつきながら、男は鉄の巨人の割れたマスクの下を見た。しかし、そこには憤怒と狂った笑い顔に彩られた、男自身の顔があった。

「君たちの憎悪は君たち自身に向けられる。 人は自分自身の憎悪には耐え切れないよ」

「あ、ああ……あああああああああああ!!!」

ローゼンブルグ郊外。比較的寒暖の差が少ない穏やかな気候のこの地域は、資産家達の別宅地としても利用されている。その中でも一等地とされる場所に、一際目立つ邸宅がある。その豪邸の最上階の窓から、誰にも気付かれることなく屋敷へと滑り込んでいくセレスシャルの姿があった。この豪邸こそ、セレスシャルの主であり、ローゼンブルグを騒がす謎のヴィジランテの正体である少年が暮らす場所であった。

少年の名はヴォランド。帝國の政治面にも影響力を持つ大富豪一族の御曹司だ。

自室の中央に到達すると、ヴォランドはセレスシャルの背から静かに絨毯の上に降りた。

「さ、お休み、セレスシャル。また次の夜に」

手を一振りすると、セレスシャルはどこからともなく現れた空間の裂け目へと静かに消えていった。その様子を見届けてから、ヴォランドは一人で休むには大きすぎるベッドに座って一息ついた。そのタイミングを見計らったかのように、自室の物陰から、どっしりとした大きな毛むくじゃらのぬいぐるみが立ち上がった。ヴォランドは特段驚くこともなく、ぬいぐるみに笑顔を向ける。

「帰ったのか」

「ただいま、オウラン」

「腹が減った」

細い眼にずんぐりむっくりのその姿は、お世辞にもかわいいとは言い難かった。ヴォランドよりずっと大きいその巨体でふらふらとベッドに乗ってきた姿には、威圧感すらあった。

オウランは祖父からヴォランドへの贈り物だった。しかし、このように自分の意志があるように動くことは、ヴォランドしか知らないことだった。

「セレスシャルは凄い。この力さえあれば、この街を変えられる」

「そいつはよかった」

オウランはベッドから降り、サイドテーブルに置いてある果物に手を出した。

「プライムワンの支部は、あれが最後?」

ヴォランドは今現在、壊滅を目指している犯罪組織の名を挙げた。

「そうだったかな?」

もりもりと林檎を頬張りながらオウランは答えた。

「奴らはこの街から出て行くかな?」

ヴォランドの質問に見向きもしない。

「どうだか。 かえって奴らを怒らせたかもしれん」

「もっと厄介な奴らが来る?」

「かもしれん。 だが、お前とセレスシャルにとってはどうかな?」

「たしかに。 奴らが来るなら来るで、返り討ちにすればいいんだ」

ヴォランドは無邪気に微笑んだ。

「まあ、明日の新聞を楽しみにすることだ」

「うん。もう寝る。なんだかんだ言って疲れたよ。 果物を食べたらオウランも寝て」

欠伸をしながらヴォランドはそう言った。

「言われなくてもそうするよ」

ヴォランドは着替えてベッドに入った。やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。オウランはその様子を確認すると、のっそりと部屋の隅に移動した。そして部屋の端末装置のコードを自分の首元のコネクターに繋ぎ、瞑目して微動だにしなくなった。

グランデレニア帝國有数の大都市、虚栄に満ちたローゼンブルグは、厳格に管理された帝都ファイドゥとは異なり、暗黒街と呼ばれる階層すら有していた。

そんな街で一年程前より、人々を騒がせる一つの存在があった。

都市を我が物顔で闊歩する、裁かれぬ悪を裁く謎の存在。最近では、ほぼ毎週のようにローゼンブルグの新聞記事の一面記事を飾っている。

混沌と閉塞した空気の充満するこの帝國の都市で、一つの存在が人々の心を掴み始めていた。

そして、今宵も悪を裁くため、ヴォランドはローゼンブルグの暗黒街を疾走していた。

僅かに欠けた月がローゼンブルグの街を照らしている。その光から隠れるように、ヴォランドは大きな建物の影に身を潜めていた。

目の前には、富豪が建てたのであろう立派な邸宅があった。しかし、庭を見回っている男達の雰囲気は洗練されておらず、ここの主人が只者ではないことを表していた。この屋敷は犯罪組織プライムワンの新しい会合場所だった。オウランによって集められた情報により、今夜まさにこの場所で、組織の再始動会議が行われることがわかっていた。組織の大幹部や生き残った一味を一網打尽にしようと、ヴォランドは決心していた。

「セレスシャル、行くよ」

ヴォランドがセレスシャルに指示を出すと、空間を切り裂いてセレスシャルが姿を現した。入れ替わるようにヴォランドは異空間の中に隠れた。

「全部終わりにするんだ。 掃除の時間さ」

異界の中にいても周りの景色ははっきりと見える。自分自身がセレスシャルの影になったような気分だった。

セレスシャルの背に立ち、ヴォランドは動きをイメージする。その通りにセレスシャルは動き始める。

壁を突き破り、邸宅の中へ入った。そこには幹部達が集まっている筈だった。

しかし、そこには誰もいなかった。

「おかしいな……」

突如、背後から爆発が起き、衝撃と共に部屋の床にセレスシャルは打ち付けられた。

「待ち伏せか」

影のようにセレスシャルの傍に立つヴォランドに怪我は無い。異空間にいる限り、物理的な影響は互いに受けなくなっているのだった。

セレスシャルを立たせ、爆発のあった方向に身体を向ける。そこには、武装した男達が対峙していた。巨大なランチャーを手にしている者もいる。

「噂には聞いていたが、ここまで丈夫とはな」

スーツ姿の痩せた男が、一歩前に出てそう言った。

「さて、組織にずいぶんと被害を与えてくれたようだが。 誰の差し金だ?」

「誰の差し金でもないさ。 悪い奴はこの街に必要ない」

「他のファイヴファミリーズか……。時間はたっぷりある、聞かせてもらう」

ヴォランドの答えをまるで聞かず、男はそう言うと片手を挙げた。

合図と共に、セレスシャルの上に鋼鉄のワイヤーで編まれた網が落ちてきた。

「そのアーマーが丈夫なのはわかった。 遠隔操作なのかもしれんし、中に人が入っているのかもしれん」

セレスシャルはその網を払おうとするが、却ってその身をワイヤーに絡ませてしまう結果となった。

スーツの男は身動きの取れなくなったセレスシャルの近くまで歩いてくる。

「だが、バラしてみれば全部わかる」

ワイヤーのネットで雁字搦めにされたセレスシャルの周りに、ガストーチを持った男達が集まった。

ガストーチが点火され、セレスシャルの関節にその火が当てられ始めた。

「まずは手足をもいでやれ」

スーツの男はタバコを取り出し、火を付けた。

ヴォランドは黙ってその姿を見ていた。

「そんなもの、ボクらには効かない。 無駄だよ」

ヴォランドは落ち着いた声で言った。

「おい、あまり嘗めた口をきくんじゃねえぞ。 ガキの声色を使って挑発してるつもりなんだろうがな」

スーツの男はタバコを指で弾き、セレスシャルの頭に投げつけた。火の付いたタバコは赤い光を飛び散らせて跳ねた。

「『組織』はな、虚仮にされたら終わりなんだよ。 示しってものが付かなくなくなるからな。 お前の手足をもいで街にばら撒きでもしなきゃ、その示しってのが付かねえんだ」

怒りの声を上げると、今度は作業していたトーチの男達に声を上げた。

「とっとと終わらせろ!」

「はい、やってます。 でも、こいつ傷ひとつ……」

トーチの男は汗を吹きながら、しどろもどろの言い訳をし始めた。

「馬鹿野郎――」

スーツの男の怒鳴り声は爆発音で途切れた。トーチを操っていた男達の持っていたタンクに次々と穴が開き、作業をしていた男達が火達磨になった。火達磨になった男達は、銃を持って囲んでいる男達に向かって助けを求める。

火を噴くタンクと火達磨の作業員は奇妙なダンスを続け、次々とギャングの男達をも火達磨にしていった。

「くそ、なんてこった。 落ち着け!」

スーツの男は叫び、右往左往する部下達を怒鳴りつける。しかし、火の恐怖はギャングの集団を只の怯える烏合の衆へと変えていた。

「水だ! 水を持ってくるんだ」

スーツの男の声など、誰も聞いていない。そして必死に叫ぶ男の目の前で、火達磨になった男が息絶えた。

その火達磨の男は床に溶けていき、まるで火の付いたオイルのようになって、スーツの男の足下に広がった。

「これは……」

広がったオイル状の火から、男は後ずさった。

「言ったよね。 無駄だって」

男は、その声が自分の耳元で聞こえたような気がした。

「―了―」